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【12】 第Ⅴ部B章a節――「快楽と必然性」

 

 

 まず、題名にある「快楽(けらく) Lust」という語ですが、独和辞典を引きますと、「気乗り,欲求,快感」などの意味と、「色欲,情欲,肉欲」という意味が書いてあります。現代ではふつう、前者の軽い意味で使われるのですが、金子氏によると、ヘーゲルはもっぱら後者の意味で使っているのです。『精神現象学』の用例として、

 

『der tapfere Jüngling, an welchem die Weiblichkeit ihre Lust hat 女の性(さが)がそれに接すると情欲を抱くような雄々しい若者』


 というのが挙げられています(『ヘーゲル全集 4』,p.562)。以下の引用で〈 〉は、原文の傍点を示します。

 

 

『〈けらく〉とは男女間の愛欲を自由奔放にとげることです〔…〕

 

 快楽(けらく)は、すでに取り扱われた「自己意識」の個別態たる欲望第Ⅳ部――ギトン註〕に似ていますが、同じではありません。欲望が生命の立場からするものとして、に対するものであるに対して、快楽はすでに「我なる我々」あるいは「我々なる我」の発展たる理性を背負っているものとして、満足をとのあいだにではなく、他の自己意識とのあいだに求めるものです。

 

 簡単にいえば、快楽とは社会的のものであり、人間と人間とのあいだにのみ成立するものであります。

 

 本来的にいえば、人格と人格とのあいだには、結合あるいは肯定のほかに、分離あるいは〔…〕否定の隔たりがあり、連続のほかに非連続があります。しかるにこの非連続の面を忘れてしまって、連続の面だけをみてとり、そして他人のうちに自分自身の満足を求めようとするのが快楽の段階です。

 

 歴史的にいえば、観察の段階がルネッサンスに始まる科学研究を背景にするのと同じように、快楽の段階も、中世クリスト教の禁欲主義から解放せられた当時の人間が地上的快楽にめざめたことを材料にしています。たとえばボッカッチョの『デカメロン』に示されているように、当時の人間が愛欲に身を委ねたことをどなたもご承知です

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』, 1996,ちくま学芸文庫,pp.145,196.    

 

 

 もっとも、ヘーゲルがここで(パロディにして)引用しているのは、ゲーテの『ファウスト』ですが、『ファウスト』も、グレーチェンとファウストの恋愛場面は「ルネサンス気分を横溢させている」と評されています。

 


『それ〔自己意識――ギトン註〕は、悟性と学問という

 人間最高の賜物(たまもの)をさげすみ――

 それは悪魔に身を委ねて

 没落せずにはおられない』

『ヘーゲル全集・4 精神の現象学・上巻』,金子武蔵・訳,1971,岩波書店,p.363.

 

 

 ヘーゲルが↑引用しているのは、メフィストフェレスのセリフを少し変えたものですが、悪魔と契約して若返ったファウスト博士、つまり「自己意識」が、学者として持っていた確かな認識力や学識(Ⅴ-A「観察」の成果)を投げ捨てて、恋愛にふけっているさま、身を亡ぼすほかはない道に向っているさまを皮肉っているのです。

 

 この段階では、「自己意識」は、死んだ「」や、一方的に隷従する「奴」を相手にしていたのでは満足が得られなくなり、自分と同じ「自己意識」、つまり対等な人間を相手にして「快楽」に耽ろうとするのです。「快楽」が人間に、これまでにない満足を与えるかのように思われるのは、相手は対等な人格であり、自分とは「へだたり」も「不連続」もあるのに、そのことを一切忘れて、相手と自分が一体になったかのように感じられるからです。「快楽」にふけっている相手以外の実在は、「自己意識」の眼中にはありませんから、けっきょく「自己意識」は、全世界と継ぎ目なくつながったかのように、自分が全世界になったかのように思いなして、至上の満足を得ることになります。

 

