元 興 寺(法興寺) 極楽堂・僧房・石仏群 奈良市元興寺町
飛鳥(現・明日香村)の「飛鳥寺(法興寺)」は 718年 平城京に
移転し、東西2町・南北4町の広大な寺域を誇ったが
現在は、↑この極楽坊と東西の塔址のみを残す史跡的存在である。
以下、年代は西暦、月は旧暦表示。
《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。
- 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。このころ道昭、唐から帰国し、唯識(法相宗)を伝える。
- 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
- 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
- 668年 行基、誕生。
- 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破る。「飛鳥浄御原宮」造営開始。
- 673年 大海人皇子、天武天皇として即位。
- 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
- 681年 「浄御原令」編纂開始。
- 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
- 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。放棄されていた「藤原京」造営再開。
- 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受け、比丘(正式の僧)となる。
- 692年 持統天皇、「高宮山寺」に行幸。
- 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
- 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
- 699年 役小角(えん・の・おづぬ)、「妖惑」の罪で伊豆嶋に流刑となる。
- 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
- 702年 遣唐使を再開、出航。
- 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
- 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
- 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
- 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。
- 710年 平城京に遷都。
《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。
- 714年 首皇子を皇太子に立てる。
- 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
- 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
- 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
- 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
- 720年 行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
- 721年 元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
- 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。
- 723年 「三世一身の法」。藤原房前、興福寺に施薬院・悲田院を設置。
- 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位。長屋王を左大臣に任ず。
- 725年 行基、淀川に「山崎橋」を架橋。
- 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。
- 728年 『金光明最勝王経』を書写させ、諸国に頒下。
- 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。
- 730年 行基、平城京の東の丘で1万人を集め、妖言で人々を惑わしていると糾弾される。朝廷は禁圧を強化(第5禁令)。
奈良市街 元興寺 から 興福寺 へ向かう。
もとは、このあたり 猿沢池畔までが
元興寺境内。猿沢池は 興福寺境内だった。
【48】 古代日本のプラグマティスト――藤原房前
前回検討したように、717年4月の「禁圧の詔」は、その文面においては「行基集団」を名指して激しく非難しながら、取締りの実際においては、仏教教界の自律性を尊重して、強硬な対応策を控えているように見えました。前々回【44】の後半に書いたように、吉田靖雄氏はこれを、717年「詔」の実質的起草者である藤原不比等の二面性として理解しています。吉田氏の最近の著書『‥‥文殊師利菩薩の反化なり』はハッキリとそう書いています。しかし、旧著『行基と律令国家』では少し違っていたのです。
私は、717年「詔」の二面性を不比等その人の二面性として理解するのは、やはり無理ではないかと思います。
というのは、第一に、二面の相違があまりにも大きいからです。
「詔」の趣旨は、「行基集団」こそが諸悪の元凶であって、「行基集団」の活動さえ禁断すれば、秩序は回復し、すべては良くなるというものです。ところが、その論理的帰結であるべき対処方策になると、とたんに調子が変って、関係「主司」は今後はこのようなことがないようにせよ、という通り一遍の抽象的な訓示に終っているのです。この「詔」を奉じて、じっさいにどんなことをすればよいのやら、聞かされた役人には、わからなかったにちがいない。
この両面は、相違が大きいだけでなく不整合で、ひとりの人の考えとは思えません。むしろ、「律令」法律家として峻厳な見方をする不比等とは異なる・穏健な考えの人がいて、両者の意見が折り合わず、折衷した結果としてこうなった。どうしろというのかよくわからない「詔」になってしまった。そう考えたほうがよいように思われます。
そして、そう推測する第二の根拠は、翌718年10月に、太政官が「僧綱」にあてて発した告示文です。ここでは、官界による直接の強硬な対処をむしろ控えて、「僧綱」すなわち教界の自律性・自浄機能にゆだる、僧侶たちによる自覚的な綱紀粛正を、官界は側面から援助する、という太政官の方針が、よりはっきりと示されているのです。
『〔ギトン註――718年〕10月、太政官は僧綱に対し 5か条を指示した。』
吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.78.
