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五島列島・宇久島の北端 対馬瀬    朝廷鎮圧軍に敗退した藤原広嗣

五島列島から新羅(朝鮮半島)への亡命を試みたが、済州島近海で

強風に遭い、五島に引き返して捕縛された。

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 「浄御原令」官制施行。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受ける。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
  • 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。行基、和泉國大鳥郡に「神鳳寺」、若草山に「天地院」を建立か。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
  • 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
  • 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
  • 723年 「三世一身の法」。藤原房前興福寺に施薬院・悲田院を設置。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
  • 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731)。
  • 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池」を建立、「檜尾池」を築造。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」および2池を起工。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。

《第Ⅲ期》 731-749 孝謙天皇に譲位するまで。

  • 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)7件を起工。
  • 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか4院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。山城國に「山崎院」ほか2院を建立。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 733年 行基、河内國に「枚方院」ほか1院を起工ないし建立。
  • 734年 行基、和泉・山城・摂津國に「久米多院」ほか4院・付属施設5件(貯水池・水路)を起工ないし建立。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。行基、和泉・大和國に「鶴田池院」ほか2院・1池を起工。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児」徴集を停止。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏(るしゃなぶつ)」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁(くに)」を都と定め造営開始。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立。
  • 741年 諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した 750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 行基、朝廷に「天平十三年記」を提出(行基集団の公認。官民提携の成立)。「紫香楽(しがらき)」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都か。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。
  • 746年 平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。

 

 

韓 国・済 州 島  城山日出峰   Photo by andreas-felske on Unsplash.

敗れた藤原広嗣らは、五島列島から新羅への渡航を試みたが、

済州島に近づいたものの強風のため接岸できず、引き返した。

 

 


【89】 藤原広嗣の乱――火のない処に煙を立てる

 

 

 740年8月29日付の広嗣の「上表文」を受け取った朝廷は、9月3日に広嗣討伐の「勅」を下します。大宰府から平城京までの距離を考えれば(※)、「上表文」が届いた日か、せいぜいその翌日に「討伐」を決定していることになります。『続日本紀』には、その間に他の記事はありません。

 

 註※ 律令・駅制では、通常の駅使は1日 8駅以上、急使は 10駅以上を移動することと定められており(wiki 駅路 wiki 駅伝制)、山陽道「山崎」から大宰府「久爾」まで 58駅ありました。駅間距離は、駅制所定の 30里(約 16km)に対して、奈良時代の山陽道では、播磨以西の 51駅においては 13里(約 7km)程度でした(wiki 山陽道)。したがって、概算すると、播磨以西は 357km、「山崎」から播磨まで 8駅とすれば 128km となります。「山崎」から平城宮までは、直線距離で約 24km、JR「山城多賀」経由の折れ線で約 28km です。したがって、大宰府から平城宮までの駅路距離は 357+128+28=513km。駅使の速さ:通常 8×16=128km/日, 急使 10×16=160km/日 で割って、大宰府から平城京まで、通常駅使なら約4日、急使なら約3日強の行程です。緊急でもないことがらの上表文送達に急使を使ったとは思えませんから、広嗣の上表の場合は、まる4日、あしかけ5日を要したと思われます。なお、旧暦なので 8月も 30日までです。

 

 いったい、これはどういうことでしょうか? 広嗣は、たんに不敬な上表文を提出しただけだった。その内容はトチ狂っていたかもしれないし、広嗣の動機も錯誤そのものだった。ところが、それを見たとたんに、聖武天皇らは、広嗣が反乱を起こしたと断定し、討伐の「勅」を下し、討伐軍を編制して九州に向かわせた。

 

 それが、太政官での評議を経た「詔(みことのり)」ではなく天皇が単独で下す「勅(みことのり)」であったことは、聖武天皇と側近の者(橘諸兄など)だけの協議で決定されたことを意味します。

 

 ‥‥ということは、藤原広嗣の「乱」というものは、ほんとうにあったのかどうか疑わしい。たんなる出過ぎた批判文を見ただけで聖武諸兄政権は、広嗣を叛徒、謀反人と決めつけて、ただちに 1万7000人の討伐軍を差し向けたことになります。

