奈良県田原本町阪手付近の寺川。古代の船着き場「阿斗」。
寺川は、「斑鳩宮」付近で大和川に合流し難波津へ向かう。
以下、年代は西暦、月は旧暦表示。
《第Ⅱ期》 603-611
- 603年7月 新羅遠征を中止、派遣軍を北九州から引き揚げる。10月、王宮を「豊浦宮」から「小墾田(おはりた)宮」に移す。12月、「官位十二階」を制定。
- 604年 「朝礼」を改定。1月、諸臣に官位を与える(官位十二階の実施)。4月、「十七条憲法」を制定。
- 605年10月 斑鳩(いかるが)宮が竣工し、厩戸皇子、移り住む。
- 606年5月 鞍作止利(くらつくり・の・とり)に命じて「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)を造らす。7月、厩戸皇子、橘寺?で「勝鬘経(しょうまんぎょう)」を講義。斑鳩・岡本宮(現・法起寺)?で「法華経」を講義。
- 607年 厩戸皇子、法隆寺(斑鳩寺)の建設を開始。屯倉(みやけ)を各地に設置し、藤原池などの溜池を造成し、山城国に「大溝」を掘る。
- 607年7月 小野妹子らを遣隋使として派遣し、隋・煬帝に国書を呈す。
- 608年8月 隋の答礼使裴世清を迎えて歓待する。9月、高向玄理らを遣隋使として派遣。多数の留学生・留学僧を隋に送る。この年、新羅からの渡来移住者多し。
- 609年 厩戸皇子、『勝鬘経義疏』の著述開始。4月、「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)が完成し、法興寺(飛鳥寺)に安置。
- 610年3月 高句麗僧・曇徴(絵具・紙・墨・碾磑の製法を伝える)を迎える。610年頃、法隆寺(斑鳩寺)の建設が完了。
- 611年 新羅、「任那の使い」とともに倭国に朝貢。『勝鬘経義疏』を完成。
《第Ⅲ期》 612-622
- 612年 百済の楽人・味摩之を迎え、少年らに伎楽を教授させる。厩戸皇子、『維摩経義疏』の著述開始。
- 613年 畝傍池ほかの溜池を造成し、難波から「小墾田宮」まで、最初の官道「横大道」を開鑿。『維摩経義疏』を完成。
- 614年6月 犬上御田鍬らを遣隋使として派遣。厩戸皇子、『法華経義疏』の著述開始。
- 615年 『法華経義疏』を完成。
- 620年 厩戸皇子、蘇我馬子とともに『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂(開始?)。
- 622年2月 没。
【23】国内向けアピールを狙った「太子外交」
小野妹子の遣隋使を主力とする聖徳太子の独自外交――前回の叙述では、隋側の国際政治的意図だけが強く印象付けられたかもしれません。しかし、厩戸は、決して純真素朴に中国を信じて、翻弄される一方だったわけではないと思います。一面では強大国の意向を巧みに誘導することによって、国内での支持を集め、政権の求心性を高めるために利用していたと言えます。
太子の政策には、明らかな党派性がありました。「崇仏」と大陸文明の導入という点では、馬子・推古と軌を一にしていましたが、高句麗・百済を通した間接的な摂取を越えて、 “中心軸” である中国との直接の関係を築こうとする点で、倭国の伝統的外交を脱しようとしていました。そのことは必然的に、国際政治上の重大な方針転換をもたらします。朝鮮諸国に対して、伝統的な「親・百済、親・高句麗、反・新羅」の路線から離れ、一方に偏しない自立した境位を求めることになります。
太子のこうした独自政策は、保守的な倭人豪族のみならず、渡来氏族に対しても「意識の刷新」を求めるものであったはずです。というのは、それまで倭国への渡来人は、高句麗系、百済系が圧倒的な比重を占めていたと思われるからです。
隋の答礼使を迎えた 608年の記事の末尾で、『日本書紀』は、「是年(ことし)、新羅人多く化来(まうおもむ)けり。」と記しています。折から高句麗と新羅のあいだに戦端が開かれたため、難民が発生したことも考えられますが、倭国の国際関係の転換を見て、これまで移住を控えていた新羅系の人びと(倭人系・旧伽耶をふくむ)が流入を開始したものと思われます。『書紀』の記事は、その後長期にわたって続く趨勢の起点を示すものでしょう。
611年に新羅から迎えた「新羅と任那の朝貢使」は、608年に隋の裴世清が上陸した「つばいち」とは・王宮(小墾田宮)をはさんで反対側の「阿斗」から都に入っています。「阿斗」(↑冒頭写真)は、「斑鳩宮」付近で大和川と分かれた寺川の遡上点にある船着き場で、↓地図を見ると分かるように、斑鳩と王宮をむすぶ「太子道」の途上にあります。「阿斗」で船を降りた新羅の使節は、「太子道」を行進して王宮に誘導されたことが考えられます。
