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喜 光 寺(菅原寺) 本 堂     奈良市菅原町

721年、下級官人とみられる寺乙丸が寄進した自宅敷地に

行基が722年起工して寺院とした。これにより行基集団は

平城京右京3条3坊という皇宮至近の地に拠点を獲得した。

現在の本堂は 1544年再建。

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。このころ道昭、唐から帰国し、唯識(法相宗)を伝える。
  • 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破る。「飛鳥浄御原宮」造営開始。
  • 673年 大海人皇子、天武天皇として即位。
  • 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
  • 681年 「浄御原令」編纂開始。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。放棄されていた「藤原京」造営再開。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受け、比丘(正式の僧)となる。
  • 692年 持統天皇、「高宮山寺」に行幸。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
  • 699年 役小角(えん・の・おづぬ)、「妖惑」の罪で伊豆嶋に流刑となる。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
  • 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。行基、若草山に「天地院」を建立か。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
  • 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 長屋王を右大臣に任ず。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
  • 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿部広庭、知河内和泉事に就任。
  • 723年 「三世一身の法」。藤原房前興福寺に施薬院・悲田院を設置。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
  • 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731建立)。
  • 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池」を建立、「檜尾池」を築造。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」を起工。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。
  • 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしていると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)5件を起工。
  • 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか7院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。

 

 

久 修 園 院    大阪府枚方市楠葉中之芝2丁目

行基「山崎橋」の付属施設として淀川畔に 725年起工。

 

 

 

【54】 喜光寺の建立――右京3条3坊に根拠地を確保

 

 

 藤原房前らの掩護のもとに、「間接統制」の抑圧をかいくぐって布教と救済活動を進めていた 721年、行基集団に思わぬ幸運が舞い込みました。平城京・右京3条3坊に住む下級官人層の一員「寺史(てらのふひと)乙丸」という人が、自宅に精舎を立てて、敷地ごと行基に寄進したのです。

 

 翌722年2月、行基はここに「喜光寺(菅原寺)」を起工しています。こうして京城内に根拠地を得た「行基集団」は、いよいよ活発に布教活動を展開しようと意気込んだ矢先、同年7月、長屋王の「禁令」が発令され、教団は深刻な打撃をこうむることとなったわけです。

 

 「3条3坊」といえば、「みやこ」のなかでも皇宮に近い枢要の地です。

 

 一帯は「寺史」一族の居住地だったと思われます。出土資料と文献の精査によって、「3条3坊」〔532m×532mの区画――ギトン註〕には、「寺史」氏以外にも、下級官人層に属する多くの住人が見出されました。「寺史」氏も下級官人の家柄であり、長屋王邸に勤務する官人や、西隆寺〔西大寺管理下の尼寺〕造営に従事した工人を輩出していることが、出土木簡によって明らかになっています。

 

 下級官人層は、これまでの「行基集団」の主体であった班田農民~郷族よりも上層の、より余裕のある階層です。官人として、「京」条坊に居住地を支給される「京戸」は、7世紀以来固定されており、遷都のたびに天皇・中央官衙に付随して新都に移ってゆく特権階層だったのです。

 

 

『右京3条3坊の戸主には、下級官人や、奴婢を抱える者、墾田を所持する者など、班田農民より経済的に余裕のある者が見られ、寺史乙丸もそうした階層に属する人であった。喜光寺設立に協力した人々はこうした社会階層に属する人々であり、彼らは新しく行基集団に参入してきた人々であった。〔…〕

 

 菅原寺(喜光寺)の地・右京3条3坊の北面は二条大路に面し、そこから東へ2キロ弱で朱雀門に至る交通の要所であった。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.82. 

 

 

 また、その南、三条大路を西にたどれば「くらがり峠越え」街道に繋がっており、「辻子谷越え」「くらがり峠越え」という2本の庸調・徭役・交通路に通じていました。

 

 

 

 

 「長屋王の変〔729年〕以前の初期「行基集団」の活動は、もっぱら役民・運脚夫、窮民・流民、班田農民といった底辺階層に眼を向けていました。彼らの財力にも布施にも限界があったので、教団の経済的基礎はきわめて脆弱なものでした。この時期に大和~河内に建立された「生馬仙坊」「石凝院」「隆福院」などは、寺田を寄進する近傍の富裕者もなく、一般班田農民の信者だけで維持されていたものと思われ、これらの道場は、永続に困難がありました。

 

 

『720年までに建立された生駒院〔生馬仙坊〕・隆福院・石凝院は、交通の要所に立地するという共通性があったが、また一方 773年の時点で、院の維持管理に必要な田園〔寺田〕を持たないため「住持の徒〔住職の僧〕なく精舎は荒涼」の状況に陥る〔こととなった――ギトン註〕〔…〕