 

 いやいや、そんなことはない。広嗣は、上表文と同時に兵を起こして、京へ攻め上る準備を進めていたのだ。――そう言うかもしれません。じつは、日本史学者の大部分も、錯覚をしているので、そう言います。そればかりか、広嗣の上表文には、「玄昉・真備を除かなければ大軍を率いて攻め上る」と書かれていた。などと言う学者もいます。

 

 しかし、『続日本紀』掲載の広嗣「上表文」大意にも、その他の記事にも、そんなことはまったく書かれていません。「上表文」の原文は残っていませんから、広嗣が「攻め上る」と予告したなどというのは、後世の人が考え出した捏造です。おそらく、どこかの神社の伝承にそういうことが書いてあるのでしょうけれども、藤原広嗣に関する後世の伝承は――史上有名な人物の伝承が一般にそうであるように――誇張が多くて、とても信用できるものではないと私は考えます。

 

 

平城宮・ 衛 士(えじ) 隊 の再現      平城京天平祭2023 より。

 

 

 いちど落ち着いて考えてみてください。古代には、「駅使」よりも速い通信手段は日本には存在しなかったのです。メールも電話も郵便もないのです。「駅使」を使うことができるのは、国司のような特別な人間だけ。しかも、特定の公的目的にのみ使えるのです。当面の「大宰府」に限って言えば、「駅使」を使える者は、藤原広嗣のほかにはいないのです。

 

 もしも仮に、広嗣が挙兵して反乱を準備していたとしても(そんな事実が無かったことは、のちほど説明します)、「上表文」と「討伐の勅」のあいだに、朝廷はどうやって、それを知ることができるのでしょうか ?! 「広嗣は、兵を集めて、京へ攻め上る準備をしていた」などという憶測は、「討伐の勅」を正当化する根拠にはなりません。朝廷には、そんなことを知りうる手段がないからです。

 

 1945年までの日本の学者は、天皇は神だから、世界で起きていることを瞬時に知ることができると思っていたかもしれません。戦後の学者は、現代文明に馴れてしまっているために、なんとなく、九州で起きている事柄を数時間後には近畿で知ることができると思いこんでいるのでしょう。そのために、こんな錯覚が未だに気づかれないでいるのだと私は考えます。

 

 それでは、聖武諸兄政権は、なぜ広嗣を叛徒・謀反人と決めつけたのか? 「長屋王の変」と同じような陰謀なのか? ‥‥私はそうは思いません。前節で詳しく述べたように、諸兄政権は広嗣を決して冷遇していなかった。むしろ、「4子」亡き後の藤原氏の再興を助ける意味から、広嗣を信認して重要な役割を宛てていた。諸兄政権が広嗣に害意を持つ理由がないのです。

 

 むしろ、彼らの迅速すぎる措置は、京とその周辺での人心の動揺を恐れたことが大きいと思います。もちろん、聖武天皇ら皇族・貴族の過剰な保身もあるでしょう。しかし、橘諸兄という現実政治家がそこにいる以上、根拠のない危惧感だけでこのような重大な決定をするとは思えないのです。そして、橘諸兄という人の、良くも悪くも迅速な決断力が、批判の「上表文」が届いた日に「討伐」を決定するという目覚ましい果断をさせたのだと考えます。

 

 つまり、730年以来・平城京の内外に広がっていた人心の荒廃(アノミー)が、この「乱の討伐」の背景にもあると私は考えるのです。この「広嗣の乱」が平定されたあとで、諸兄政権は、死罪26人、官位没収5人、流罪47人、徒刑32人、杖刑177人の大量処刑を実施しています(『続日本紀』741年1月22日)。その大部分は、平城京での検挙と思われます。「乱」の平定にしては死罪が少なく、流罪・杖刑が多いのは、じっさいに大宰府の広嗣に呼応して京で蜂起やその謀議があったわけではなく、広嗣の縁者やその「支党」と目された者に広く嫌疑をかけて、不満分子を抑圧する趣旨で粛清したものと考えられます。