 前々回に述べたように、「実体を主体とすること」、つまり全世界を自己自身とすることこそが、「自己意識」の究極の目的なのですが、ここで「自己意識」は、この目的を単直に実現しえたかのように、一瞬のあいだ思いなします。もちろん、その実現――自己意識の満足は、きわめて抽象的で脆い達成でしかありません。

 


『かくて「理性的自己意識の自己自身による実現」Ⅴ-B の標題――ギトン註〕とは要するに実践によって自己が他己のうちに自己を見出して〈個人の社会化〉されて行く過程であることになる。〔…〕

 

 ところで自己意識は大別してその自立性と自由という2つの段階に分たれたから、これに応じて行為的理性も先ず B と C という2つの段階に大別されることになる。

 

 そこで行為的理性はⅤ-B において――ギトン註〕自立性を求めるが〔他の自己意識と対し合うことが即ち「自立性 Für-sich」である。​​​​――ギトン註〕、求めるのは、最初は個別者の立場においてである。そのために一方の自己意識が「主」として他方の自己意識を「奴」としたのと同じような事態が生ずる

『ヘーゲル全集・4 精神の現象学・上巻』,金子武蔵・訳,1971,岩波書店,pp.695-696.

 

 

 つまり、「快楽」においては、「主人と奴隷」の場合に似て、他人または「他の人々を征服する態度」がとられる、とヘーゲルは云うのです(p.702)。ただ、これは、「快楽」そのものよりも、つぎの「b 心胸(むね)の法則(のり)」において顕著になります。「快楽」においては、たがいに相手とのあいだの不連続性を無視するだけですが、「b」では、それぞれが自分の「心胸(むね)の法則(のり)」を相手にも圧(お)しつけようとするので、相克が生じます。

 

 

 

 

 

 ここで、ヘーゲルの原文を引用してみます↓。< > は原文の傍点で、ヘーゲル原著のイタリック。

 

 

『存在は自己意識にとって他の現実であり、それはみずからの現実〔「自己意識」自身の現実――ギトン註〕とはべつのものとして対立しているのである。かくて自己意識が向かうところは、自己意識の じぶんにとっての存在〔Für-sich-sein〕 をかんぜんに実現することによって、みずからを他の自立的な存在者〔Wesen〕として直観すること〔そうやって、自分自身が実在[Realität リアリティー]であることを観取すること――ギトン註〕である。

 

 この〈最初の目的〉とは、個別的な実在〔Wesen〕としてのじぶんを他の自己意識のうちで意識するようになることなのだ。ことばをかえれば、この他のもの〔他の自己意識――ギトン註〕をじぶん自身としようとすることである。自己意識が〔もともと〕懐(いだ)いている確信は、〈それじたいとしては〉すでにこの他のものが自己意識自身であることだったのである。〔…〕

 

 自己意識は、かくて生のうちへと飛びこんで、純粋な個体性を、自己意識が登場するさいにまとっていたすがたのままに実現しようとする。自己意識はみずからの幸福をみずから造りなすというよりは、むしろその幸福を直接に受けとって、これを享受するのである。〔…〕自己意識の側は生命〔Leben〕を受けとるけれども、それは熟れた果実を摘みとるようなものである。果実のほうも歓んで迎えいれさえするように、摘みとられるものなのである。〔…〕

 

 自立性の〈意識〉こそが〔…〕諸個体をそれぞれ自立的〔für sich〕なものとして支えていることになる。このような分離は、それ自体としては自己意識に対して存在しない、自己意識は、他の自己意識が〈じぶん自身の〉自己であるあり方〔Selbstheit〕であると知っているからだ。』

熊野純彦・訳『精神現象学 上』, 2018,ちくま学芸文庫,pp.557-560. 

 

 

『自己意識は、他の自己意識に現れる意識に、自分の実現を意識することで、〈快楽〉の享受へと到達する。つまり、ふたつの自立的な自己意識の統一をみてとることへと至る。この自己意識は、自分をこの個別的な自立的な存在として捉えた。

片山善博「近代的個人とは何か ヘーゲル『精神現象学』理性章Bを理解するために」 in:『日本福祉大学研究紀要 現代と文化』,128号,2013.9.,p.10.

