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【19】 いつもほがらか「動物の国」

 

 

 前回扱った平子氏の論文では、「だましあい」があまり出てきませんでした。金子武蔵氏のほうの解説では「Ⅴ-C-a」の中心的な特徴のように述べられているのですが、経済学者と哲学者では、ヘーゲルの読み方が異なるのかもしれません。

 

 平子氏の論文からコピーして貼り付けた前回の図(【17】図1「ヘーゲル行為論の基本図式」)を見ると、「ザッヘ・ゼルプスト(事そのもの)」から「ザッヘ」に分配される過程に、「相互欺瞞の世界」と書いてあります。平子氏の考えでは、「だましあい」は、「事そのもの」からの分配(「所有権」の取り合い)の過程で起きることと把えているようです。企業が販売によって得た付加価値(売上げマイナス原材料費・設備消耗分)に対して、労働者は労働価値説に基いて全部自分のものだと主張し、経営者はイノベーションによる貢献を主張し、オーナーは企業所有権に基く成果の所有を主張する、ということのようです。

 

 しかし、片手落ちになるといけませんので、金子氏の議論も見ておきたいと思います。

 

 「Ⅴ-C-a」節は、「精神的な動物の国と欺瞞、あるいは事そのもの」と題されています。

 

 

『「精神的な動物の国」と言われているが、〔…〕いかなる意味において動物的であるかと言えば、〔…〕動物と言えば陸棲動物、水棲動物であり、また空中にすむ鳥などであるが、動物的生命が成立するにはかかる生活圏(エレメント)が必要であり、〔…〕それぞれの動物は自分の生活圏〔…〕から制限を蒙って、それぞれ特殊の体制・組織を具えてはいるが、しかしそれでいてやはり同一の普遍的な動物的生命であることを保っている。これと同じようなことが当面の個体性にもある〔…〕

 

 この個体性も存在的に限定せられたものとなっている〔…〕ヘーゲルは〔…〕「根源的に限定せられた自然」と呼んでいる。つまり個体性は普通に生得的個性と呼ばれているものをもつことになるのであるが、そのかぎり、この個体性も最初は個別的な個体性であって、これにとっては普遍性はまだ空虚な思いであるにすぎぬ。

 

 〔…〕それぞれの個体性がいかなる環境においてあるか、なにに対して関心をいだくか、なにを目的とするかはすべてこの根源的に限定せられた自然によってきまっていることであり、またなにをもって手段とするかも同様である。』

『ヘーゲル全集・4 精神の現象学・上巻』,金子武蔵・訳,1971,岩波書店,pp.715-717.

 

 

 個人の使える手段、つまり個人の才能は、その生活圏というべき「限定された自然」によって決まることですし、どんな道具を使えるかにも同様の制約があります。仕事の目的も、自分の狭い生活圏に閉じこもった “個別性だけの個人” にとっては、自分の環境・自然によって、まったく決まってしまうことです。こうしてできあがった結果としての仕事は、その個人の持つ自然がそのまま表現されたものでしかない。

 

 つまり、「Ⅴ-C-a」節の出発点――近代の出発点――にいる・まっさらの個人とは、このように、自分の自然の個体性に閉じこもった存在、「モナド」のような個人なのです。

 

 

『そこで根源的に限定せられた自然は、環境-関心-目的-手段-結果を包んだ場面のようなものであり、個体性はこういう場面のうちを妨げられることなく、自由に闊歩しているのであって、それぞれの動物が自分の生活圏のうちにおいて生を楽しんでいるのと同じである。そうして動物が自分の生活圏のそとには出ることがないのと同じように、この個体性もまた根源的に限定せられた自然が形づくる場面を越えてそのそとに出ることはない。』

『ヘーゲル全集・4 精神の現象学・上巻』,金子武蔵・訳,1971,岩波書店,p.717.

 

 

 つまり、ヘーゲルの云うところでは、このような素の個人は、「本能にしたがって生き」ている動物と同じように、「高揚もなければ悲嘆もなく悔恨もなく、つねに喜悦を感じているだけである。」たとえを挙げるなら、伝統的な生活をしている農奴のような存在でしょう。決まりきった作物を、しきたり通りのやり方で作り、決まりきった割合の年貢を領主におさめるだけで、売れそうなものを作って市場(いちば)に出して儲けようなどという考えは決して起こさない。だから、豊作になっても儲からない代わり、よほどの飢饉にならない限り、自分の食べる食糧だけは確保できる。「雨ニモマケズ」のように「いつも静かに笑ってゐる」農夫像があるわけです。

 

 

 

 

 しかし、このような個人が、売るものを作る――市場(しじょう)を目的とする生産をはじめるやいなや、この均衡状態は壊れます。

 