 

  「広嗣の乱」平定において、聖武諸兄政権の意図は、派兵戦争以上に京都(平城京)での不満分子粛清にあったと考えます。

 

 

裲襠[うちかけ]式挂甲(左)と 綿襖甲[めんおうこう](右) 

奈良時代の武官と兵士          

日本服飾史(https://costume.iz2.or.jp/column/554.html) 

 

 

 さて、「乱」の最初に戻って、740年9月3日の「討伐の勅」を見ておきましょう:

 


『9月3日 藤原広嗣がついに兵を起こして反(そむ)いた。勅(みことのり)して、従4位上・大野東人を大将軍とし、従5位上・紀飯麻呂を副将軍とした。軍監・軍曹各4人を任命した。東海・東山・山陰・山陽・南海の5道の兵士 1万7000人を徴発して大野東人らに委ね、東人には節刀を持たせて討伐させることとした。

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.395.〔一部改〕

 

 

 「勅」の内容は、↑「勅して」から後です。「藤原……反いた。」は、『続日本紀』の編者が付けた説明文です(青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,p.365 註四三。「討伐の勅」が出ているのに、その根拠となるべき・広嗣が挙兵した・反乱を起こした等の記録が存在しないので、つじつまを合わせるために編者が説明を加えたのでしょう。しかしそれは、討伐した ⇒ ∴ 反乱があったはず――という錯覚に基いていることは、上で説明しました。もうこの段階から誤解が始まっているのです。

 

 「節刀」は、出征する将軍や遣唐使に、任命の証拠として天皇から下賜される刀。任務終了後は返すことになっていました。「1万7000人」はものすごい人数ですが、平城京に集結させてから出発したとは考えられません。パンデミックのせいで、各國の軍団は 739年6月に解散していたので、帰農していた兵士を再度集めるには時間がかかったと思われるからです。しかし、東人らは、9月18日頃までには兵を率いて長門國豊浦郡〔現・下関市等〕に到着しています〔9/21 付で、東人の長門からの奏状に応える勅が発せられている〕。おそらく、京にいる兵士を集めて先発し、道々で沿國の兵士を加えていったのでしょう。

 

 


【90】 奇襲する「官軍」、寝返りを競う兵士たち

 

 

 本州側の「長門」に到着した大野東人らは、豊浦郡少領〔郡司第2位〕に命じて 9月21日精兵40人を率いて北九州に上陸させ、22日には勅使2名に率いられた隼人24人・軍士4000人が後続しています。この先発隊は、板櫃〔現・北九州市小倉北区〕・登美〔門司区付近〕・京都〔行橋市付近〕の3鎮を奇襲して、板櫃鎮の小長〔鎮の次官〕と京都郡の鎮長を殺害し、営兵7767人を捕虜にしました。板櫃鎮の大長は矢傷を負って逃亡。官軍は板櫃鎮の兵営を占領して陣取ります。

 

 この記述を見ると、3鎮には平常通りに営兵が詰めていたわけで、広嗣の命令で挙兵したような形跡はありません。パンデミックで各國の軍団は解散していたのですが、大宰府とその管内の九州各國は例外で、朝廷は軍団を維持させていました。

 

 平常通りに駐屯していたら、いきなり官軍が襲ってきたのですから、3鎮の将兵は、さぞかしびっくりしたことでしょう。抵抗する暇もなく将長は討ち取られ、兵は捕獲されたものと思われます。9月24日付の「大将軍・大野東人」の朝廷あて報告:



〔…〕東人らは後からやってくる兵たちを率いて、2隊のあとに出発して海を渡る予定です。また、間諜(うかみ)の報告によると、「広嗣は遠珂郡〔現・福岡県遠賀郡~北九州市西部〕の郡家を軍営に改造して、弩(いしゆみ)を儲けている。そして、烽火(のろし)を上げて国内の兵を徴発している」とのことです。』

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.397.〔一部改〕

 

 

 21-22日の急襲の報を聞いた大宰府の藤原広嗣は、ようやく北九州市付近の郡役所を陣地として武器を備蓄し、軍勢を集めはじめた、というのです。それが 9月24日のことです。それは、朝廷に「反乱」と見なされることとなる上表文を送ったのち、約1か月後の状況です。

