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下 野 薬 師 寺 址         栃木県下野市薬師寺1737

廻廊」址とその一部復元(左奥)。中央奥は、「戒壇」跡地の伝承がある六角堂。

道鏡の左遷先として知られるが、「本朝三戒壇」の一を備える大寺だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

道 鏡         栃木県下野市薬師寺1416

下野薬師寺」の別院と主張する(下野薬師寺は否定している)「龍興寺

の境内にある。6世紀末の円墳だが、道鏡が追葬されたと伝える。

 

 


【151】 「道鏡政権」の出現と崩壊

 

 

《第5期》 「道鏡政権」下、大寺院《荘園》の復活、農民墾田の後退。

  • 764年 藤原仲麻呂の乱(→仲麻呂敗死)。道鏡を大臣禅師とする。淳仁天皇を廃位し配流、孝謙太上天皇、称徳天皇として即位。
  • 765年 寺院以外の新墾田を禁止《→新興有力農民に不利》。道鏡を太政大臣禅師とする。
  • 766年 道鏡を法王とする。
  • 769年 道鏡事件(天皇即位の可否で政争)。
  • 770年 称徳天皇没。道鏡失脚、「下野薬師寺」へ左遷。

 

 光明皇太后という後ろ盾を失った仲麻呂は、孝謙太上天皇と対立し、いちかばちかの決戦に出ますが、あえなく敗死。同時に、仲麻呂の側についた淳仁天皇は廃位されて淡路島に流配、孝謙が重祚して称徳天皇として即位します。

 

 「道鏡政権」時代は、「仲麻呂政権」とは逆転して、大寺院に有利、新興《墾田農民》に不利になります。「道鏡政権」の「墾田禁止令」を見ておきましょう:

 


〔765年〕3月5日 天皇は次のように勅された。

 

 今聞くところによると、墾田は天平 15年の格〔墾田永年私財法〕によって任意に開墾者の私有財産とし、〔…〕みな永久に収公されないことになった。このため天下の人々は競って田を開発するようになり、勢力のある人々の間では、人々を追い立てるように開墾に使役し、貧しく困窮している人々は自活するひまもないほどである。


 そこで今後は一切開墾を禁止し、これ以上墾田の開発をさせてはならない。ただし寺院がすでに土地を占定して開墾を進めているものはこの限りでない。またその土地の人民が1ないし2町を開墾するのは、これを許す。』

宇治谷孟・訳註『続日本紀(中)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, pp.348-349.〔一部改〕

 

 

 問題は、「その土地の人民(地元に本籍のある者)が1,2町開墾」するのは許可する、という部分です。租税と自家消費のために耕作する小農民ならば、班給される口分田に加えて1,2町〔約1~2ha〕までの墾田が持てれば十分でしょう。しかし、そういう底辺の農民は、開墾をする力がないのです。

 

 農民のなかで、開墾に熱心だった階層は、従属的な労働力や、賃払いの雇人を入れ、また「賃租」に貸し出して、ある程度の土地を経営する人びとであったと考えられます。そうした人にとって、2町を越えられないとなると、経営拡大の障碍になるかもしれません。また、すでに「永年私財法」によって、開墾は事前に国司の許可を受けなければならないことになっていました。新たに面積で制限が設けられると、国司がそれを口実に許可を出し渋ることもありえます。


 したがって、この禁令は、《有力農民》に対して開発を抑制する結果になったと思われます。

 

 

下 野 薬 師 寺 址 (遠 景)       栃木県下野市薬師寺1737

下野薬師寺歴史館」屋上からの展望。下野薬師寺の伽藍配置は、

3棟の「金堂」らしき遺構、2棟の「講堂」らしき遺構が発掘

されるなど、なお謎が多い。

 

 

 

《第6期》 「道鏡政権」の倒壊で、農民墾田の復活。「奴婢制」の衰退。行基の顕彰・開墾熱の高揚。

  • 770年 称徳天皇没。道鏡失脚、左遷。光仁天皇即位。
  • 772年 墾田禁止を撤回
  • 773年 行基を顕彰し、菩提院ほかの荒廃6院に寺田を施入。
  • 789年 「奴婢従良法」に改正。

 

『772年10月の太政官符は、〔…〕墾田永年私財法の復活を命じた。〔…〕

 

 道鏡政権の復活にともない墾田永年私財法が復活し、田地拡大の方向が明らかになったのであるが、墾田の拡大には既存の溜池・用水網の修繕と新設が必要であった。〔ギトン註――朝廷が〕774年9月, 775年11月使者を五畿内に派遣し堤防と溜池を修理し築造させたことは、7年余りにわたる開墾禁止令が解かれ開墾熱が高まっていたことを物語っている。

 

 こうした開墾熱の高まりとともに、畿内各地に 15か所の溜池と 6か所の用水網を造成した行基の事績が回顧され、その顕彰につながったのである。

 

 773年11月、行基の6院が公田の施入にあずかった〔…〕光仁天皇は勅を発し、行基の修業の院 40余か所のうち、もともと田園を持たずまた官の施入田の例にあずからず〔寺田を支給されず――ギトン註〕荒廃した6院に対し、寺田の施入を命じた。大和國の菩提院・登美院・生馬院、河内國の石凝院、和泉國の高渚院に各所在郡の公田 3町を、河内國の山崎院に公田 2町を施すことにし、〔…〕没後 24年目にして行基の顕彰が行われたのである。

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.182-183.  