 

『行為の結果である仕事は客観的普遍的なものであるから、自他の間で相互に比較され区別され、この区別を通じて個体性の強弱優劣が、したがって個体性の〔ギトン註――普遍性による〕制限が顕わになる〔…〕しかしかかる比較は個体性の外に出ることによって初めて成立するものであり、

 

 仕事〔ヴェルク――ギトン註〕はたしかに客観的普遍的なものであって、それぞれの個体性を、その根源的に限定せられた自然が形づくるところの場面から引きずり出して、もろもろの他の個体性にまざまざと直面させる〔…〕

 

 仕事は一方においては、たしかに個体性の表現であ〔…〕るけれども、しかし他方においては、〔…〕すべての人々に対してあるところのものである。〔…〕他の個体性たちが〔…〕、もとの個体性のなした仕事に対していだく関心や目的はおのずから別個のものであり、彼らはこれらに基いてこの仕事に変更を加える、〔…〕そこで仕事とはなんであるかと言えば、もろもろの個体性が各自の〔…〕自然にしたがっていだく関心や目的〔…〕や能力によって相互に作用しあうことによって崩壊するという全般的運動のうちに〔…〕消失する契機でしかない、ということになる。

 

 〔…〕個体性は仕事のうちに自己を認めることがない。〔…〕前には個体性の形づくる場面〔個人の狭い「限定された自然」――ギトン註〕のうちにおいて統一づけられていた諸契機〔環境,関心,目的,手段,結果――ギトン註〕はバラバラになってしまう。』

『ヘーゲル全集・4 精神の現象学・上巻』,金子武蔵・訳,1971,岩波書店,pp.717-718.

 

 

 つまり、制作者の関心も、執りうる手段も伝統的・自然的な環境によって決まっていた状態が壊れてしまうので、それらの組み合わせは恣意的になり、しかも諸個人が介入して変更しあう結果として、「仕事としての一応の成功をとげるかどうかは全く運しだいということになり」ます。たまたま関心をいだいた仕事であっても、それを実現できる手段が択ばれるとは限らない。できあがったものが、意図していた目的に合うとは限らない。市場生産の例でいえば、売れると思って作った商品が売れずに大損してしまう、というリスクは、決してなくすことができません。なぜなら、買い手として「仕事」の完成に介入してくるのは、常に他人だからです。


 

〔ギトン註――知覚の対象である〕物が、人間の手の全然加わっていない、ただ対象として与えられた全くの他者であるのに対して、「事そのもの」の事は仕事であり、人間の手の加わった、〔…〕社会的に通用する、ないし通用することを要求するところのものであります。〔…〕仕事をするには、誰しも、誠実をもって事にあたらなくてはなりませんから、ヘーゲルはこの段階の意識を、「誠実なる意識」とよんでいます。誰でもみな、単に自分一個人の事を考えずに客観的・普遍的な事そのものを重んじ、誠心誠意をもって仕事にあたり、そうして仕事を媒介としてお互いに結合しているのです。〔…〕

 

 しかしまた、知覚が同時に錯覚であったのと同様に、ただいまの誠実も同時に欺瞞でありまして、「精神的動物の国」ではみなお互いにだましあっているのですが、これはなぜでしょうか

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』, 1996,ちくま学芸文庫,p.208. 

 

 

 

 

 

【20】「誠実」なのか、不誠実なのか、だましあい。

 

 

 ここでヘーゲルは、学者の研究と成果の発表、という例を出しています。ヘーゲルは、イギリスの国民経済学の著作も読んでいるのですが、じっさいに自分で商売や工場経営をした経験はありません。だから、自分が実際にやって、よく分かっている学者の領域で、具体的な考察を進めたのでしょう。「だましあい」をもっぱらその例で説明しているので、これを本来のアダム・スミスのような広い土俵に持ち出すには、読者に想像力が要求されます。

 

 ちなみに、『精神現象学』を公刊する 2年前(脱稿の 1年前)まで、ヘーゲルは「私講師」という身分でした。「私講師」は(19世紀)ドイツの大学に特有の制度で、大学は講義の場所を提供するだけで給料は出さない。講師が自分で宣伝して学生を集め、学生から「登録料」を取って講義を行なうのです。ですから、フリーのタレントのようなもので、人気が出なければ収入はありません。正規の教授に昇格する道も閉ざされます。学識と人気は別ですから、歴史に残る著名な学者なのに、「私講師」のまま一生を終えた人もいます。

 

 つまり、学者でありながら、商売人の一面も持っている存在でした。ヘーゲルの以下の議論は、そういうつもりで読む必要があります。

 