 

 これを見ても、広嗣には、反乱を起こす気など、まったく無かったことが明らかでしょう。

 

 「間諜(うかみ)」は、「うかがい・みる」から派生した言葉で、古代においては、「斥候、偵察」およびそれをする人を指します。スパイではありません。

 

 「弩(いしゆみ)」は、投石器。この時代の軍隊の主要な兵器であったようです。弓矢を扱うには熟練を要しますが、投石器はシロウトでも扱えるからでしょう。

 

 ちなみに、この時代の軍隊は、班田農民から人数割り当てで駆り集められたシロウトの集団です。中世の武士団のような職業軍人とは違います。訓練といっても、号令を聞いて整列するとか、整列して行進するといったものが中心で、武器の扱いなどはろくに教えられていません。東国出身の「防人(さきもり)」や南九州の「隼人(はやと)」を朝廷が重宝したのは、彼らは半農半猟で、弓矢を扱う技能を保持していたからです。


 

鏡 山 と 虹ノ松原          佐賀県唐津市

捕えられた藤原広嗣・綱手は、唐津で処刑された。鏡山の西麓に

「鏡神社」、東麓に「無怨寺(現・大村神社)」があり広嗣の霊を祀る

 

 

 こうして、何か異変が起きたらしい、という噂が広まると、続々と発生した現象は、誰も彼もが我れ先にと競う・朝廷軍への降伏・帰順です。「反乱」が始まる前に、まず “鎮圧” が行なわれ、つづいて「投降」が雪崩をうったのです。なかには、自分の上司の首級を挙げて、“逆賊” の首を取ったと称して恩を売ってくる者もいます。かくて、「反乱」は既成事実化されました。

 

 大野東人の 9月25日付朝廷あて報告:

 


『豊前國京都(みやこ)〔現・福岡県行橋市北部等〕大領〔郡司の長官〕〔…〕は兵五百騎、仲津郡〔現・行橋市南部等〕擬少領〔郡司・次官の候補者。朝廷で審査中――ギトン註〕无位(むい)膳東人は兵八十人、下野郡〔現・大分県中津市等〕擬少領・无位・勇山伎美麻呂、築城郡〔現・福岡県築上郡の一部等〕擬領〔小郡の長官候補者〕外大初位・佐伯豊石は兵七十人を率ゐて、官軍に来帰る。又、豊前國百姓・豊国秋山ら、逆賊・三田塩籠〔板櫃鎮の司令官〕を殺す。又、上毛郡〔現・福岡県豊前市等〕擬大領・紀乎麻呂ら三人、共に謀りて賊徒が首四級を斬る。

青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,1990,岩波書店,p.369. 

 

 

 「擬」の付いた官職の人が投降者に多いのは、郡司の役人になるために、国司の推薦を受けて式部省で審査中の人で、官位もこれから付くので「無位」。彼らは、この・降ってわいた功名の機会を利用して、朝廷の歓心を買い、無事に任官するばかりか、アワよくば推薦以上の官職を得ようと、ハッスルしているのです。

 

 官職に就いていない単なる「百姓」たちも、この機会に官途の糸口をつかもう、あるいは土地や奴隷を褒美にもらって御大尽になろうと躍起です。

 

 

 

【91】 藤原広嗣の乱――「官軍」がアジビラを散布

 

 

 さて、朝廷は、征討軍を九州に差し向けるのと並行して、広嗣討伐を命ずる「勅符」を九州各國に送っていましたが、この1回目の「勅符」は、送使が途中で捕われたり殺されたりして、うまく届かなかったようです。おそらく、通過する地域に、大宰府に忠誠を示す役人がいたり、異変に気づいた広嗣が手を回したりしたのでしょう。もともと「大宰府」管内の九州諸國は、古田武彦氏の「九州王朝説」も唱えられているように、本州の大和朝廷からは半ば独立したまとまりをもっていましたから、朝廷以上に「大宰府」に忠誠を誓う地方有力者も、まだいたのでしょう。