 

 こうした状況は、722年起工の喜光寺を除き、725年までに建立〔起工、が正確――ギトン註〕された清浄土院・同尼院・久修園院まで共通している。つまり 725年〔…〕まで、行基集団は、院を形成するだけの資力はあるものの、院を久しく維持するための田園を寄進できるほどの資力をもたない人々によって構成されていたのである。〔…〕

 

 菅原寺の建設された養老6年〔722年〕の前後に行基が建立した 6院〔隆福院,生駒院,石凝院,清浄土院,久修園院,菩提院――ギトン註〕は、院の管理維持に不可欠の寺田田園を持たず、773年の時点で住持の人〔住職の僧〕もなく建物は荒廃していた。つまりこれら 6院の建立に結集した在家の人々は寺田田園の寄進をできかねる経済状態にあり、かれらは一般の班田農民であったと考えられる。行基と弟子僧らの視線は、仏教に縁遠くあった一般農民層〔を教化すること――ギトン註〕に注がれていたのである。

 

 そうした状況の中で、菅原寺(喜光寺)が維持できたのは寺田田園の寄進を受けたからであり、寄進したのは寺史のような下級官人層であったと考えられる。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.78,82-83. 

 

 

『菅原の地の確保は、それまでの布教が、定住性を欠く〔…〕役民(男性)に対するものであったのに対し、官吏・商工業者を含む都市民(男女)への布教へ変化する可能性をもたらすものであった。

 

 〔…〕養老末年〔721-723年〕行基集団には、下級官人層の家族を含む都市住民の参加が予想される〔…〕〔当時の公式の「都市住民」は、朝廷によって居住地を与えられた特権的な富裕階層であった――ギトン註〕

 

 〔…〕平城京は、職員令に規定する官人7800余とその他を含めて1万余人の官人層と、10~20万人ともいわれる白丁〔諸官庁・諸家で雑務をする無位無官の者――ギトン註〕層の居住する大都市であった。大都市は、農村とは異なる倫理・宗教の通用する所である。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.164-165,167.  

 

 

 現在の北朝鮮、また少し前の中国では、首都(平壌,北京)に住むことのできる住民は、共産党政府に公認された「忠誠分子」だけですが、それと同じことが、古代日本の天皇制国家でも行われていたのです。

 

 こうして、「菅原寺」の寄進と建立は、これまでもっぱら役民・一般農民層を布教・救済の対象としていた「行基集団」が、下級官人層、郡司・郷長層など、より富裕な層に信者を獲得するようになる転換点というべきものでした。

 

 折りから、722年の「長屋王の禁令」以後、初期集団潰滅の危機に直面した行基は、入信者と布教対象の転換、そのための布教スタイルの一新・活動内容の多角化を模索してゆかざるをえませんでした。その努力の結果、「長屋王政権」倒壊後の再起にあたっては、「行基集団」は、「長屋王禁令」以前とは大きく変貌した姿で現出することとなります。

 

 

千 日 井     堺市堺区七道西町

行基 724年開基「清浄土院(高渚寺)」の所在については、いくつかの

伝承・学説があって定説はない。ここ「千日井」もその一つで、

同寺の井戸だったという手動ポンプ(↑水色)が残っている。

 

 

 

【55】 長屋王政権と「三世一身の法」

 

 

 722年の「長屋王の禁令」から、729年の「長屋王政権」倒壊(長屋王の変)前後までの行基の活動を年表にしてみると、次のようになります。

 

