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昆 陽 池(昆陽上池)     兵庫県伊丹市昆陽池 3丁目

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 「浄御原令」官制施行。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受ける。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
  • 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。行基、若草山に「天地院」を建立か。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
  • 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
  • 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
  • 723年 「三世一身の法」。藤原房前興福寺に施薬院・悲田院を設置。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
  • 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731)。
  • 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池」を建立、「檜尾池」を築造。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」および2池を起工。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。

《第Ⅲ期》 731-749 孝謙天皇に譲位するまで。

  • 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)7件を起工。
  • 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか4院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。山城國に「山崎院」ほか2院を建立。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 733年 行基、河内國に「枚方院」ほか1院を起工ないし建立。
  • 734年 行基、和泉・山城・摂津國に「久米多院」ほか4院・付属施設5件(貯水池・水路)を起工ないし建立。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。行基、和泉・大和國に「鶴田池院」ほか2院・1池を起工。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏(るしゃなぶつ)」像を拝し、大仏造立を決意。金鐘寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁(くに)」を造営開始。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立。
  • 741年 諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」に遷都の勅。「恭仁京」の橋造営に労役した 750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 「紫香楽(しがらき)」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「廬舎那仏」(大仏)造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都か。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。
  • 746年 平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任ず。


 

 

昆 陽 寺 山 門     明暦年間(1655-58)再建  兵庫県伊丹市寺本2

寺は「崑陽施院」の後身だと主張しているが、そう考えるには

史料的に困難な問題もある。

 

 

 

【70】 摂津: 「高瀬大橋」架設と「直道」の開鑿

 

 

 730年・摂津での活動。③は、「高瀬大橋」および「直道」という交通施設の整備、およびそれに伴なう諸「院」の起工です。

 

 淀川の下流、現在の大阪府守口市と大阪市東淀川区が淀川をはさんで向い合っているところ。ここには、「高瀬の済(わたり)」という浅瀬の渡渉点があったことが『播磨國風土記』に記され、また『住吉大社神代記』によれば、「高瀬大庭」ないし「長柄船瀬」と称される川船の停泊地がありました。古くから交通の要所であったのです。

 

 現在では、国道479号・豊里大橋がかかり、道路は東南方向へ伸びていますが、行基が「高瀬大橋」を架けたのは、それより少し上流であったようです。南岸・守口市側の土手に「橋寺廃寺址」の石碑が立っており、奈良時代の瓦が発見されています。まだ発掘調査は行われていませんが、この「橋寺」が行基の「高瀬橋院」にほかならないという説が有力です(『行基と律令国家』,p.198)。「高瀬橋院」は「高瀬大橋」の建設・維持にかかわる施設でした。

 

 なお、現在の淀川の流路は、改修工事で北に移動しています。「橋寺廃寺=高瀬橋院」の・この場所は、もとは北岸・東淀川区側でした。『行基年譜』にも、北岸の摂津國嶋下郡に建立されたと書かれています。

 

 「高瀬大橋」の南詰からは、「行基直道」と呼ばれる大道を開鑿し、まっすぐ南東に延ばして、平城京へ向かう「辻子谷越え」につなげています。

 

 逆に、「高瀬大橋」の地点からまっすぐ北西に向かうと、初期の「行基集団」が設置した「垂水布施屋」に至ります(⇒:(12)【40】)。明治20年の2万分の1地形図には、この方向に、ほぼ直線の古道があったことが記されています『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,pp.118-120)

 

 

 

 

淀 川 の堤防に立つ「橋寺廃寺」の碑    大阪市旭区太子橋3

 

 

『行基らは摂津側の大道とそれに接続する河内側の道を修繕して直線状にし、生駒山をへて平城京に至る輸送の便を図ったことになる。〔…〕

 

 このように摂津・河内に直道を通し、大和・平城京に通じる最短ルートを開設したことは、調庸の税物を運送する役民の負担を軽減する〔…〕だけでなく、摂津・河内・大和の先進経済地域を往来して貨物を輸送する者また商売に従事する者たちを益した。〔…〕

 