 

 「勅符」とは、通常の官僚機構を経ずに太政官が直接送る勅令文書で、養老律令〔757年施行〕では廃止されています。「広嗣討伐」の指令〔740年9月3日過ぎ〕は、「大宰府」を経由する通常の送り方をすると握りつぶされてしまいますから、朝廷の送使が「勅符」を直接各國に持って行くやりかたをしたわけです。それでも、途中で妨害されて届かなかった。そのことを朝廷が知ったのは、9月25日過ぎでしょう。

 

 そこで、朝廷は、2回目の「勅符」を、今度は数千通、各國「国司」だけでなく、その下の郡司や、さらにその下の「諸國官人百姓等」にあてて直接「送使」を送って届けます。この 9月29日付「勅符」は、『続日本紀』に掲載されています:

 


『9月29日 筑紫府〔=大宰府〕管内諸國の官人・人民らに勅する。

 

 反逆者・広嗣は小さい時から凶悪であって、〔…〕今や擅(ほしいまま)に狂逆をなして人民を擾乱していると聞く。〔…〕このことはすでに勅符を送って、そちらの國府に知らせたが、聞くところによると、叛逆する者がいて、送使を捕えて殺害し、勅が広まらないようにしているらしい。そこで、ここに2度目の勅符数千通を遣(つか)わして、諸國に散布させる。

 

 この勅を見た者は、すみやかに承知せよ。たとえ、もとから広嗣と心を同じくして共謀した者であっても、いま心を改めて過ちを悔い、広嗣を斬殺して人民を安心させた者には、白丁〔無位の者〕ならば「五位」以上の官位を与え、すでに官位のある者はその地位に応じて「五位」よりもさらに高い官位を授けよう。もし本人が殺されたら、子孫に官位を与えよう。忠臣・義士は速やかにこの勅を実行せよ。討伐の大軍が、これから続々と入って行くから、情勢をわきまえるがよい。

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, pp.397-398.〔一部改〕

 

 

 この2回目の「勅符」が九州各國の官人・人民に届いたのは、10月4日過ぎと思われます。この時点では、北九州の山口県沿いの3鎮が「官軍」の奇襲を受けて占領され、そこから異変を知らせる烽火が上がっていました。周辺の諸郡で、上長を殺して「官軍」に帰順する者が相次いでいました。しかし、「大宰府」の藤原広嗣らは、挙兵をした形跡がありません。


 

板 櫃 川   (Kugel - Wikimedia)  北九州市八幡東区高見

 

 

 

【92】 藤原広嗣の乱――板櫃川の “対戦”

 

 

 10月8日ころ、現・小倉北区の「板櫃川」を挟んで、大野東人の「官軍」と、広嗣率いる大宰府軍「1万許騎」が対峙していますが(板櫃川の対戦)、その際に「官軍」側に寝返った者の情報によると、広嗣軍は、「鞍手道」「田河道」「豊後國」の三方から関門海峡に集結する計画で軍を進めていたと言います(10月9日付・大野東人言上)。しかし、この情報はたいへんに疑わしいと私は考えます。

 

 「鞍手道」は、「大宰府」から現・福岡県直方市を経由する道ですが、広嗣が、「大隅・薩摩・筑前・豊後等國の軍、合せて五千人」を率いて、この道を進むと、その情報は言います。「田河道」は、現・福岡県田川郡を通る道ですが、多胡古麻呂が率いて進軍するものの、郡の数も出身地方も不明。「豊後國」からは、藤原綱手(広嗣の弟?)が「筑後・肥前等國の軍、合せて五千許人」を率いて進軍すると。

 

 これがもし、各國の軍を挙兵して来るのだとすると、現・鹿児島県・大分県の「大隅・薩摩・豊後」の軍が福岡市のほうから来て、現・福岡県南部・佐賀県・長崎県の「筑後・肥前」の軍が豊後國(大分県)から来るというのは、奇妙です。各國の軍というのは、各國から輪番で大宰府に詰めていた軍のことだと考えざるをえません。それにしても、「筑後・肥前等國の軍」が「豊後國」から来るというのは奇妙ですが、ともかく挙兵や新たな動員はしていないということです。