  • 722年 2月、行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。閏4月、「百万町歩開墾計画」発布。7月、「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允可(第3禁令)。
  • 723年 4月、「三世一身の法」太政官奏を允可。この年、藤原房前興福寺に施薬院・悲田院を設置。
  • 724年 2月、元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。この年、行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
  • 725年 9月、行基、淀川に「山崎橋」を造営開始。同月、「山崎橋」南岸の河内國交野郡に「久修園院」を起工(→731建立?)。
  • 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池」を建立、同郡に「檜尾池」を築造。
  • 727年 2月、行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」を起工。閏9月、聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、皇太子に立つ(11月)。
  • 728年 11月、聖武天皇、夭折した(9月)皇太子を弔うため、若草山麓に「山坊」を造り、僧9人を住させる。
  • 729年 2月、長屋王の変。4月、「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。8月、藤原光明子を皇后に立てる。
  • 730年 行基、摂津國兎原郡に「船息院」「尼院」を起工(2月)、同郡に「大輪田船息」を築造。摂津國西域郡に「善源院」「尼院」を起工(3月)、同郡に「長柄橋」「中河橋」「堀江橋」を架設。摂津國鴨下郡に「高瀬橋院」「尼院」を起工(9月)、同郡に「高瀬大橋」を架設。摂津國河辺郡に「楊津院」を建立。4月、光明皇后、皇后宮職(旧不比等邸?)に「施薬院」(+悲田院?)を設置。9月、平城京・東郊の「山原」で数千~1万人を集め、妖言で惑わしていると糾弾(第5禁令)。
  • 731年 行基、河内國丹比郡に「狭山池院」「尼院」を起工(2月)、同郡の「狭山池」を改修。摂津國河辺郡に「崑陽施院」を起工(3月)、同郡の「崑陽上池」等7件を築造。山城國紀伊郡に「法禅院」を起工(9月)。大和國添下郡に「隆福尼院」を起工(10月)。山城國葛野郡に「河原院」「大井院」を建立。山城國乙訓郡に「山崎院」を建立(725起工「久修園院」の対岸か?)。

 

 722年から 727年までは、ほぼ年1か所のペースで「院」を設置しています。しかし、それらの場所を見ると、「菅原寺」と淀川「山崎橋」南詰の「久修園院」以外は、すべて「和泉國大鳥郡」つまり行基の郷里です。やはりここからも、722年の「長屋王の禁令」以来、平城京周辺では活動が困難になったので、郷里に戻った。そして、「院」つまり道場の新設は、たかだか郷里「大鳥郡」の範囲内でのみ可能であった。――そう推測せざるをえません。728-729年には、それさえもできなくなっています。

 

 「長屋王の変」の翌年になると、730年の1年間に「院」7か所、付属施設(橋,港)5件、731年は「院」8か所、付属施設 8件(貯水池,水路等)、‥‥と、「行基集団」の事業は爆発的に増加しています。「長屋王の禁令」で抑えられていたのが、事実上の禁圧解除(禁令が撤回されたわけではない!)で急速に息を吹き返していくさまをみることができます。場所も、730年は、これまで道場がなかった「摂津國」に進出し、同年はもっぱら摂津で活動し、731年には、河内・摂津・山城・大和へと、大きく範囲を拡げています。

 

 事業活動の内容も、「長屋王の変」以後には、それ以前には見られなかった橋・港・貯水池・用水路等の付属施設の建設が伴なっています。行基は、初期集団には少なかった新たな種類の信徒を迎えて、第二次「行基集団」を組織し、教団を大きくよみがえらせたことがわかります。新たな種類の信徒とは、橋・港など交通路の建設に関心をもつ商人層、用水灌漑施設に関心をもつ上層農民(郡司、郷長、郷戸主)~下級官人層、これらの建築技術をもつ渡来系・工人階層、などであったと推定できるのです。

 

 

土 塔    堺市中区土塔町

十三層塔。通常は寺院の屋根を葺く軒丸瓦と平瓦を積む。

727年に、付近の「大野寺」「大野寺尼院」の起工と同時に

築造されたことが、 最近、出土瓦の銘文により判明した。

 

 

 このような新たな活動の方向は、初期集団の潰滅による行基自身の反省と戦略再考によるだけでなく、それを可能にした朝廷政府の政策変更が背景にありました。723年に成立した「三世一身の法」が、それです。

 

 天智・天武朝以来の朝廷支配体制の整備によって、蝦夷・隼人への外征を除いては、国内に内乱がなくなり、農業生産が安定すると、人口が徐々に増えてきました。

 

 「律令体制」は、農民に一定面積の耕作地を保証する「班田収授」によって成り立っていましたから、人口の増加に伴って耕地面積が増えなければ、税貢収取体制の足もとから破綻することになります。しかし、新たな耕地を開墾するのは容易ではない。土地は、開墾しやすい場所から開墾されて農地になるので、新たな場所に農地を広げるには、人工灌漑施設を造るとか、耕作技術が進歩する、といった技術的進展が必要だからです。

 

 朝廷は 722年に「百万町歩開墾計画」を発布して、開墾を奨励しましたが、奨励すると宣(のたま)うだけで、具体的な施策は無いのですから、効果があるわけはありません。そこで、翌年に太政官は「三世一身の法」を奏上し、勅許されています。これは、饒富な人びとの土地所有意欲を刺激することによって開墾を進めさせる狙いがあります。

 

 しかし、「三世一身の法」は、「班田収授」の基礎である「公地公民」原則に例外を設けることであり、この方向が進展していけば、「公地公民」原則は維持できなくなり、「律令体制」そのものが崩壊することとなります。「三世一身の法」は、古代「律令国家」の終りの始まりであったのです。

