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 樹々のあいだに「毒ヶ森・東沢」が見えた。そこが目ざす「ドンヅマリ」だ。「ドンヅマリ地点」から毒ヶ森方向(左方)へ「東沢」を詰めてゆく。

 

 

 

 

 

 

 沢に降りて遡行すると、すぐ視界が開ける。沢底に土砂が溜まって平らになっている。狭い草原になっている。さっきの廃道よりもずっと歩きやすい。人の踏み跡は、まったく無いが。

 

 

 

 

 

 右の崖を見上げると標高差 30メートルくらい↓。

 

 

 

 

 崖の上に「志波(しわ)三山縦走路」があるはずだ。もう少し沢を詰めてから右に上がろう。

 

 

 

 

 

 崖が低くなってきた↓。そろそろいいだろう。ここから斜面を直登する。

 

 

 

 

 賢治メルヘンの一節を思い出した。賢治メルヘンは、知る人が読めば恐いメルヘンだ。グリムの比ではない。

 

 

『淵沢小十郎はすがめの赭黒(あかぐろ)いごりごりしたおやじで〔…〕夏なら菩提樹(マダ)の皮でこさえたけらを着てはむばきをはき生蕃(せいばん)の使うような山刀(なた)とポルトガル伝来というような大きな重い鉄砲をもってたくましい黄いろな犬をつれてなめとこ山からしどけ沢から三つ又からサッカイの山からマミ穴森から白沢からまるで縦横にあるいた。

 

 木がいっぱい生えているから谷を溯(のぼ)っているとまるで青黒いトンネルの中を行くようで時にはぱっと緑と黄金(きん)いろに明るくなることもあればそこら中が花が咲いたように日光が落ちていることもある。そこを小十郎が、まるで自分の座敷の中を歩いているというふうでゆっくりのっしのっしとやって行く。

 

 犬はさきに立って崖を横這(よこばい)に走ったりざぶんと水にかけ込んだり淵ののろのろした気味の悪いとこをもう一生けん命に泳いでやっと向うの岩にのぼるとからだをぶるぶるっとして毛をたてて水をふるい落しそれから鼻をしかめて主人の来るのを待っている。小十郎は膝から上にまるで屏風のような白い波をたてながらコンパスのように足を抜き差しして口を少し曲げながらやって来る。〔…〕

 

 なめとこ山あたりの熊は小十郎をすきなのだ。その証拠には熊どもは小十郎がぼちゃぼちゃ谷をこいだり谷の岸の細い平らないっぱいにあざみなどの生えているとこを通るときはだまって高いとこから見送っているのだ。木の上から両手で枝にとりついたり崖の上で膝をかかえて座ったりしておもしろそうに小十郎を見送っているのだ。

宮澤賢治『なめとこ山の熊』より  

 

 

 ↑熊は人間を好きかもしれないが、人間としては、‥マタギの小十郎でもないかぎり‥、熊にはあまり近づいてほしくない。

 

 「三山縦走路」に出た↓。標識もある。

 

 

 

 


 「毒ヶ森分岐」のほうへ向かう。ブナ、カツラ、ホオノキ、ハウチワカエデなどの落葉樹林。下生えは、ムシカリ

 

 

 

 

 

 沢に近いので、トチノキもある↓。

 

 

 

 

 

 「毒ヶ森分岐」に到着↓。


 

 


 毒ヶ森のほうへ行ってみる。さっきから、毒ヶ森の写真を撮したくて探しているのだが、樹林の中で全然見えない。樹冠がぽっかり空いたスポットは、無いだろうか。

 

 

 

 

 やはり無理なようだ。毒ヶ森は、すぐ目の前のはず。なのに圧倒的な樹叢にはばまれて、山の輪郭さえ見えない。引き返して分岐点に戻る。

 

 

 

 

 南昌山方面へ向かう。


 

 

 

 樹間から赤林山が見える↓。


 

 


 ブナ林のゆるやかな登り。

 

 

 

 

 


 ハウチワカエデ↓。

 

 



 ムシカリ(オオカメノキ)↓。

 

 

 

 

 「ノロキ山 742m」に到着。

 

 





 

 「ノロキ山」は、最近「三山縦走路」を作った時に付けた名前だと思う。方言で、蝋石(ろうせき)のことを「のろぎ」と言う。先ほど通過した「南昌第1トンネル」入口の下あたりの谷間で、「のろぎ」や水晶などの鉱物が拾えるそうだ。「石っこ賢さん」と呼ばれた中学生時代の宮澤賢治は、親友の藤原健次郎と、そのあたりの「北ノ沢」へよく鉱物採集に出かけている。(健次郎はまもなく、中学3年でチフスに罹り亡くなっている。賢治が「石っ子」になったのは、死んだ健次郎が彼の中で生き続けたのだろうか)

 

『のろぎ山 のろぎをとれば いたゞきに
 黒雲を追ふ その風ぬるし』

 