国内に対しては、「太子外交」の成功をアピールする盛大なパレードとなったことでしょう。先進文明国との交流というインターナショナルな課題のみならず、「任那からの朝貢」復活という国粋主義的な懸案にも太子の政策は威力を発揮するのだ、と人びとに印象付けたのです。
このように、使節を迎える経路の選び方にも、隋とは別の意味で新羅との関係を重視する・太子の政策意図が現れていると思います。
【24】《第Ⅲ期》 612-622 ――隋の滅亡
614年、倭国は犬上御田鍬を長とする「第4回遣隋使」を送ります。この前年、隋は高句麗に対して「第2回侵攻」を行ない、高句麗「救国の英雄」乙支文徳(ウルジ・ムンドク)の反撃に遭って惨憺たる敗北を喫していました。敗戦に呼応して、隋国内では各地で反乱軍が蜂起していました。「第4回遣隋使」は、こうした情報を伝え聞いて、真相を探るため、また留学中の学僧らの安否を確かめるために派遣されたものと思われます。
しかし、犬上御田鍬は隋の宮廷で煬帝に会うことはできなかったと思われます。『隋書』は、この時の遣隋使を記録していないからです。このころ煬帝は突厥に捕えられて危うく一命をとりとめています。朝貢使節との謁見どころではなかったかもしれません。犬上御田鍬は、百済の使節と行き帰り行動をともにしています。太子が切り拓いた独自外交・単独通交の路線は継続されず、百済依存外交に回帰しつつあったのです。
「橘街道」田原本町千代。この直線部分は、古代の「太子道」の
一部だったと考えられる。条里制で道路が「碁盤の目」になって
いる地域で、斜めの道は便利らしく、自動車の往来が絶えない。
翌615年、厩戸の師であった高句麗僧慧慈が、長年のヤマトでの生活に終止符を打って高句麗へ帰っていきます。618年には、高句麗から使者がやってきて、隋の捕虜2名と数点の武器、土産物とラクダを献上します。
隋と高句麗の戦争は、614年に高句麗優勢の状況で終結しています。隋はついに高句麗を屈服させることができず、かえって国内に反乱を多発させ、遠征を続けることができなくなりました。しかし、高句麗が、戦勝後4年もたってから、隋の捕虜と戦利品を持って倭国にやってきた意図は何でしょうか?
『高麗(こま)使を遣して方物を貢(たてまつ)る。因りて言(まう)さく、「隋の煬帝、三十万の衆(いくさ)を興して我を攻む。返りて我が為に破られぬ。故、俘虜(とりこ)貞公・普通、二人、及び鼓(つづみ)吹(ふへ)・弩(おほゆみ)・抛石(いしはじき)の類十物、幷て土物・駱駝一匹を貢献る」と』〔『日本書紀』〕
梅原猛『聖徳太子 3』, p.273.
生きた捕虜2名の “おみやげ” というのも異様ですが、それに付けた武器が奇妙です。中国側から奪い取った華麗な戦利品ではなく、いかにも遊牧民・北方民族らしいものが並んでいます。「つづみ」と「ふえ」は、戦闘のための楽器でしょう。「吹(ふへ)」はおそらく、リードの付いたチャルメラ型の喇叭(らっぱ)。西域方面で中世まで、北方民族が進軍ラッパとして使っています。「いしはじき」は投石器。「弩(おほゆみ)」も通常の訓は「いしゆみ」で、投石器のこと。北方民族の特徴的な武器です。進軍ラッパも投石器もラクダも、朝鮮~満州というより、西域・中央アジア方面のものです。高句麗は、倭国の支配者たちにこれらを見せながら、
「大国の圧迫に屈してはならない。不正とは戦え」
と言っているように見えます。中華帝国を中心とする世界が、この世界のすべてではない。もっと広い世界があるんだぞ、と言っているように思えるのです。中華世界の先進文明に目をくらまされたヤマトの人びとに反省を迫っていると言ってよいでしょう。
この 618年には、隋で煬帝が暗殺され、唐の高祖が即位して隋は滅亡しています。高句麗は、この節目に当たって、倭国に対し、新羅・中国と手を切って、もとの「親・高句麗」路線に戻るよう促すために、贈り物付きの使節を派遣したものと思われます。
おそらくその背景には慧慈の帰国があります。慧慈は、高句麗王権を説得して倭国との関係修復を促すために帰国したのだと、私は考えます。倭国は、隋・高句麗戦争開始を前に高句麗から離反し、高句麗を裏切る形になってしまったが、それは倭国の本意ではなかった、と現地にいて事情を知る慧慈は、高句麗の首脳に訴えたのでしょう。倭国を見捨てるな、隋に勝利した今こそ倭国との関係を修復すべきだと、倭国のために訴えたのだと思います。
こうしてヤマトの政権は、「親・高句麗、親・百済」路線に回帰しました。「厩戸外交」の政治ショーによって眩(まばゆい)い幻覚を見ていた人びとは、酔いがさめると、すべてを厩戸のせいにして非難をはじめます。蘇我馬子と推古の政権が復活するなか、太子はひとことの反論もできなかったにちがいありません。