 

 

 ヘーゲルの原文↑は、とにかく難しいですね。熊野純彦さんの訳は、原文の意味を損なわずに格段に解りやすくしたという評判の最新訳なのです。熊野さんは、ドイツ語原文とイポリットの仏語訳を並べて見ながら訳したそうですが、それでも、私たちにはホントに難解です。

 

 片山論文で引用されているのは、熊野訳に直接つながっている続きなのですが、そう言われなければ分からないほどです。まして、これが性愛の話だなんて、シロウトには想像もつきません。しかし、上の金子氏の噛み砕いた説明を踏まえれば、なんとか意味を取れるんじゃないでしょうか。

 

 

 

 

 さて、この「Ⅴ-B-a」は「快楽(けらく)と必然性(さだめ)」と題されています。「快楽(けらく)」は終ったので、「必然性(さだめ)」の説明に入ります。「主奴」の関係とは異なる・対等の「自己意識」どうしの交渉によって「快楽」という、“一体化” の幸福が実現されたものの、この幸福は「脆(もろ)い」と書きました。「快楽」は、みずからが生み出した「必然性(さだめ)」の壁にぶつかって、もろくも滅んでしまうのです。

 

 まずは、金子武蔵氏の砕いた説明を参照しましょう。


 

『愛欲に身をゆだねるとき、多くの場合、子供が生まれます。〔…〕

 

 快楽に身を委ねるものは、自分自身の満足だけを、自分の個別性を満足することを求めたのです。子供が生まれて、育てたり教育したりしなければならなくなると、自分一個の快楽ばかり満足させるわけにはゆかないのであって、自分の個別性も家族や社会や国家との強いつながりのうちにあることがわかり、家族の一員としての、社会の一員としての義務が鉄の鎖のようにひしひしとしばりつけます。そういう義理のしがらみが運命の必然性(さだめ)と感ぜられるわけなので、「快楽と必然性」という題がこの段階につけられているのです。

 

 快楽に身を委ねたものも、〔…〕理法の動きを認めざるをえず、単一性が数多性を通じて総体性に至るものであり、単一性といっても、じつは総体性を根拠としてのみ成り立っているものであることを、ひしひしと感ぜざるをえないというわけです。この意味で必然性(さだめ)があるのです。〔…〕

 

 しかし快楽の段階はどこまでも個別性あるいは単一性を重んずるものですから、個別性が数多性を通じて総体性に至るという理法の動きは、なにか嫌なもの、自分を強く拘束するものと感ぜられ、即ち運命的必然性と受けとられて、いやいやながら服従されるにすぎません。〔…〕

 

 とにかく〔…〕そうなってくると、自分もただ自分だけで存在しているものではなくて、なにか普遍的法則的のもののなかに存在しているものだということがいまさらながらひしひしと解ってきます。』

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』, 1996,ちくま学芸文庫,pp.196-198.    

 

 

『〈個々の欲望を充たそうとする〉個体のつれなさは,「この冷酷なしかし連続する現実において弾け飛んでしまった」(GW9, S 200-1)という。ヘーゲルにとって,個人とは普遍的なものとの関係において成り立つ概念であり,普遍的なものを捨象したままで,個人の自己実現を図るということは,逆に普遍的なものの仕返しを受けるということなのである.つまり,世間を無視して他者との間で欲望を満たそうとすることは,世間によって押しつぶされてしまうということなのである。』

片山善博「近代的個人とは何か ヘーゲル『精神現象学』理性章Bを理解するために」 in:『日本福祉大学研究紀要 現代と文化』,128号,2013.9.,p.11.