 高瀬大橋の南岸、河内國茨田(まんだ)郡には〔ギトン註――時期不明ながら〕次のように5種の水利施設が設けられた。古林里に古林溝、高瀬里に高瀬堤樋、韓室里に韓室堤樋、茨田里に茨田堤樋、大庭里に大庭堀川が設けられた。

 

 これらの工事には莫大な資材と労力が必要であるから、天平 2年〔730〕以後かなりの時間を費やし 13年〔741〕までに完成したのであろう〔この部分の史料記述は天平13年に成立している――ギトン註〕。淀川の南岸に位置する茨田郡は低地であるため諸河川の絶えざる氾濫におかされ、河内國では最も水田開発の遅れた地域であった。したがって行基らの設けた溝や堤樋は排水のための施設であった。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.120-121. 

 

 

 上記5か所の水利施設は、設置された「里」の地名で呼ばれているように、各集落に設けられた施設であったと考えられます。「堤樋」というのは、「樋」は木の幹を中空に刳り抜いたパイプを意味しますから、湿地ないし水田の地下に排水管を埋め、堤防の下を通して川または水路に流し出す施設ではないかと思います。「古林溝」は、「長三千二百丈〔11.25km〕、広六尺〔2.1m〕、深四尺〔1.4m〕」という長大なものですから、その排水路として3村をまたいで掘削されたことも考えられます。

 

 『日本書紀』には、仁徳朝の記事として茨田郡に「茨田堤」を築いたとの記事があるので、この地域(淀川とその旧河道で挟まれた低地)全体を囲む堤防は、行基の工事より以前からあったと考えられます。各「里」の名を冠した「高瀬堤樋」等は、その内側で各集落の耕地を囲む堤防で、そこに排水用「堤樋」が設けられたと思われます。

 

 

『さて、茨田郡の〔…〕開発の遅れは、諸河川のたえざる氾濫を原因としていた。このような単純再生産ですら困難な地帯に行基は身を投じたのであるが、それは破車さえも縄木によって補強され再利用されるようになると説く、三階教の教説〔⇒:(11)【34】【35】を応用したものであった。行基の技術力と衆生救済の信念は、破車になずらえられる・洪水におののく農民層を結集し、堤樋や溝の設置によって生産の安定化を招いたのである。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.202-203.  

 

 

 ③のさいご、摂津國河辺郡の「楊津院」は、場所について諸説あって定まらず、また、近傍に付属施設が見あたりません。

 

 しかし、伊丹市~尼崎市を流れる猪名川の上流・猪名川町木津付近とする説が有力で、地図を見ると、ここには「楊津小学校」というのもあり、「楊津」は当地の古地名であるようです。

 

 なぜこんな、溜池も交通路もない山間に行基の「院」が造られたのか、という疑問が生じます。が、この翌 731年には、下流の伊丹で「崑陽施院」と付属施設 8件が起工されています。そこで、「楊津院」は、翌年の伊丹での工事に必要な木材を採取するために設けられた伐採現場事務所であったと考えることができます。

 

 そこで、731年・伊丹での事業について、次節で述べることとします。

 

 

昆 陽 池(昆陽上池) と 六 甲 山

 

 


【71】 昆陽池とマイノリティーの救済

 

 

崑陽池院〔732年〕3月20日、摂津國河辺郡山本村に起工された。院の所在する猪名野台地〔伊丹台地?――ギトン註〕には 5か所のため池と用水路も同時に造営され、同院はこれら農業施設の造営のための現場事務所であり、また施設が完成した後の維持と管理に従事する施設でもあった。〔…〕

 

 〔ギトン註――造営された溜池・用水路は〕崑陽上池・同下池・院前池・中布施尾池・長江池・崑陽上溝・同下池溝であり、〔…〕台地上に位置する。〔…〕台地面は東の猪名川・西の武庫川よりかなり高いので、両河川の水を利用できず、〔…〕奈良時代以前の台地上は未開の地であった。〔…〕

 

 台地上にはため池が多く散在し、なかでも昆陽池(こやいけ)は東西約 900メートル、南北約 550メートルの最大の池であり、この池はかつての崑陽上池にあたる。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.125-126. 