この告示は、僧尼の教学と修道に関するものです。したがって、「太政官告示」として、僧尼教導の責任者である「僧綱」にあてて発せられるのは当然だろう。そうも見えます。しかし、その内容をよくみると、前年の禁令の「詔」を前提に、具体的な指示を出したものと見ることができます。その宛て先が「僧綱」であるのは、「詔」を実現すべき主体として、聖職者の自律的機構を信頼し、彼らの自治に委ねようとしているのだと言えます。
そこには、禁圧・取締りといった強硬手段ではなく、むしろ裏から、説諭・学習による僧尼の質の向上によって、事態を改善していこうという、太政官の政策意図が見えるのです。
『第1条は、高徳の者から法門〔仏法,仏法に入る道〕の師範たるべき者をえらぶべしとする前段と、師の垂誡を重んずる者から後進の領袖〔中心となる人〕にふさわしい者をあげよとする後段から成る。〔…〕道徳性の高い僧尼と師に忠誠な僧尼を顕賞して、あるべき僧尼像を提示しようとしている〔…〕
本条の師範と領袖の表彰は、行基的僧徒像を〔…〕否定し、行基流の行動に追随しようとする僧尼にブレーキをかける役割を担ったものである。』
吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.139.
小学校の校庭に二宮金次郎の銅像を建てたり、公園に「爆弾三勇士」の像を立てたり、とにかく「みんなの模範」になるような像を決めて提示するのが、昔も今も、国家教育がよく使う手です。そうやって、「いい子」と「悪い子」、「英雄」と「非国民」の区別を解らせる。とにかく、眼に見えるから解りやすい。生きている人間ならば、なおさらです。
『第2条は、五宗(しゅう)の宗師名をあげよというのであって、〔…〕宗といえば政府の公認した〔…〕5つの宗に限られた〔…〕上から作られた、統制の所産であった〔…〕五宗の名称と各宗の宗師名を公認して、異端的宗学をしりぞけ、〔…〕〔ギトン註――「僧綱」→各寺「三綱」の監督体制とは別に、宗派ごとの〕指導組織をつくり、〔…〕教学による統制を強化しようとしたのである。』
吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.139-140.
ちなみに「五宗」とは、「法相宗」「三論宗」「倶舎宗」「成実宗」「律宗」。のち、これに「華厳宗」が加わって〔736年伝来〕、政府公認の宗派は「六宗」となります。この時代の「宗」は、のちの「天台宗」や鎌倉仏教の諸派のような教団組織ではなく、↑引用文にあるように、政府が決めた「統制の所産」にすぎませんでした。教団組織をめざしている「行基集団」のような存在は、逆に「異端」として退けられたのです。
岩 屋 寺 址 二上山
やはり、石切場に建てられた寺。
岩屋の中に石塔を彫り残している。
第3条:
『つぎに、徳の素養には生まれつきの違いがあり、学ぶべき学業のほうにも、大まかなものと細密なものがある。各人の性分に適した学に就かせよ。およそ諸々の僧徒は浮遊させてはならない。〔村里に浮遊してアルバイトなどさせてはならない。修学に専念させよ。――ギトン註〕』
宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.195.〔一部改〕
『僧尼の浮遊は、〔…〕藤原武智麻呂が述べるように、糊口をしのぐために村里に分散流入する相当数の僧尼があり、また養老元〔717〕年詔が述べるように、行基の徒もそうした街衢に浮遊し乞食する徒であった。』
吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.140.
『僧尼令』6条は、寺院外で「衆を集め教化すること」を禁じていました。つまり、律令は寺院外での布教を全面的に禁じていたのです。僧尼が寺院の外で「浮遊」していれば、目的のいかんを問わず「教化」とみなされ、この条に違反する余地がありました。律令国家としては、僧尼はとにかく寺院内に閉じ込め、学業に専念させる必要があったのです。
なお、ここで「詔」は、修業僧をその天分にしたがって “宝石” と “石ころ” に選り分け、“宝石” には宗義〔「法相」「三論」「律」など各宗の教義〕を研究させ、“石ころ” は、もっぱら禅行(ぜんぎょう)に従事させよ、としています。坐禅、ヨガ瞑想などの禅は、経典の意味を研究する教学よりも価値が低いと、当時は考えられていたのです。
このように、718年の「太政官告示」は、僧界の自主性を尊重するという点では、717年の「詔」とは異なってハト派ですが、寺院・僧尼に律令を守らせるという 717年「詔」の基本線は、そのまま維持しています。不比等と対立する “穏健派” の意見は、けっして国家による仏教統制に反対しているわけではなく、護国仏教――仏教は律令国家に奉仕するためにのみ存在する――を否定するのでもありません。それが、のちの最澄や空海のような教団仏教や、鎌倉以降の民衆仏教とは、大きく異なる点なのです。(それでは行基は? ‥‥これはたいへん大きな問題です。)