 

 

 上で金子氏が、妊娠・出産という例を出したのは、あくまでも解りやすくするための「たとえ話」でして、ヘーゲルの原文には、そんな話はまったく出てきません。「自己意識」だの「単一性」「数多性」だのいう抽象的な話が延々と続いているだけです。ですから、子供が生まれると困るが、生まれなければ幸福な「快楽」が永久につづく、というような話ではないのです。例を考えるなら、男が精子欠乏症で妊娠しない男女とか、同性カップルの場合にも通用することを考えなければならないでしょう。

 

 重要な点は、「快楽」においては、自己意識にとっての実在は、相手も自分も極端に抽象化されていて、性感にかかわるかぎりでの身体(器官およびフォルム)と、両者間の対幻想だけに矮小化され、それ以外の実在は一切捨象されていたことです。しかし、相手も自分も、家族や社会の中で生活してきた人間なのであり、「普遍的なもの」に至る系列のカテゴリーを背負った・その末端であるにすぎないということです。

 

 そうすると、2つの自己意識が結合することによってできあがったものは、「快楽」行為のさいの自他融合の幻想とは異なって、まったく予想もしていなかったような新たな現実だ、ということです。直接に「世間」から何か言われなくても、「世間」や自分の家族や生活環境を背負った相手とのあいだに行き違いが起こることもあるでしょう。あるいは、他の男(女)との関係や、単なる友達付き合いさえもが、相手の嫉妬を受けるかもしれません。「相手から離れられない」という絆じたいが、自立した個として「快楽」を求めた個別的意識の予想を超えているのです。

 

 重要な点は、こうしたすべては、ふたりだけの「快楽」の個別性に固執しようとする自己意識にとって、「普遍的」なものであり、自己意識の「個別性」の見地からは、まったく理解できない領域だということです。自己意識にとっては、「どうして、そういうことになるのか解らない」出来事であり、よそよそしい「必然性(さだめ)」でしかないのです。

 

 『全集』の「総註」のほうを見ると、その辺はもう少し原文に近い説明になっています:

 

 

『快楽は〔…〕それに耽ることによって断ちがたき絆が生じるが、これが単なる個別者としての自己意識には全く外的な必然性(さだめ)であり、これに出遭って個別的な自己意識は没落する。〔…〕

 

 快楽を求める自己意識は、相手において己れの対像(ついぞう)を見ることによって、「この」個別的な自己を直観しようとしていたのであるが、快楽がとげられると、直観せられたのは、「この」個的な自己ではなく、相手と絆のできている普遍的な自己である。

 

 しかし、この事態は、あくまでも「この」個的な自己の立場をとっている・当面の自己意識には、どうしてそうなるのか分からない「出来事」であり、ただよそよそしい必然性(さだめ)である。〔…〕

 

 快楽の享受において自己意識の経験するところのものは、かかる概念せられざる概念であり、必然性であり運命であるから、これにつき当って、「この」個別的な自己意識は没落するだけである。快楽を享受せんとするかぎり、自己意識は、生命を自分に取ったつもりでいたが、それは却って、自分から生命を取ったにすぎぬことである。しかし、この必然性は、自己意識が即自的にはすでにそれである〔「自己意識」自身は個別性に固執しているので気づかないが、自らが相手とともに形成しているのが、この「必然性」にほかならない。――ギトン註〕ところのものであるから、この点に反省が及ぼされると、自己意識は、もはや単に個別的ではなくなり、こうして、「心胸(むね)の法則(のり)〔次の「Ⅴ-B-b」節――ギトン註〕という新しい形態が生ずる。』

『ヘーゲル全集・4 精神の現象学・上巻』,金子武蔵・訳,1971,岩波書店,pp.699-701.