 

『台地中央部に陥没帯があり、昆陽池がそこに位置している。〔…〕

 

 昆陽池がない場合、ひとたび豪雨がふれば北摂山地から奔流する水は昆陽池陥没帯にあふれ、南部地域をも洪水にまきこんだものと想定され、「昆陽池は洪水調節と灌漑用という多目的ダム」といいうるのである。〔…〕

 

 昆陽池と瑞ヶ池の近辺は、無条里地帯に属しているから、〔…〕条里施行時に、人口希薄で開墾不能地と見なされていたことが想定される。こうした無条里地帯における国郡司の管理支配は、弱いものであったと考えられるから、行基の池造成工事もかなり自由に行なわれたのであろう。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.212-214.  

 

 

 「崑陽上溝」は「長一千二百丈〔4.2km〕、広六尺〔2.1m〕、深四尺〔1.4m〕」、「崑陽下池溝」は「長一千二百丈〔4.2km〕、広六尺〔2.1m〕、深六尺〔2.1m〕」で、これらのサイズから見ると、いずれも池から田に水を配分する田間の用水路だったと考えられます。

 

 

 

昆 陽 寺 観 音 堂       寛永年間(1624-45)再建

 

 

 ところで、5か所の池とその排水路網を備えた「崑陽施院」は、特別な目的をもって企画された施設でした。単なる建設・維持のための現場事務所ではなかったのです。

 

 

〔ギトン註――『行基年譜』の〕天平13年〔741〕条に、山城國泉橋院に〔ギトン註――聖武〕天皇が行幸した際、行基は為奈野〔=猪名野――ギトン註〕を請うて給孤独園(きゅう・こどく・おん)としたことを記している。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.214.  

 

『尓(そ)の時、大僧正言はく、「大国は、給孤独園有りて、孤独の徒を養息す。但(ただ)吾が日本国は、給孤独園无(な)し。是を以て、為奈野を請ひて給孤独園と為さん」ト白(まう)しき。』

『行基年譜』,in:大阪狭山市教育委員会・編『行基資料集』,2016,大阪狭山市役所,p.94. 

 

 

 『行基年譜』は、このあとに、聖武天皇はこれを聞いて、「帰ったら、そう宣命しよう」と答えた。聖武は「給孤独園」の設立を宣命しただけでなく、行基の諸「院」の土地を、官司(国司,郡司)は摂録〔記録して公領に編入することか?〕してはならないと命じ、「食封一百戸」の施入を宣命した。ところが、行基は食封を受けなかったと記しています。

 

 猪名野(伊丹台地)の開発と「崑陽施院」の建設は、すでにこれ以前に行われていたわけですから、741年の聖武の「宣命」は、これらを追認して、「行基集団」が事実上所有していた土地の永代所有を認めた点に意味があったといえます。

 

 聖武の命じた「食封」じきふ 特定の戸(封戸)を指定して、封戸の租の半分,庸調・力役の全部を功臣や寺院に取得させること〕を行基が拒否したというエピソードは興味深いですが、『行基伝記』は、同様のことが2回あったと記しています。これらについては、聖武と行基の思想交渉の問題として後日取り上げるでしょう。

 

 さて、ここで「給孤独園」とされたのは、731年に発足してすでに活動中だった「崑陽施院」のことでしょう。「施院」という名称からして、最初からその種の救済事業を目的とする「院」だったと思われます。

 

 そして、吉田靖雄氏によれば、↑『行基年譜』所載のエピソードにかかわらず、じっさいには行基の生前に、したがって聖武期に、「崑陽施院」には朝廷から田地の施入(寄付)がなされています。

 

 この「院」の設立目的について、昆陽寺に 14世紀まで存在した梵鐘の銘〔銘文の成立は 10世紀と推定されている〕には、

 

 

『院家の地利〔崑陽施院の土地から上がる利益――ギトン註〕は、聾盲瘂瘖・孤独・卑賎の類に与ふる所なり。』

『昆陽寺鐘銘』,in:吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.295.  

