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 「ぶな広場」からは箱ヶ森に登り返して、雫石川・田沢湖線の側に下りる。

 

 

 

 

 箱ヶ森から「繋(つなぎ)温泉」に降りる道は、たいへん古くからある登山道で、宮澤賢治も、箱ヶ森にはこの道から登っていたふしがある。そのことは、のちほど詳しく触れよう。ただ、この道は現在、登山地図やガイドにはまったく出てこない。きのうの「北ノ沢林道」のように廃道化してはいないか? ふつうに歩いて行ける道なのか? それが問題だ。

 

 乢(たわ)〔峰と峰の間の最低点〕に降りた。箱ヶ森に登り返す。

 

 

 

 

 

 急斜面は、標高差 50㍍ほど。つづら折れになっていて楽だ。ブナ、ホオノキ、ハウチワカエデ、ムシカリ、チシマザサの樹相に加えて、ヤマボウシ↓がめだつ。

 

 

 

 

 頂上に近づくと平坦になる。シナノキが多い↓。


 

 

 


 「箱ヶ森 865m」に到着。

 

 

 

 

 頂上は、ちょっとした草原になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 東のほうにだけ展望がある↓。

 

 


 

 

『箱が森 あまりにしづむ ながこゝろ いまだに 海にのぞめるごとく。

 

 箱が森 枯れし木立(こだち)にふみ迷ひ 遠きむかしの母をおもへり。』

宮澤賢治『雑誌発表の短歌』より  

 

 

 山頂にはホオノキが多い。


 



 

『朝の厚朴(ほう) 嘆(たゝ)へて 谷に入りしより 暮(くれ)は さびしく別れするなり。』

宮澤賢治『雑誌発表の短歌』より  

 

 ホオノキは、被子植物のなかでは古い形質をもった原始的な部類なのだそうだ。葉も花も大ぶりで、この植物を眺めていると、なにか自分の中にある原生生物的なものに共鳴するのを感じる。賢治は、ホオノキがことのほか気に入っていた。

 

 

『この峯や谷は実に私が刻んだのです。そのけわしい処にはわが獣のかなしみが凝って出来た雲が流れその谷底には茨や様々の灌木が暗くも被(かぶ)さりました。雨の降った日にこの中のほゝ(ホオ)の花が一斉に咲きました。

 

  けわしくも刻むこゝろのみねみねにさきわたりたるほゝの花はも。

 

 又、

 

  こゝはこれ惑(まど)ふ木立のなかならず忍びを習ふ春の道場。

 

 ほゝの花は白く山羊の乳のやうにしめやかにその蕋(しべ)は黄金(きん)色に輝きます。』

宮澤賢治〔峯や谷は〕より  

 

 

 〔峯や谷は〕を改稿して小説化した↓つぎの作品では、ホオノキを「マグノリア」と呼んで称賛している。

 

 

『諒安は眼を疑ひました。そのいちめんの山谷の刻みにいちめんまっ白にマグノリアの木の花が咲いてゐるのでした。その日のあたるところは銀と見え陰になるところは雪のきれと思はれたのです。

 

 (けはしくも刻むこゝろの峯々に いま咲きそむるマグノリアかも。)

 

  斯う云ふ声がどこからかはっきり聞えて来ました。諒安は心も明るくあたりを見まはしました。

 

  すぐ向ふに一本の大きなほうの木がありました。その下に二人の子供が幹を間にして立ってゐるのでした。

 

 (あゝさっきから歌ってゐたのはあの子供らだ。けれどもあれはどうもたゞの子供らではないぞ。)諒安はよくそっちを見ました。

 

  その子供らは羅(うすもの)をつけ瓔珞をかざり日光に光り、すべて断食のあけがたの夢のやうでした。

宮澤賢治『文語詩稿一百篇』より  

 

 「羅」は古代の目の荒い織物で、肌が透けて見える “天使のころも”。今では「児童ポルノ」のレッテルを貼られて発禁にされそうだ。しかし、そうした「生きもの」としての原初感覚に根ざしてこそ、賢治にとっての仏教はありえたのだと思う。

 

 

 

 

 きのう南昌山の頂上にあったのと同じ、獅子舞の頭のようなものがある↓。龍神?? ‥わからないが、ここでは、大切に囲いに入れられている。前に灯籠もある。

 