 

 

 

 

 

【13】第Ⅴ部B章b節――「心胸の法則」と「自負の錯乱」

 

 

 さて、前節「Ⅴ-B-a」の最後で、「快楽」を謳歌していた「自己意識」は、冷酷な「必然性(さだめ)」に突き当たって挫折し、自己喪失に陥ったのでした。

 

 

『当の意識は,〔…〕冷たい必然性(世の定め)と関わりながら生きざるをえないことを自覚する。しかし,この意識は「理性的自己意識」として,対象との一致を確信している(行為する理性である)ので,この必然性という「疎遠な現実」に立ち向かい,疎遠な現実を、そうでない現実に変えたいという欲求をもつ。〔…〕「自己意識は,実際には,この必然性を生き抜くことになる。というのも、この必然性あるいは純粋な普遍は、自己意識の本質だからである。」(GW9, S.200-1)ここで,意識にとって〈世界と自己との関連〉がはじめて自覚されることになる。〔…〕

 理性的な確信をもった自己意識は,この冷酷な必然性を新しい対象として見出し,その中で自己を実現しようとする。それは,その現実を自分にとって満足のいくものに変えることなのである。それをヘーゲルは,「あらゆる実在であるという確信」を持った個人が,心のうちに抱いた普遍的法則をそのまま自分のかかわる世界の中で実現していくことだと捉える。

 

 その意味で,この意識は「そのまま普遍的であろうと欲する個別性」(206)なのである。』

片山善博「近代的個人とは何か ヘーゲル『精神現象学』理性章Bを理解するために」 in:『日本福祉大学研究紀要 現代と文化』,128号,2013.9.,p.11.

 

 

 この節の標題「心胸(むね)の法則(のり)と自負の錯乱」の『心胸(むね)というのは「無媒介に普遍的であろうと意志する個別性」のことであるが、「無媒介に」というのは、「訓練をもへずに」ということである。したがってこういう個別的な自己意識は個別的であるのに普遍的、主観的であるのに客観的とうぬぼれ自負しているだけであり、また自分をもって普遍的とするかと思えば個別的とし、個別的とするかと思えば普遍的とするものとして狂っており、しかもこの「狂い」は対象意識の立場での「狂い」〔対象Aを対象Bと取り違える。馬を見て牛だと思う類――ギトン註〕、即ち錯覚ではなく、自己意識の立場での狂い〔自分の個別的な都合を、普遍的な真理と思い込んで主張する。またその逆――ギトン註〕であり、内面の最も深いところでの錯乱である。』

『ヘーゲル全集・4 精神の現象学・上巻』,金子武蔵・訳,1971,岩波書店,p.702.

 

 

『世の中にはおきてが〔…〕あることを感じていながら、しかしまだ快楽の立場から成長してきたばかりのものとして、その法則の認めかたは主観的で、その認める普遍性にはまだ主観性がつきまとっているのです。〔…〕そういう「心胸(むね)の法則(のり)」の境地は、法則の必要をむねでは感じてはいるんだが、その法則は、じつは〔…〕客観的・普遍的な法則ではなくて、まだ自分一個の胸のうちにあるにとどまるのです。〔…〕

 

 自分の主観的な一個人の意見や意志にすぎないものを法則だとし、世間に行なわれ実現している法則〔…〕にケチをつけて罵倒し、はてはメチャクチャのことをやり出す。そこにうぬぼれの狂気があるわけであります。』

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』, 1996,ちくま学芸文庫,pp.199-201.    

 

 

  

 

 

 ちなみに、「快楽(けらく)」のほうに引きつけて言いますと、夫婦喧嘩や、カップルの諍いで最も多く、かつ傷を深くするのは、「ふつうは~だ。」という主張のぶつかり合いではないでしょうか? この場合の「ふつう」とは、「普遍的」と同義です。つまり、それぞれが、自分の主張を「普遍的」だと思い込んで相手をも従わせようとするのですが、その実、まったく個別的な自分の側の都合にすぎないことに気づかないのです。ほんとうに「普遍的」なら、相手の「普遍」と一致するはずであり、相手が反対するわけはないのです。つまり、ケンカになっていること自体が、「普遍的(ふつう)」ではない証拠です。

 