 

 

 これに先立ち、772年3月に「内供奉 ないぐぶ 十禅師」制が始まり、任命された初代10人のうち 3 ないし 4人が、『大僧正記』に記録された行基の高弟でした。

 

 「十禅師」制は、内道場〔内裏の内廷寺院〕に詰める禅師 10人を定めるもので、「僧綱」との兼任が禁止されました。つまり、この制度の導入は、内廷寺院の禅師を総入れ替えして、天皇に影響力を振るっていた大寺・高僧らを宮廷から遠ざけ、「道鏡政権」下の「僧綱政治」を払拭することに目的があったといえます。「十禅師」の半数近くが行基弟子で占められたことは、「道鏡」の宗教支配から脱却するにあたって、「行基集団」が宗教界への模範とされたことを意味します。

 

 行基の顕彰(じっさい上の名誉回復)は、朝廷外で、《有力農民》を中心とする開墾熱が、「道鏡政権」倒壊を機に、今までになく高まった現われでもあるでしょう。

 

 その関連で注意を引くのは、789年5月、太政官奏の允許によって「奴婢従良法」が成立していることです。「奴婢従良」とは、良民と奴婢の間に生まれた子は、すべて良民とする、という定め。「従賎」は奴婢とする定めです。倭国は「大化」以来「従賎」で来たのですが、ここで「従良」に大改正したのです。

 

 「大宝令」で、良民と奴婢の通婚は禁止されていたのですが、↑この太政官奏によると、良民はもとより、高位高官の子弟までが奴婢と姦通しており、由緒正しき名門の血統を継ぐ奴婢だとか、恥ずかしいことになっていると。それだけでなく、官僚としては、良民が減って奴婢が増えると財政を害する(奴婢は無税)という憂慮があったようです。

 

 こうして、朝廷は、「奴婢」制度導入から、一転して奴婢を減らす方向へ、大きく舵を切りました。それは、「奴婢」制度そのものが衰退してゆく・ひとつの通過点であったのです。そのことの経済的意味は、つぎの《第7期》に明らかになります。

 

 

《第7期》 農民墾田の盛行、「有力農民」の抬頭、奴婢制度の衰退→《荘園》経営の変化:荘民・荘村の成立。

  • 810年 藤原宮址「宮所庄」木簡:「佃」経営の困難←農民の非協力、旧慣出費嵩む。 ←《農民墾田の盛行》
  • 859年 元興寺領・近江・依智荘の「賃租」経営文書:有力農民の成長→中間管理職として起用、彼らと荘園主の利益は一体と考えて経営→「預作名」の編成。荘園所有者が首長層に依存しないで、直接に在地を掌握する体制。
  • 876年 東大寺領・近江・愛智荘の「佃」経営文書:農民を従属化(身分的隷属なし。班田農民)して、「佃」生産を原資に再生産の援助=「私出挙」を梃子に、「賃租」経営を中心として成功。 ←《首長層の没落、農民に対する再生産援助の困難》
  • 902年 「延喜荘園整理令」。以後、王朝国家的荘園類型(寄進地系、荘民、不輸不入)の登場。
  • 907年 「延喜格」:「奴婢制」廃止。


 飛鳥のような先進地では、墾田の盛行によって、農民たちは自力で経営してゆくことを覚え、また利口になるので、《荘園主》が望むようには労働力を提供しなくなります。平城京貴族の所有する《荘園》は、古い慣行や祭祀のための出費がかさみ、それを変えるすべを知らないので、収支困難に陥るのです。

 

 しかも、先進地では、もはや伝統的な地域「首長」には力も権威もありませんから、彼らの協力によって農民たちに言うことを聞かせることもできません。農民側から見れば、「首長」は富も力も失っているので、災害など、いざというときに頼りにならないのです。

 

 

海 龍 王 寺 西 金 堂 五 重 小 塔    奈良市法華寺北町897

高さ 4.01m。8世紀前半の作。海龍王寺は、もとは

光明「皇后宮」の内廷寺院であったことから、

五重小塔も、そこにあったものと考えられている。

 

 