 

 

 


 「繋温泉」に降りる道↓。「つなぎ♨方面」という道標もある。これなら行けそうだ。

 

 

 

 

 

 写真で見ると心地よく過ごせそうな場所だが、困ったことに、飛んで来る虫が多い。ここはわが領域とばかりに乱舞している。とても休憩はできないので、山頂広場は写真だけ撮って通過。


 「つなぎ温泉道」を下る途中も、やはり虫が多い。蚊も、強烈なのが襲ってきた。どうして箱ヶ森は虫が多いのだろう。

 

 地形図を見ると、644㍍標高点付近で、路は凹地を通っている。どんな地形が見られるかと期待したが、何の変哲もない森の中だった。ともかく急坂は無く、ゆるやかな下りがつづくのはありがたい。速力が出た。

 

 標高360メートル付近↓。路が広くなって車道幅になった。振り返れば「登山口」の標示板がある。

 

 

 

 


 「繋温泉」が見えた。

 

 

 

 

 正面に岩手山

 

 

 

 

 岩手山の手前に「七ツ森」が見える。その下は、御所湖にかかる繋大橋。

 

 

 

 

『箱が森 たやすきことゝ 来しかども 七つ森ゆゑ得超へかねつも。

 

 箱が森 七つ森とは 仲あしき なれなるをもて かゝる たはぶれ。

 

 をきなぐさ とりてかざせど 七つ森 雲のこなたにひねくれし顔。

 

 七つ森 青鉛筆を さゝぐれば にはかに 機嫌を直したりけり。

 

    〔…〕

 

 たそがれの 汁にとつぷり ひたり入る しら雲と河と 七つの丘と。』

宮澤賢治『雑誌発表の短歌』より  


 

  ↑この連作短歌は、「盛岡高等農林学校」在学中のものだが、賢治たちが「七ツ森」のほうから来て、「繋」から「箱ヶ森」にアプローチし、だんだん高度を上げてゆくさまが読みとれる。

 

 箱ヶ森」に登りにくいのは、「七ツ森」と「箱ヶ森」の仲が悪いからだという。「七ツ森」は、遠ざかって行こうとすると、ひねくれて怒る。賢治たちを引っぱって、登らせないようにしていると云うのだろうか。オキナグサを帽子にかざしてオドケてやっても、機嫌を直さない。ところが、「青鉛筆を捧げ」ると、とたんに機嫌を直したという。「青鉛筆を捧げる」とは、遠くなったのと日差しが移ったのとで、「七ツ森」が青く見えるようになったのだろう。

 

 山頂に近づくころには、「たそがれ」になっている。白雲・雫石川七ツ森の雄大な風景を俯瞰しているのがわかる。当時は、「御所湖」はもちろん無かった。「御所湖」は最近造られた人口湖だ。当時は、雫石川が深い谷間を流れていたはずだ。

 

 これらの歌からすると、当時は、「箱ヶ森」も現在ほど密に樹木が繁ってはいなくて、かなり上のほうからでも、「七ツ森」と雫石川の谷間を見ることができた。当時は、麓の住民が日常的に入山して、薪や食料を取っていたからだ。盗伐も、事実上多かっただろう。今は山に人が入らないから密林化しているのだ。

 

 山頂近くで「たそがれ」――ということは、その夜は山で野宿だろうか? そのことが前から疑問だったのだが、今回歩いてみて解決した。頂上から車道終点まで約1時間、そこから「繋」まで約1時間。当時の学生の脚なら、山頂から1時間以内に下山できただろう。野宿するまでもない。陽が陰ってから下山しても、明るいうちに温泉場に降りられるのだ。

 


 


 

 御所湖の岸まで下りてきた。まだ日は高い。予定より1本早いバスにまにあった。

 

 

 踏査記録⇒:YAMAP



 

 

 

タイムレコード 20230620 [無印は気圧高度]
 (3)から - 1244「ぶな広場」[812m]1258  - 1310乢最低点[710mMAP] - 1341箱ヶ森[863m]1349  - 1405休憩[801mGPS]1426 - 1526繋からの車道終点[371m 360mMAP]1530 - 1608「繋温泉」バス停[208m 180mMAP]。