 しかし、夫婦のような1対1の関係でなく、その外に出た場合には、「錯乱(狂気)」はより大きくなります。なぜなら、この場合には、各人にとって、自分以外の「他の人」全員が、意見に逆らう相手となり、その結果各人は、自分は、世の中を正そうとしているのだ、利得に目がくらんでしまった世の中に、道理を教えようとしているのだ、と観念することになるからです。

 

 

『ところで,「心の法則」は,まだ心が抱いただけの〈内なる〉法則であるため,外部に,「ひとつの現実が対立している」(GW9, S.202)。しかも,この心に対立した「現実は,個別的個体性を抑圧し,さらに心の法則に矛盾した世界の暴力的秩序であり,他面ではこの秩序に苦しむ人類である」(ibid.)。したがって普遍的であろうとするこの意識の自己実現は,この現実(必然性・苦しみ)を廃棄することに他ならない。つまりこの意識は,「自分固有の卓越した本質の発揮や人類の福祉を生み出すことに自らの快楽を求める」という,いわば「高貴な目的をもつ真面目」(GW9, S.203)な意識なのである。

 

 自らの心情の中に〈普遍的なもの〉を見出している意識にとって,自らに対立する世界は,したがって最も個別的なもの(利害関心のみの世の中)として現れる。そこで,この意識はこの利己的な世界を自分の法則に従って変革しようとする。』

片山善博「近代的個人とは何か ヘーゲル『精神現象学』理性章Bを理解するために」 in:『日本福祉大学研究紀要 現代と文化』,128号,2013.9.,pp.11-12.

 

 

 このような「社会改革」の主張ないし心情を、ヘーゲルは「錯乱」としているのですが、その一方で、それら「改革家」たちがみな大真面目で、世のため人のためという「高貴な目的」を自負していることを見逃していません。「錯乱」だから無意味だ、無視せよなどとは考えていない点に注意が必要だと思います。ヘーゲルにとって、思想も出来事も、すべては起きるべくして起きているのです。

 

 各人が自分の個別的な「心胸(むね)の法則(のり)」を、「普遍的」な法則だと主張すれば、まとまらなくなるのは当然ですが、ヘーゲルは、それ以上のことを言っています。仮に、ある人の主張が採用されて「公共の秩序」になったとしても、その人自身がその秩序に反抗するだろう、と言うのです。なぜなら、「公共の秩序」となったそれは個人を拘束することになるから、また、「心胸の法則」はその人だけの特別な内容をもっているのに対し、実現されたそれは本物の「普遍」となるからです。こうして、社会改革者の「自己疎外」が発生することになります。

 

 

『個人は,自分の実現した法則(秩序)に,自分の本質を見出だすことができない。というのも,心の法則が,心の外側にある〈普遍的秩序〉となれば,再び個人はこの秩序に拘束されることになり,また個人の「自分のありのままの存在の形式」で捉えられた普遍は,特定の内容をもつ(普遍性に矛盾する)ためである。〔…〕(GW9, S.204)。こうして,各個人は,現実の(心の法則を実現した)場面で,そこに自己を見出せないという「自己自身の疎外」(ibid.)を経験する。〔…〕

 〈公共の秩序〉と〈心の法則〉が矛盾として意識されることによって,〈意識の錯乱〉が生まれる。公共の秩序は,自己が生み出したものであるに関わらず,自己をそのまま実現したのではないということ。つまり〈疎外〉という意味が付与され,しかも,この疎外は〈自分が生み出したもの〉であるから,この錯乱は意識のもっとも内面において生ずる。』

片山善博「近代的個人とは何か ヘーゲル『精神現象学』理性章Bを理解するために」 in:『日本福祉大学研究紀要 現代と文化』,128号,2013.9.,p.12.