 

 

『毎年 2%程度増えたと推測されている人口は、口分田として班給する耕地の不足をもたらし、〔…〕〔ギトン註――723年〕4月には「三世一身の法」が出されて、開墾が奨励された。

 

 すなわち、既設の水路や池を用いて開墾した場合には一生の間、あらたに水路・池を造って開墾した場合には三世(本人・子・孫〔…〕)の間、その開墾地の占有を許すというのである。〔…〕

 

 行基は、政府との対立を上手に避けつつ、三世一身の法に対応しての灌漑施設の整備や、あいつぐ遷都に対応しての交通路の整備、さらには後に四十九院と呼ばれる〔…〕道場(院)の設置に奔走した。』

坂上康俊『平城京の時代』,岩波新書,pp.134,173.  

 

 

『三世一身法は、「〔ギトン註――口分田耕地の増加という律令政府の必要を〕個人の所有欲に結びつけたもので、耕地増加の経済策としては有効であった」が、「有力者に水田が集まり、貧窮の者は相かわらず貧しい状態を脱しなかったという点で、社会政策としては全く失敗であった」と評される。

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.172.  

 

 

 つまり、「三世一身の法」の恩恵を受けるべく荒地の開墾に向かうことができたのは、一般の班田農民より少し上の、一定の経済力があり余裕のある階層だったといえます。最底辺の農民には、開墾を行なう余力など無かったからです。とりわけ、「三世」の権利を得るためには、あらたに水路や貯水池を造成しなければならず、それは一介の農民にできることではなかった。多くの人を組織する何らかの力をもつ中心点が必要でした。

 

 しかし、朝廷は単に、やりなさい、やれば権利を与えてやる、と言うだけで何もしない。在地の有力者も、誰が上に立つかで争って、「俺が」「俺が」になってしまって、…なかなか協力し合うのが難しいという事情があります。何か、誰にとっても中心点になるような信仰なり理念なりがあれば、皆がそれを信じることができれば、そしてその中心点が、自分では無欲で、ひたすら「利他」の精神につらぬかれているようなものであるならば、多くの人がその周りにまとまることができるはずです。

 

 行基の民衆宗教は、そのような中心点として、おおぜいの人をまとめることができるのではないか? それが、「弾圧」以後の新たな宗教活動にかけた行基の発想だったのだと思います。ただ、それによって主要に利益を得るのは、やはり、自分が池を造り開墾を組織した主体だ、と主張できるような有力者であったことは否定できません。そういう人びとに「三世」の権利は帰したでしょう。

 

 しかし、たとえ結果はそうであっても、最底辺の、自分の労働力以外に「布施」として支出できるものを持たない人びとをも含めて、皆が「利他」を目的とする「布施行」として、あるいは労力を出し、あるいは費用や食糧を出して力を合わせるということが、宗教という理念を信じるがゆえに可能となったのです。

 

 

〔ギトン註――726〕年起工の檜尾池院を初めとして、灌漑施設と結びつく院がすべて、三世一身法発布の後につくられた〔…〕行基は三世一身法発布後、院と結合した灌漑施設の造営という独自の運動形態を開拓しはじめたと推定される。

 

 〔ギトン註――723年〕4月の三世一身法は、いわば活動を二歩も三歩も後退した行基にとって、集団と活動を復活すべき契機となった。

 

 弟子らを〔ギトン註――722年〕禁令のいう還俗という処罰から回避させるためにも、新しい合法的な活動が必要であった。三世一身法を利用した池溝開発により、彼の活動は合法性を帯びる〔…〕合法性獲得こそが彼の運動の拡大再生産につながることを、郷里和泉における生活の中で悟ったにちがいない。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.173.  

 

 

 723年発布の「三世一身の法」を、その時点では、「長屋王政権」の弾圧下では利用しえなかったとしても、長屋王が倒れた後には、「行基集団」は大いにこれを利用したのです。「三世一身の法」のもとで開墾地を広げて、三代保有地を獲得したいと望んでいた農民上層~下級官人の土地獲得活動を援助することによって、彼らのあいだに支持を広げてゆく、新しいスタイルの布教活動が目ざされました。そのような、貯水池・用水路建設と連動した布教活動が、第二次「行基集団」の主要な発展方向となったのです。

 