“穏健派” は、あくまでも律令国家内の穏健派であって、ただ、不比等や、のちの長屋王のように中国式の律令に一辺倒の強硬派とは、やや異なる方向へ律令国家を動かしていこうとしているのです。
第4条,第5条:
『④僧尼は法に従え、⑤みだりに入山して庵(いおり)を作ったり、いかがわしい托鉢行をするのを禁止せよ、という。これらについて、僧綱は熟慮し、よく討議し、また非行違犯僧尼に対し、僧綱が禁制し説諭せよという。つまり〔…〕教団の自浄機能に期待し、〔…〕僧綱の主体性を尊重しようとするのである。違反僧尼への科罰を避けようとするのである。』
吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.79.[一部改]
第5条を、「告示」の文面で見ておきましょう:
『また僧侶が寺に住まず、〔…〕気ままに山に入り、たやすく庵や岩屋を作ることは、清浄な山河を汚濁し、霧や霞の美しさを、人のいぶす煙で汚すことである。〔…〕このような輩には説諭を加え禁制せよ。』
宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.196.〔一部改〕
庵や岩屋寺を作って「清浄な山河を汚濁し」、霞たなびく美しい風景をよごしている――というのは、すごい認識ですね。たしかに、そのとおりかもしれません。山奥のお寺やペンションに読ませてやりたい一節ですw。
以上、718年の「太政官告示」の検討が長くなってしまいましたが、本題に戻しますと‥、717年の「詔」では、実施面での緩和、という形で、それとなく言外に表れていた寺院僧尼の自主性を尊重する政策志向が、翌年718年の「太政官告示」では、前面に現れています。それとともに、717年「詔」の強硬な調子は影をひそめているのです。つまり、717年から718年にかけて、強硬派(藤原不比等)とは異なる “穏健派” の発言権が、より大きくなっているということができます。
それでは、不比等と対立する政府部内の穏健派とは、誰なのか? 私は、不比等の息子である藤原房前(ふささき)だと思います。房前は、不比等の次男です(庶子だったと言う人もいます)。長男で嫡子の武智麻呂と比べ、官等は不遇でしたが、政治的力量はより高いと見られていました。717年「詔」が出た 4月の時点では無任所でしたが、10月には「参議」に任官し、「太政官」の一員となっています。「参議」は、左右大臣・大中納言とともに、「太政官」の合議制意志決定機関である「議政官」の一員で、天皇の下での最高の意思決定権者のひとりです。
不比等は、房前の力量に一目置いて、嫡子・武智麻呂よりも先に、次男で官等も低い房前を「議政官」に任じているくらいです。おそらく、すでにそれ以前から、私的な場では事あるごとに、房前の意見を聞いていたと思うのです。717年4月の「詔」についても、不比等は事前に房前の意見を聞き、房前の反対意見に納得はしなかったものの、一歩譲って、峻厳な「詔」の・実際方策の面だけは緩くしたのでしょう。
しかし、房前が「参議」として合議に参加した翌年の「告示」では、(おそらく、ほかの議政官は房前の意見に賛成したのでしょう)全面的に彼の意見を容れて、教界の自浄を促す方針を明確に打ち出したのです。
政治史では、房前は、不比等・武智麻呂とは異なる融和派、誰の意見にでも同調する穏健派と見られています。が、私は房前がただの優柔不断派だとは思いません。房前の性向を一言でいえば、一種のプラグマティズム(漢字でいえば「実事求是」)だと思います。
当時、多くの官僚は、中国の書物から得た律令・歴史・儒学の知識によって物事を判断していました。しかし、房前は、書物よりも実際の社会や、眼の前で進行している事態を自分の眼で観察して判断しようとしたのです。房前が、「政治的力量がある」と評価され、しばしば巡察使として功績を挙げたのも、この性格・考え方に基づくものでしょう。
不比等をふくめて多くの官僚は、律令の規定や、中国の史書から得た知識で、「行基集団」は中国の宗教結社に似ている危ないものだ、放っておけば反乱を起こす、と考えました。しかし、房前は、彼らの活動を実際に観察し、またそれを見た人びとの噂や評価を聞いて、「行基集団」の活動は決して危険なものではない。むしろ、朝政の欠を補うもので、適切に導けば、律令政治を益するにちがいない、と考えたのです。
不比等の死後、房前は長屋王政権のもとでも「参議」を勤めています。長屋王の強硬な仏教統制策・「行基集団」殲滅策に対して、房前が政治行政の面で抵抗した痕跡はありません。しかし、強硬禁圧によって「行基集団」が受ける損失を緩和するような・私的な便宜をはかる、というやり方で、「行基集団」の支援に努めてもいるのです。それは、次節以降に見てゆくことになるでしょう。この面でも、彼はプラグマティストに徹していたのだと思います。それはまた、政治的野心をもたない、ということでもあります。