『のろぎ山 のろぎをとりに 行かずやと

 またもその子に さそはれにけり

宮澤賢治『歌稿B』より  

 

 

 賢治は、この一帯の山々をばくぜんと指して「のろぎ山」と呼んでいたようだ。個々の頂きは無名峰なのだ。この 742mピークを「ノロキ」と名づけたのは、最近の地元の岳人だろう。

 

 ちなみに、国土地理院地形図で無名のピークは、昔から地元でも呼び名が無かったのだと思っていい。戦前の陸地測量部は陸軍省の管轄で、じつに綿密な現地調査を行なっていた。いつ内乱や敵の上陸があっても対処できるようにするためだったろう。たとえば、賢治童話にも出てくる岩手山麓の「狼(おいの)森」「笊(ざる)森」「早坂森」「盗(ぬすっと)森」は、補助等高線まで使って正確に記されている。賢治が童話を書くより前に、作図されたものだ。標高差 20メートルに満たないコブなのだから、ふつうに測量だけしていれば落としてしまう。

 

 



 毒ヶ森↑。樹間から、テッペンだけどうにか見えた。ここから見えないと、きょうはもう見えない。あした、赤林山から見えないかどうか、行ってみよう。

 

 

 

 

 「薬師岳 771m」に到着↓。やはり、ブナ林の中。展望なし。

 

 

 

 

 

 ↓南昌山へは、あとわずかだ。いままでの樹種に加えて、ミズナラ、イヌブナ、イタヤカエデ、ハンノキ、アカマツ、クリが目立ってきた。南面の樹相に変わってきたのだろう。

 

 

 

 

 

 また赤林山が見えた↓。

 

 

 

 

 南昌山 847.5m」に到着。きょうの登りは、これで終り。

 

 

 

 

 

 石がたくさん立ててある↓。獅子舞の獅子の頭のようなものも置いてある。幣(ぬさ)が懸かっている。どういう信仰かわからないが、けさ麓で見た案内板((1)に写真あり)によると、「南昌山神社」はもと山頂に鎮座していた青龍権現社で、坂上田村麻呂が晴天を祈った(雨乞いの逆)という伝説があるそうだ。江戸時代には「徳ヶ森神社」と称されたという。

 

 東北では、「日照りに不作無し」という諺があるほどで、稲作にとって恐いのは、多雨・冷夏と冷害。雨は少なめでもよいのだそうだ。

 

 つまり、もともとはこの山が「ドクが森」だったのだ。明治時代に「南昌山」に改称された。それで、以後、奥の峰が「毒ヶ森」と呼ばれるようになったのだろう。

 

 なお、「毒ヶ森」に「ぶすがもり」とルビを振っている登山ガイドがあるが、もとは「徳ヶ森」。「ぶす」と読むのは全く間違えだ。

 

 

 

 

 南面が刈り払われていて、平野部に向かって展望がある。

 

 


 


 右端に早池峰(はやちね)も見える↑。

 

 南昌山からの下りはわけがない。急斜面だが、遊歩道並みの階段路が整備されていて、あっというまに登山口に着いてしまった。

 

 

 


 車道歩きで「矢巾温泉」まで戻る。車道はふつうはおもしろくないのだが、ものすごい直登直降(写真を出していないだけで、ほんとにものすごい径だった)のあとでは、車道が心底ありがたく思える。

 

 

 

 

 

 サワグルミが、花穂を垂れ下げている。

 

『うち青む

 春のくるみの枝々に

 黄金(きん)のあか児(ご)
        ゆらぎかゝれり』

 

『くるみの木黄金の

 あかごを吐かんとて

   波立つ枝を朝日にのばす』

 

『くるみの木

   黄金のあかごら

         いまだ来ず

  さゆらぐ梢

     あさ日を喰めり

宮澤賢治「保阪嘉内あて書簡」より  

 

 トチノキも実をつけている↓。

 


 


 

 バスの出る「矢巾営業所」へ向かう途中、平野の向うの北上の山々がよく見えた。

 

 

 

 

 早池峰も、南昌山頂から見た時よりよく見える↓。



 

 

 踏査記録⇒:yamareco



 

 

 

タイムレコード 20230619 [無印は気圧高度]
 (1)から - 1208「毒ヶ森・東沢」出合い[571m] - 1236「志波三山縦走路」出合い[624m]  - 1253「毒ヶ森分岐」※[680mGPS] - 1255引返し点[689mGPS]954 - 1257「毒ヶ森分岐」※ - 1315「ノロキ山」[736m 742mMAP]1335  - 1401廃道分岐[623m] - 1422「薬師岳」[774m 771mMAP]1436 - 1501南昌山[846m]1517 - 1542「南昌山登山口」[618m]1545 - 1630「北ノ沢林道」入口 - 1641「矢巾温泉」バス停1700 - 1736岩手県交通「矢巾営業所」。

 

 

 

 《イーハトーブの秘境から(3)》につづく。