 

 

 と記されていました。また、『日本後記』弘仁3年〔812年〕8月条には、

 

 

『摂津國に在る惸独田〔崑陽施院の寺田――ギトン註〕は、故大僧正行基法師、孤独〔の者〕に矜(あはれみ)を為して置く所なり。』

 

 

 とあります。つまり、身障者、賎民、「孤独」の救済を目的として設立されたというのです。古代語の「孤独」は特別な意味で、「孤」は 16歳以下で父のない者、「独」は 60歳以上で子のない者を意味します。ということは、「孤」は孤児のみならず母子家庭も含んでいたはずです。これらの人びとは、独力で生活するのが難しいことが共通しています。

 

 当時の社会は、奴婢・傍系親族など複数の「夫婦と子」を包括する大家族が解体して、個別の直系家族が独立しようとしていました。

 

 かつて日本史学では、戸籍上の用語で、前者を「郷戸」、後者を「房戸」と呼んでいました。が、集落跡の発掘が進むにつれて、家族実態は戸籍とは異なることが判明してきたので、いまは「郷戸」「房戸」とは言わないようです。もっとも、厳密に見ればズレていても、ほぼ並行しています。「郷戸」「房戸」という用語に慣れている方は、そう呼んでかまいません。

 

 個別の家族が独立し、「家族中心」の編成が社会全体をおおうようになると、「家族」からはみ出してしまう人は、苛酷な境遇に追いやられることになります。身障者、賎民、「孤・独」――彼らは「家族」を編成できない・「家族」に入れてもらえないために、明日の生活さえもどうなるかわからない人びとなのです。

 

 おそらく、「行基集団」が大きくなってくると、このような人びとも集団内に増えてきて、かれらの境遇を何とかする必要が大きくなったのではないでしょうか。そこで、彼らが1か所に集まって、そこで「集団」からの援助を受けながら共同生活する場をつくる構想が持ち上がった、それが「崑陽施院」だったと私は考えます。

 

 このような、外部からの援助が必要な「院」の建立は、大規模な灌漑開発によって十分な利益の出ることが予想できる場所で行なわなければならない。溜池と用水路の建設など、「行基集団」の活動によって大きな利益を得た住民たちは、「孤独」者の扶養に使われる土地の寄進や、布施の供出、「孤独」者らの世話にも快く応じるにちがいない。そのような構想であり、それにうってつけだったのが「伊丹台地」の開発だったと思うのです。

 

 

昆 陽 寺 行基歌碑   山鳥の ほろほろとなく

声きけば 父かとぞ思ふ 母かとぞおもふ

玉葉和歌集 19-2627

 

 

 その関連で見ると、前年に猪名川の上流で起工された「楊津院」についても、特別な機能が想像できてきます。「楊津院」があった「楊津」「木津」という地名は、伐採した木材を集積して、川の流れを利用して下流に流すための貯木場を意味します。この猪名川流域は、新羅系木工集団「猪名部」の居住地でしたが、この8世紀には、「猪名部」は新興の百済系木工技術者に押されて衰退しつつありました。

 

 地域の生活を成り立たせてきた伝統産業の斜陽化という・この状況は、(11)【36】【37】で見た行基の故郷・大鳥郡「陶邑(すえむら)」の状況とよく似ています。そこで吉田靖雄氏は、「伊丹台地」の場合にも、行基は未開地の開発によって生業の基盤を強化するとともに、信仰と慰安の場を提供して、人びとの気持ちを活性化させることに努めたのだ、とされます。

 

 しかし、私が思うには、それだけではなく、「崑陽施院」の設立趣旨である身障者・「孤独」者援助との関係でも、「猪名部」木工集団は大きな寄与をした可能性があります。各地から集まって来た被収容者たちに、木工技術を教え生業技術を身につけさせるという役割です。

 

 身障者、孤児、孤老たちにとって、農業労働に従事することは困難だったでしょう。灌漑された水田での集約的労働であればなおさらです。しかし、椀や器物のような小さな木工生産ならば、彼らにもできるでしょう。斜陽産業で、あまり儲からなくても、生計の一助にはなるはず。まったくの無職状態よりは救われます。そこで、「猪名部」木工集団は、「施院」での職業訓練と手工材料供給の役割を果たしたと思うのです。

 

 さて、このようにして出発した「伊丹台地」でのマイノリティー援助事業について、さきほど引用した『日本後記』弘仁3年〔812年〕の勅によれば、80年後の状態は次のようでした:

 

 

『弘仁 3年 8月の勅により、行基が孤独者のために設置した惸独田 150町は、国司が耕種し、その収穫は太政官に報告し、官処分を待って用いさせることになった。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.214.  