 まずは、ヘーゲルの云う学者の例を見ましょう。たとえば、ある人Aが、あるテーマについてレッキとした成果を上げたと信じて研究結果を発表したとする。「それは客観的普遍的な仕事である。だからそれは当人によってなされようと、他の人々によってなされようと、どうでもよいはずである。」(『ヘーゲル全集 4』,p.720.)そこで、発表を聞いていた人Bが、それは他の人Cがすでに発表していることと同じだと指摘する。あるいは、(Aにとってはもっと迷惑なことに)その研究はたいへんに意義深いから、私の完備した研究室でやってあげましょう。ついては、貴方がいままでやってきた実験方法をもっと詳しく教えてほしい。

 

 するとAは、私は「業績を上げるためにやっているのではなく、ただ自分の興味の赴くままに自分の能力を働かしているだけだと答える。」だから、放っておいてほしい、俺が好きでやっていることに干渉するな←。しかし、これはゴマカシです。Aは、おおぜいの前で発表したことじたい、自分の「仕事」は客観的で公共的なものだと主張しているに等しい(顔に書いてあるw)。それなのに、自分の動機も成果も自分だけの個人的なものだと主張する。Bは、ダマサレたと思う。

 

 しかし、Aから見ると、Bのほうがダマシている。Bは、この「仕事」は公共的なものだという前提で発表を聞きに来た。発表を自分Bの私益に利用しようとする輩(やから)が聴衆のなかにいると知っていたら、自分Aも発表などしなかった。ところが、Bは “私の” 研究を横取りして自分が研究して業績にしようとしている。あるいは、“私の” 研究はすでにCがやっているなどと、こじつけを言って、私の業績を台無しにしようとしている。Bが、そんなことをするのはもちろん、公共のためなどではなく、自分Bの権威を私Aの業績によって侵されたくないからだ。

 

 こうして、それぞれが、“公共の仕事でありその成果である研究” つまり「事そのもの」を錦の御旗(みはた)にして、たがいに、相手は詐欺師だ、ホントは陰で自分の私益を図っているじゃないかと非難し合う。そして、自分こそは、誠心誠意「事そのもの」に従(たずさ)わっている「誠実なる意識」なのだと主張する。

 

 

   

 

 

 あるいは、次のようなこともあるでしょう。「俺Bの論文がヒントになって、Aはこのことを発見したんだ。Aが成功したのは、俺が智慧をつけてやったからだ」というような自慢話はよくあることです。こうなると、他人の仕事に横っちょから介入したり、他人が成果を上げるキッカケを作ってやっただけでも「ひとかどの事」になり、「自分の仕事」として自慢できてしまう(ちくま学芸文庫,p.209.)。はては、「世界に或る事件が起ったとして、〔…〕それに興味をもち関心をいだいたというだけ〔…〕でひとかどの事業を成就したと思いこむ」ことにもなる(『ヘーゲル全集 4』,p.719)。

 

 動機が公共的になったり、個別的になったり、手段が公共的になったり、個別的になったり、成果が公共的になったり、個別的になったり、「欺瞞は交互に行われているのである。しかしこれは不可避的な必然的なことである。」なぜなら、「事そのもの」というのが、「公的であると同時に私的、個別的であると同時に普遍的、〔…〕主体的な働きであると同時に客体的な成果であり、その逆でもある」ようなものだからだ。(『ヘーゲル全集 4』,p.721.)

 

 

『今度は逆に欺瞞が積極的意義をもつことになります。なぜといって右のように、例外なくみながみなお互いにごまかしあいをしているということは、事そのものが単なる成果でもなければ単なる活動でもなく、〔…〕単に客観的なるものでもなければ単に主観的なものでもなく、じつはこのように対立する両面を含んだものであり、例外なくみながみなまぬがれえぬ欺瞞〔つまり「だましあいの国」,国をあげての「だましあい」――ギトン註〕は、このような対立を越え包むところに真の現実の成立することを暗示しているからであります。みながみな欺瞞をまぬがれえぬということは、一段と高まり深まるべきことを意識に要求しているのです。〔…〕

 

 対立したもののどちらをも切り離してはいけないのであって、それらをある全体的なものの契機としてとらえなくてはならないことに気づく〔…〕ようになると、そこに実体的全体性が主体化せられつつ恢復せられることになります。〔…〕しかして、恢復せらるべき全体性は人倫ですから、このあたりから行為の道徳的意味が顕現してまいります。』

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』, 1996,ちくま学芸文庫,pp.211-212.    

 


 こうして、次の「Ⅴ-C-b 立法的理性」節では、人間の合理的思考によって道徳を定立しようとするカントの実践倫理哲学が俎上に乗せられるのです。

 

 しかし、私たちはここで歩みを止めて、「事そのもの」について、もっと別の例で考え直してみたいと思います。



 

 

 

 

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