小回りのコースに変えたので、時間があまった。虫沢に「龍王寺」というお寺があるので訪ねてみる。禅でらのようだ。
この寺には讃歌があるらしい。ちゃんとメロディーもついている。ピアノか何かで伴奏して、みんなで歌うんだろうか。
「迎えたもうは六地蔵」↓
中津川を渡る。ここからだと、「鍋割」から下りて来る尾根が、すっかり見える。
踏査記録⇒:YAMAP
タイムレコード 20230130 [無印は気圧高度]
(2)から - 1440虫沢[279mGPS] - 1449龍王寺[290mmap]1453 - 1520「田代向」バス停[241mGPS]。
‥‥しかし、ちょっと早まった。まだ時間があったのだから、「寄神社」に寄っておけばよかった。そこで、「やどろぎ」を再訪することになる。
↑「寄神社」は、「弥勒寺」集落の入口にある。となりに「寄小学校」と、松田町の支所、つまり、もとの「寄村役場」があり、ここが「やどろぎ村」の中心だったことがわかる。
↑「堅牢地神」か? 地神塔のようだ。↓鳥居をくぐって、石段を昇る。
拝殿。前に大イチョウ。
↓神殿。
↓拝殿。「寄神社」の扁額がかかっているが、よく見ると、内部の扁額には「弥勒神社」とある。波浪をあしらった絵が多い。海の神様(仏様?)なのだろうか? ――そこで、またひとつ渡来人との関係が思い浮かぶのだが、それはまたその現地に行って書くことにしよう。
けっきょく現地では、頼朝以前の「弥勒寺」の歴史はわからなかった。明治の「廃仏毀釈」で、寺伝文書類が廃棄されてしまったのだろうか。こちらによると、
「創立年月不詳。古来より弥勒堂と称し、御神体馬乗の本尊を安置。明治元年二月、弥勒神社と改称す。
明治八年五月、寄村誕生。明治四十二年三月一日、村内各社を弥勒神社に合祀、寄神社と称し現在に至る。
弥勒堂、往古は弥勒寺と云禪刹たり、建久三年八月、頼朝夫人臨産の時、祈請のため諸寺に誦経を修せられる。当寺其一たり。(吾妻鏡)
〔…〕文政六年、火災の為に全焼(新編相模国風土記稿)。
文政十一年葵年十一月、再建。明治九年四月三日、本殿新築。明治三十年、神殿造りに改築。」
とある。「葵年」は不可解だが、ともかく鎌倉時代には「弥勒寺」という禅寺だった。江戸時代には「弥勒堂」だけが残っていたようだが、馬乗の弥勒像を安置していた。馬にまたがったミロクとは!‥日本仏教ではパターンになっている「半跏思惟」の弥勒菩薩とは、まるでイメージが違うことに注意したい。
しかし、その「弥勒堂」は、文政6年(1823年) に全焼。同11年(1828年) に再建。明治初期の「廃仏毀釈」で「弥勒神社」に改称し、明治9年(1876年) には、弥勒堂を仏堂建築のまま(?)拝殿とし、その奥に「本殿」(神殿)を新築した。その後、明治30年(1897年) になって、神社建築に改築されている。
その経緯は、現在の拝殿の形(写真参照↑)を見てもわかる。もとは、寄棟造の弥勒堂だったのだろう。前に庇を伸ばして神社の拝殿らしくしている。それが 1897年、つまり日清戦争後に行われた改築だろう。1876年の「本殿新築」は、弥勒堂の後ろに、切妻造の「本殿」を付け足して、弥勒堂を神社の拝殿のように見せかけたものだろう。その時点では、「白馬のミロク像」がまだあったかもしれない。
明治官僚政府の「神仏分離」政策による「文明開化」の強制に、形だけ従って、弥勒信仰の伝統を守ろうとした山里の巧妙な抵抗だったと言えるのではないか。
そういえば、鳥居の前にある忠魂碑は、日清戦争の村出征戦死者のものだった。その機会に国粋主義が強まって、仏教色を払拭したのだろう。それでもなお、当時の祭神は「弥勒大神」と称していたようだ。
日露戦争後の明治42年(1909年)、寄村内各集落の産土神 8社が合祀されて「寄神社」となり、祭神も、「天照大日孁尊(オオヒルメノミコト)」〔アマテラスオオミカミの別称〕ほか 16柱が加わって、ミロク大神は影が薄くなってしまった。
いわゆる近代「神社神道」の整備とともに、在地に根づいていた古来の弥勒信仰は、公の領域から厳しく排除され、村民の不確かな言い伝えにのみ命脈を保つこととなった。
さて、神社前から「弥勒寺」集落の通りを下ってゆくと、「福昌院」という寺院がある。ここも禅寺のようだ。
↓山門。延享年間〔1744-1748〕の建築。
本堂↓。「福昌院」は、戦国時代・天文年間〔1532-1555〕の創建で、虫沢の「龍王寺」は、ここの末寺なのだそうだ。本堂内には、本尊・聖観音ほか諸仏を安置しているが、江戸時代ないしそれ以前から伝わる仏像も多いようだ。ただし未調査。
特筆されるのは、江戸時代から寺子屋を開いていたことで、明治初期、近代学校に移行し、現在の「寄小学校」の前身となっている。
山門わきにおかれた石仏↑。建立年の銘は、
「明和四[丁]亥天九月吉日」
と読める。明和 4年は 1767年。この年、「明和事件」勃発。山県大弐らが尊王攘夷を唱えて幕府に捕らえられ、処刑されている。
近くの路傍にも、石仏や石塔が集められている↓。
ふり向けば、日はすでに山の端にかかっていた。
タイムレコード 20230201 [無印は気圧高度]
1533寄神社・鳥居前[301m]1603 - 1620「福昌院」山門[268mGPS]1636 - 1640石仏[275m] - 1645「札場」バス停[276m]。