 ここで想像をめぐらせておきたいのは、「奴婢」制度との関係です。班田農民の自営「口分田」の設備環境(灌漑など)が悪く、技術も拙劣であった時代には、生産性の高い「直営地」を中心に《荘園》経営は営まれていました。「直営地」に、周辺農民の雇賃労働を雇い入れるにせよ、区画を割り当てて「賃租」(小作)に出すにせよ、耕作作業を計画し〔といってもシキタリどおりにやるだけ〕指揮するのは領主側の荘官です。貴族・寺社の「直営地」には、奴婢労働も投入されていたと考えられます。

 

 しかし、農民の自家経営が成長してくると、領主の「直営地」経営は、むしろ生産性で劣るようになってくるのです。「奴婢」のような隷属労働・強制労働の非能率性が、それに拍車をかけます。

 

 そこで、東大寺、元興寺のような大寺院の《荘園》は、この時期になると「奴婢制」に見切りをつけて、最先進地では「直営地」を縮小し、農民経営の成長を伸ばしながら、そこに深く関与してゆくようになります。それが、近江の例です:

 

 その場合、《荘園主》は、所有地を分割して農民に貸し出し、「賃租,地子」(小作料)を取るのですが、「直営地」を無くしてしまうわけではありません。この・平安初期までの段階では、「直営地」も《荘園》経営上必須の役割をもっています。というのは、農業生産は年ごとの気候に左右されやすく、それは古い時代ほど顕著だからです。農民経営は、平年ならば自立して行なえても、天候不順となれば再生産(冬の食糧確保、来春の種籾確保、等々)にも困難をきたします。《荘園主》側が種籾などの動産を貯留しておいて、再生産の資材を提供しなければ、農民経営はやっていけないのです。近江東大寺、元興寺の《荘園》では、「直営地」を効率よく経営して原資を確保し、それを「賃租」農民に貸し出す「私出挙〔種穀の高利貸し〕」を行なっていました。「直営地」経営と農民「賃租地」の効率よい結合が、これら《荘園》経営が成功した秘訣だったのです。

 

 秘訣は、もうひとつありました。「賃租地」農民を組織して、かれらのあいだに一種の中間管理職を育て、責任を持たせることです。それが「預作名 よさくみょう」です。「賃租」(小作料)は「名 みょう」ごとに一括して、「名主 みょうしゅ」から取り立てます。しかし、《荘園主》は一方的に収奪するのではなく、経済的にも温情的にも「名主」の便宜をはかり、また、農民たちのなかでの「名主」の立場を強力に支持します。

 

 こうして、「荘民のいない荘園」であった古代的《初期荘園》のなかから、「荘民」と「荘村」をかかえこむ中世的《荘園》の様相が姿を現します。

 

 この過程は、「奴婢制」の衰退過程と並行しています。「奴婢制」の衰退と《荘園》の構造変化が、相互に因果をおよぼしていることは、見やすい道理です。907年には、「奴婢」制度は最終的に廃止されます。

 

 もちろん、これはあくまで、公的な律令身分制としての「奴婢」が廃止されたというにすぎません。事実上の隷属的労働は、中世を通じて(東北などでは昭和戦前まで)存続しました。『山椒大夫』の例を引くまでもないでしょう。たとえば、武装領主どうしの争いが絶えなかった中世では、勝者が敗者を殺さずに済む手段として、「奴とする」ことが、しばしば行なわれたのです。神社にかかわる「賎民」身分は、中世には商工民として半ば特権化します。

 

 商業の発達が「庸調」運搬を代替して、「運脚夫」の悲惨な運命が見られなくなり、成長した農民層が《荘園主》のもとで組織されてゆくころ、「行基集団」は、歴史的役割を終えて静かに消えていきました。それでも「行基49院」の一部では、障碍者・孤独者支援施設として、王朝の併呑に抵抗して平安朝に存続した「崑陽施院」、行基の「平等互恵」の思想を、灌漑水の分配方式と「だんじり」のなかに伝え続けた「久米田寺」など、単なる伝承を超えた精神が不死鳥のように脈打っているのです。

 

 

長 岡 宮 大 極 殿 址          京都府向日市鶏冠井町大極殿

長岡京は、桂川・淀川・宇治川の合流点近くに造営され、784年に

「平城京」から遷都した。宮殿は「難波宮」から移築された。

792年の水害を契機に「平安京」再遷都が計画され、794年実施。

「長岡京」「平安京」への首都移転は、奈良時代の陸上・官営交通

に代って、民間の水運が物流の中心となったことを意味する。




【152】 今後の計画について

 


 まことにながながしいシリーズにお付きあいいただき、ありがとうございました。

 

 奈良時代に8か月もかかってしまったので、今度は一気に中世に飛ぼうと思ったのですが、社会経済史的には「承平・天慶の乱」も抜かせないので思案中。重要なのはマサカドなんぞより圧倒的に純友ですが、純友の乱は、とにかく史料が乏しいのです。そのわりに、古代律令国家から中世「王朝国家」への転回点ですから、事前の下調べが膨大です。準備に、しばらくお時間をいただくことになります。



 

 

 

 

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