 

 

 そういうわけで、各人の「心胸(むね)の法則(のり)」が総合されて成立した「公共の秩序」は、どんな意味でも個人の「心胸の法則」とは一致しません。「心胸の法則」が「疎外」されて成立した「公共の秩序」は、誰にとっても・よそよそしいものとなります。しかしその一方で、各人は、「公共の秩序」を、万人の「心胸の法則」が具現したものと認めざるをえないのです。こうして、「心胸」はその最深部において分裂し、崩壊します。

 

 

Arthur Lewin-Funcke (1866-1937)

 

 

『自己疎外をもたらしたまさにその現実は〈意識によって実現されたもの〉でもあるので,死んだ秩序でなく〔ギトン註――万人の「心胸の法則」によって〕〈生命を吹き込まれた秩序〉でもある.したがって,意識は,万人の心の法則(公共の秩序)を自己の本質と認めざるをえない。』

a.a.O.    

 

 なぜなら、「公共の秩序」は、いかなる個人も、その外に立とうとすればすべてを失うようなものだからです。

 

 

『意識は,〈公共の秩序〉とそれと対立する〈心の法則〉をどちらも等しく自己の本質として経験することになる。ヘーゲルはこの事態を,「自己意識はこのように二重に対立する本質に属していて,そもそもそれ自体矛盾していて,もっとも深い内面において崩壊している」(GW9, S 205)と捉える。「それゆえその本質は最深部で狂っている」(GW9, S 206)とまで言う。〈公共の秩序〉と〈心の法則〉が矛盾として意識されることによって,〈意識の錯乱〉が生まれる。』

a.a.O.    

 

 

 こうして「意識」は二重化し、あるいはその最深部において分裂してしまうのですが、それはそのまま、社会じたいの・深奥における混乱潰滅と見ることもできます。しかし、このような危機も、ヘーゲルにあっては、「発展」の1フェーズではあるのです。

 

 

ヘーゲルは,この「公共の秩序」について,「不安定な個体性」による闘争を通じて示される普遍的なものであり,この意識には自覚されていないが,「実体(共同的な精神)」と言えるものだと述べる。各個人がこの秩序の外に自己自身をたてようとするとすべてを失うという意味で,「安定した本質という普遍性」であるのだが,個々人にとっては転倒した形(個々人の闘争という形)で自覚される。

 公共的な秩序として現れるものは,それゆえ普遍的な戦いであり,そこにおいて,各人は我がものとできるものを強引に我がものとし,他者の個別性に対して公正にふるまい,自分の個別性を確保するが,同様に他者によって消失してしまう。公共的な秩序は,世の成り行きであって,存続する全体の見かけであって,その全体は思われただけの普遍性であり,その内容はむしろ個別性の確保と個別性の解消の本質なき戯れなのである」(ibid.)

 ここには,近代市民社会の〈二つの側面〉,つまり〈相互依存の秩序の面〉と〈諸個人の闘争という面〉が示されていて,両者は相互に反転する形で意識に現れてきたことになる。』

片山善博「近代的個人とは何か ヘーゲル『精神現象学』理性章Bを理解するために」 in:『日本福祉大学研究紀要 現代と文化』,128号,2013.9.,pp.12-13.

 

 

 これを個別的な「意識」の側から見れば、「万人の万人に対する闘争」であり、その映像がホッブズの社会観であったと言えます。しかし、他面から見れば、「闘争」の常態がそれなりに安定した秩序を現出させていることも事実です。不安定をはらみながらも、普遍的な「実体」すなわち共同的精神が成立しているのです。

 

 ホッブズは、このような「万人の闘争」が抑えられなければ人間の社会そのものが崩壊してしまうとして、強力な「国家」の出現を期待したのですが、ヘーゲルは、むしろ「闘争」じたいのさらなる発展・変質による解決を考えています。それは、次の「Ⅴ-B-c」で述べられます。

 

 平子友長氏は、「Ⅴ-B」のヘーゲルの構想にホッブズの影響を見たのですが、ヘーゲルは実は、ホッブズを1つのフェーズの一面としてのみ受けとめていたのです。平子氏の問題提起は、こうして片山善博氏によって発展的に生かされたといえます。



 

 

 

 

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