 

 つまるところ、「板櫃川」に広嗣が率いてきた「1万許騎」の由来を尋ねられて、投降兵が適当なウソをでっち上げたのが、実際のところではなかったでしょうか。広嗣は、反乱を起こすために軍勢を集めたのではなく、もともと「大宰府」に詰めていた警備の軍を連れてやってきたにすぎないと思われるのです。

 

 

鏡 神 社 二ノ宮   佐賀県唐津市鏡  (STA3816 - Wikimedia)

藤原広嗣を主神として祀る。

 


 そして、この「板櫃川」での「対戦」は、「戦い」とは言えない奇妙な対峙でした。「軍士六千餘人」の「官軍」(の支隊)が、広嗣軍に向って一方的に攻撃を加えるだけで、広嗣軍からは何らの反撃もして来ないのです。広嗣方に戦意があるとは思えない状況です。

 

 「板櫃川」で、広嗣は初め、「官軍」と称して奇襲を加えてきた軍勢がほんとうに「官軍」なのかどうか、本当に「勅使」として天皇の命令を携えた者が率いているのか、疑っていたようです。「1万許騎」を率いて来たのは、「官軍」を詐称する反乱であれば鎮圧する必要があるからでしょう。

 

 対面した支隊の長が、安倍虫麻呂〔広嗣の後任として「式部省」三等官に就任――ギトン註〕ら・顔見知りの中央官人であることが分かると、広嗣は、「いま初めて勅使だと知った。」と言い、すぐに馬を降りて2回ずつ2度拝礼し、

 

 「広嗣は朝廷の命令を拒むつもりはない。ただ、朝廷を乱している二人〔玄昉と吉備真備〕を退けることを乞うだけである。」

 

 と申し開きします。虫麻呂らが、「それなら、なぜ兵を発して押し寄せて来たのか」と言い返すと、広嗣は、軍を連れて戻って行ったというのです。その際に、広嗣方から 30人ほどが、川を泳ぎ渡って「官軍」に投降しています。

 

 その後の続報から推すと、広嗣らは「大宰府」に戻った後、そのまま従者ら二十数人を連れて、五島列島に逃亡しています。僧も2人含まれていました。一行は、五島列島から船で新羅に亡命しようとしたが、「耽羅」〔済州島。当時は朝鮮諸国とは別の国家〕に近づいたものの、強風のために接岸できず、五島列島に戻って来ます。其処で、二十数名の一行は地元の豪族に捕縛され、朝廷方に引き渡されました。

 

 「広嗣逮捕」の報がもたらされた時(11月3日)、聖武天皇は何と、伊勢・美濃方面に観光旅行中でした。奏上を聞いた聖武は、

 

「広嗣の罪は疑う余地がないから、すぐに処刑せよ。終ったら報告しなさい。」

 

 と、にべもなく言い放ち、翌日は近くの野原で、大がかりな遊猟を催すのでした。

 

 しかし、征討軍の大野東人らは、命令を待たずに、11月1日すでに、藤原広嗣綱手を、松浦郡〔現・唐津市か〕で斬刑にしていたのです。

 

 

観 世 音 寺 本 堂     福岡県大宰府市観世音寺5丁目

藤原広嗣・刑死のあと、広嗣の告発を受けていた僧正・玄昉は、

大宰府・観世音寺の造営を命じられ左遷された。しかし、

746年完成供養の際、空から腕が現れて玄昉をさらい、

バラバラになった死体が平城京に落下したという。

 

 

 以上が、「藤原広嗣の乱」と称される事件の一部始終です。その真相は「作り上げられた乱」「でっち上げられた虚構の反乱」だったということを、お分かりいただけたでしょうか?

 

 この事件は、舞台となった福岡・佐賀地方の人びとにも、よくない後味を残したようです。地域には、広嗣の霊を祀る多くの寺社が建てられ、広嗣に対する怨霊信仰は、永く後世に痕を引きました。

 

 

 

 

 

 

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