 もっとも、「長屋王の変」で、長屋王その人は倒されたといっても、朝廷は「禁令」を撤回したわけではありません。寺院外に道場を設け、托鉢や訪問布教を行なう「行基集団」の活動は、依然として非合法なのです。教団内には、私度僧(存在じたいが非合法)もまだまだ多い。禁令の実施が緩んだといっても、そのような状況のもとで、爆発的に事業を広げることができたのは、地方官の後ろ盾があったからだと考えざるをえません。


 具体的に、「行基集団」の活動を許容した地方官の名も、明らかになっています。「知・河内・和泉・事」正四位・阿倍広庭というのが、その人です。

 

 

平 城 宮 太 政 官 址 (塼積み官衙) 平城宮・遺構展示館

平城宮官衙の遺構を、発掘トレンチのまま、その位置で

展示している。「塼(せん)」とはレンガのこと。

塼できれいに整備され、大型の礎石・柱座をもつ

この建物は、太政官であった可能性がある。

 

 

 

【56】 行基を助けた地方官の事情――阿倍広庭

 

 

 「知河内和泉事」は、河内・和泉・両国司の上に立つ顕官で、臨時に設けられた官職です。阿倍広庭は、太政官の「参議」と兼任で、この官職に 722年から 732年(死去)まで就いています。ちょうど、行基が、722年「長屋王禁令」の弾圧を避けて故郷に逃れていた時期にあたります。

 

 「知河内和泉事」という官職が設けられたのは、次のような事情によります。和泉國(740年までは和泉監)は、もともと河内國の一部でしたが、717年に元正天皇が「珍努(ちぬ)離宮(和泉宮)」〔現・和泉市内〕を造営するために、河内國大鳥・和泉・日根の3郡を独立させて、離宮の造営と維持にあてたのです。しかし、離宮を造営・維持するための資材・人夫などの費用負担は、3郡だけの小國には重すぎる負担でした。そこで、大國である河内國から資材・人夫を回す必要があるので、両國を統括する「知河内和泉事」が置かれた、という事情があったようです。

 

 そういうわけで、「知河内和泉事」として「珍努宮」造営維持の責任を負っていた阿倍広庭としては、和泉國に負わされた過重な負担をなんとか堪えてもらうために、和泉國3郡の郡司以下土豪層の協力を得る必要がありました。和泉が僧行基の故郷で、行基は自身も大鳥郡の土豪出身、しかも宗教者として同國内の多くの土豪と農工人の心をつかんでいるということを、広庭は太政官の同僚参議であった藤原房前から聞いていたはずです。

 

 広庭が和泉國内での「行基集団」の活動を容認したのは、そうすることで、同國内の土豪・郷族層の協力を得ようと考えたためと思われます。

 


『離宮造営をできるだけ円滑にすすめる為、土豪の協力を必要とした阿倍広庭は、そうした土豪の出身者である行基の活動を許し、公認を与えることによって、行基を信頼する和泉の人々、とくに土豪の人心を収攬しようとしたに違いない。神亀年間〔724-729〕における和泉の行基の活動の継続は、右のように地方公権力の容認の下に展開した』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.190.  

 

 

『622年7月の禁令により行基は帰郷のやむなきに至ったものの、旺盛な活動がやまなかったのはなぜであろうか。諸院の造営や山崎橋・檜尾池・土室池の造営など、地元民衆の労力と資材の提供なしにはなしえないし、そのことは、和泉河内両國において活発な托鉢行と布施行〔寄付をすること――ギトン註〕の勧誘が実行されたことを物語っている。

 

 こうした活動が展開できたのは2つの理由がある。第一に、705年起工の大修恵院(高蔵院)が大鳥郡大村里に健在で、行基が大和・平安京で活動し和泉地域を留守にしていた間にも、行基集団が根付いていたことがあげられる。〔…〕和泉地域の多くの氏族が行基集団に参加しており、かれらの支援のもとに行基は活動の再開を図ることができた。

 

 第二に、和泉國を管理支配する国司とくに国守の容認があったからだと考えられる。〔…〕神亀年間〔724-729〕の和泉國の長官は正四位下・阿倍広庭で、〔…〕知河内和泉國事という官職に任官している。和泉國と河内國の両國国司の長官を兼任する官職で、732年2月まで〔…〕両國を支配し、行基の活動を容認した。〔…〕

 

 広庭が行基の活動を容認したのは、〔…〕珍努宮(和泉宮)の造営と関係して考えるべきである。〔…〕離宮の造営は財政規模の小さい和泉監にとっては過重な負担であった。〔…〕阿倍広庭が和泉の土豪出身である行基の活動を容認したのは、それにより和泉河内両國の行基を支持する土豪の協力を得ることを期待したのである。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.87-91. 

 

 

 

 

 

 

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