対して、政治的野心満々のタカ派律法主義者不比等。それでも不比等の偉いところは、自分と反対の意見を封じ込めて黙らせてしまうのではなく、耳を傾けて理解しようとし、決定に参与させた点にあります。
興 福 寺 中 金 堂
中金堂は、藤原不比等によって平城京遷都直後に
造営が開始された。現在の建物は、2018年再建
【49】 722年――長屋王政権の禁令
722年7月10日の「禁令」は、太政官の「上奏」を元正天皇が許可し、天皇の命令として施行されています。これまでの「詔」とは違って太政官の起草ですから、それだけ太政官「議政官」の意向が強く出ていることになりますが、じっさいには太政官の首位権力者である長屋王の意向です。そして、内容的にも、これまでの、僧界の自主性と自浄機能を尊重する方式から大きく離れて、俗官による苛烈な処断を加えていきます。
このように朝廷の仏教統制政策が急転換したのは、720年に藤原不比等が死亡し、長屋王が大納言に就任(721年1月,右大臣に昇格)したことが大きかったと思われます。「行基集団」の活動に理解のあった房前はなお参議の職にありましたが、独断専行する長屋王の前では、あえて異論を唱えない態度でやりすごしていたと思われます。
この禁令は、717年の「詔」のように行基が直接名指されてはいませんが、内容的には、717年に糾弾されたのとほぼ同じ集団宗教行動を、こんどは実際にも峻厳に処罰して取り締まろうという内容ですから、「行基集団」に影響がなかったとは考えられません。
ネタバレで言いますと、この「禁令」によって、「行基集団」は、平城京と大和國では壊滅的打撃を受けました。これをもって、初期の「行基集団」は解体消滅したと言ってよいほどです。
ただ、行基自身はからくも逮捕を免れて故郷の和泉國へ逃れ、和泉~河内を中心に、新たな活動形態を模索していきます。なぜこの「禁令」は、これまでにはなかった強烈な打撃を行基らの活動に与えたのか? 行基はなぜ逮捕も、その結果としての還俗も、免れることができたのか? そこには複数の要因が絡んでいるので、おいおい解きほぐして説明していきます。
ここでは、まず、「禁令」の3日前に出された元正天皇の「詔」を見ておくことにします:
『〔ギトン註――722年〕7月7日、次のように詔した。
このごろ陰陽が乱れて、災害や旱魃がしきりにある。〔…〕これは朕の徳が薄いために起こったことであろうか。〔…〕天下に恩赦を行なうことにする。
国司・郡司に、無実の罪で獄舎につながれている者がないか詳しく記録させ、路上にある骨や腐った肉を土中に埋め、飲酒を禁じ、屠殺をやめさせ、高齢者には努めて憐れみを加えさせよ。〔…〕』
宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.241.〔一部改〕
これはすべて、不吉な災いを引き起こしている原因を除去するためにすることなのですから、「路上にある骨や肉」とは、動物の死骸などではありません。人間の骨と肉であり、行き倒れたか遭難した行路人のバラバラ死体です。それらを埋葬して、不吉の原因を取り除こうというのです。
(13)【43】で引用した 712年の「詔」にあったように、当時、街道すじの路畔の溝には、しばしば、路上で行き倒れた調庸運脚夫の死体が放置されていました。それが 10年前のことです。
ところが、10年たっても事態は改善されるどころか、ますますひどくなっていることがわかります。いまや、溝に寄せて片付けることもできないほど多くの死体が路上に散乱し、それらは風雨と獣の食害にさらされてバラバラの肉と骨になって腐臭を放っているというのです。
行基らの救済活動にしても、この全国的な惨状に対しては微力にしかなりえないことを認めるほかない状況でした。ところが、このようななかで、朝廷では「717年7月10日の禁令」を太政官が奏上したのです。それは、改善・解決とはまったく逆方向に、事態を動かそうとするものにほかなりませんでした。
平 城 宮 太政官と推定される建物は、内裏(天皇・後宮の住居)と
東院(皇太子の住居)に挟まれた一角で発掘されている。すぐ近くには
長屋王が広壮な邸宅を構え、やや離れて行基集団の根拠地菅原寺が見える
‥‥というわけで、これからいよいよ、長屋王政権の「禁令」――717年7月10日の「太政官奏」に入るのですが、残念なことに、もう字数の制限が迫っています。このまま読み始めると、上奏文の途中で切れてしまうことがわかりました。
ですので、ここで次回に送らざるをえません。次回は、最初から上奏文にとりかかり、そのなまなましい内容を読んでいきます。
よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!