 


 9世紀初めの時点では、「崑陽施院」の所有する田地は 150町歩に及んでいたというのです。「行基が‥‥設置した 150町」とありますが、行基生前からこれほどの大面積を所持していたわけではないでしょう。信者の寄付などによって増えて行った結果の 150町歩と思われます。

 

 「耕種」とは、国司の役人が鋤鍬を持って耕すという意味ではありません。要するに「経営する」ということで、自分の所有地として農民に耕させて、収穫は全部持って行ってよろしいということです。「官処分を待って」どう用いるのかわかりませんが、「施院」の身障者や「孤独」者のために用いられたでしょうか? この勅が出る以前には「耕種」者は「施院」であったでしょうから、「150町」からの上がりは、あげて「施院」で消費していたはずです。

 

 

『10世紀に成立した『延喜式』の民部式の中に、右の弘仁 3年の勅の内容が継承されているし、雑式には、僧正行基の昆陽院の雑事は、摂津国司と別当僧がそれにあたることを定めている。』

千田稔『天平の僧 行基』,1994,中公新書,p.126.  

 

『延喜式の段階では、その経営が別当僧と国司の両者に委ねられることになったのである。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.215.  


『「延喜式」の雑式に、崑陽院の雑事は摂津国司と別当僧の共同管理と規定されているから、崑陽寺は惸独田だけでなく寺の運営についても国家の管理権が及ぶ公的性格を帯びるようになった。

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.129-130.  

 

 

 弘仁3年の「勅」から 100年後の 10世紀には、「崑陽施院」じたいの経営にまで、国司が介入することとされたわけです。吉田靖雄氏が指摘するように、事業が巨大化したために国家の介入を招いたと言えるのかもしれません。

 

 ただ、このような寺院統制の強化は、8世紀末の桓武朝以降は一般的な趨勢でした。朝廷の度重なる「私度」禁断も効果がなく、私度僧は増える一方であり、国分寺・国分尼寺〔741年:建立の詔〕は私寺化・私領化し、寺院による山林藪沢の不法占拠が進展するなかで、朝廷は国家統制を強化して寺院勢力の膨張に対抗しようとしていました(井上光貞『日本古代の国家と仏教』,2001,岩波書店,pp.56-58,86-87)。「崑陽施院」は聖武天皇に「食封」の施入を受けるなど当初から公的性格を持っていましたから、そのぶんよけいに私的な活動を警戒され、綱紀粛正政策の矢面に立ったといえるでしょう。

 

 

〔ギトン註――10世紀成立の〕「昆陽寺鐘銘」に、天平5年(733)に猪名野の荒地を申し請い、四至を堺し、牓示〔境界標の石柱――ギトン註〕を建て、水田 150町を開発して院家〔崑陽施院〕に施入し、永く國郡による摂領をさせなかったと刻まれている。〔…〕給孤独園という施設は、〔ギトン註――孤・独に給する農園という〕その意義のために 150町の水田を所有していたということになる』

千田稔『天平の僧 行基』,1994,中公新書,p.126.  

 

 

 10世紀ころ、鋳造した梵鐘に開基以来の縁起を刻んだ昆陽寺ないし崑陽施院の人びとは、このように明らかに、国家統制に対する抵抗の意志を語っていたのです。しかし、当時すでに「行基集団」は解体して、実体は無かったと思われます。また、中世以後の「昆陽寺」が、「給孤独園」のような事業を行なったという形跡もないのです。


 残念なことですが、行基が興したマイノリティー自助援護の事業は、9-10世紀における朝廷と国司による干渉の結果、消滅してしまったものと考えるほかはありません。

 

 

昆 陽 池(昆陽上池)

 

 

 

 

 

 

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