大和川(左)と寺川の合流点 (奈良県安堵町窪田)
【25】《第Ⅲ期》 612-622 ――「太子外交」:
梅原猛氏の評価について
私たちは「太子外交」を、どう評価すべきでしょうか? これは、“現在から見た評価” ということですから、人によって評価が異なるのは当然です。そのうち、どれが正しいということも、最終的には言えません。価値判断の問題だからです。もちろん多数決ができる問題でもありません。
これは、「ある時代の歴史的事実は、どうあったか?」という「事実」の問題とは別です。「唯一の正しい歴史的事実」というものが存在するのか、しないのかについては、さまざまな意見があるでしょう。「日本の国土は2人の神が泥の海をかき回して造った」というような自然法則に反する「事実」がありえないことは、誰にでもわかります。しかし、「卑弥呼の王宮はどこにあったか? 九州か、近畿か?」というようなことになると、多分に証拠(文献と遺跡)の問題です。その場合、われわれは証拠によってしか事実を知りえないが、歴史の証拠は常に不十分にしか残っていない。それでも、唯一の歴史的事実というものは過去に存在して、ただそれをわれわれが知りえないだけだ、と考えるのか?‥‥それとも、そもそも客観的に絶対的な歴史的事実などというものは存在しない、と考えるのか?
第二次大戦後には、アメリカの功利主義哲学の影響で、後者のような相対主義が風靡しました。いわく、歴史叙述というものは、つねに、「現在」の時点から見た像である。ある対象時代の歴史像は、叙述者の属する時代ごとに異なる。その意味での相対的な「歴史像」を超越した「客観的な歴史的事実」などというものは、知ることができない以上、そんなものが存在すると思うのはナンセンスだ、と。
こうした相対主義が、日本では「マルクス主義」〔※〕などのかなり狭い価値観と結びついたために、独善的な歴史認識を助長する役割をしてしまったと思います(その典型的見本は、日本共産党マルクス主義歴史学を恣に牛耳った元東京都立大学教授太田秀通です)。それを「科学的歴史学」と呼ぶならば、大きな誤解を招きます。その結果、反動として、「歴史上の事実は、現在ではなく、対象となる時代の人びとの考え方によって認識すべきだ。」とする「歴史修正主義」が台頭することになったのです。しかし、「歴史修正主義」を極端に適用すれば、「現在からの反省・批判」ということはありえなくなります。大東亜戦争は、当時の国民の大多数が支持していたのだから、「聖戦」として認識し叙述しなければならない、というような不合理な結果になります。
〔※註〕ここで「マルクス主義」と呼ぶのは、旧ソ連公認の教条のことです。カール・マルクスという人の思想とは無関係です。
歴史的事実は、『日本書紀』などの史料に盛られた・当時の人びとの考え方を十分に理解して究明する必要がある。しかし、そのうえで歴史的事実に対して、現在の時点からの評価と反省は、どうしても欠かすことができない――梅原猛氏の歴史叙述の態度は、このような考え方に基づいていると思われます。氏は、歴史学の専門研究者という意味での歴史家ではありませんが、私には、現在のところ最も模範になる歴史叙述家であると思われるのです。
ところで、聖徳太子の外交政策について、梅原猛氏は、集英文庫版『聖徳太子』の第3冊と第4冊で、それぞれ評価を述べておられるのですが、2つの評価はかなり異なっているように思われるのです。第3冊のほうでは太子に批判的、第4冊のほうでは賞賛しています。第4冊のほうは、太子による歴史編纂の評価と関わっているので、のちほど扱うことにして、ここでは第3冊での評価をとりあげます。
まず、引用してみましょう:
『高句麗は、隋の陳征討〔589年〕以来、極東の島に自立し、外国の侵略をこうむったこともなく、国際外交の何たるかをほとんど知らない倭国に使いを送り、友好を深めていた。〔…〕日本は、この高句麗からの技術的、文化的援助によって制度をととのえ、都城を造り、寺院を建て、大いに国を近代化したのである。そして日本は、その返礼として、二度にわたって大軍を筑紫まで出した〔591-595, 602-603〕。〔…〕隋の〔高句麗〕侵攻にそなえた新羅牽制策である〔…〕
このようなわが国の高句麗主導型の外交は、崇峻4年〔591年〕以来、推古15年(607年)におよぶ日本外交の方針であった。しかし推古15年〔607年〕、〔…〕太子は百済とともに直接、使いを隋に送るが、このことによって高句麗主導型のわが国の外交方針は大きく変更せざるをえなかった。隋は、〔…〕裴世清を倭国に送り、両国の友好を深めたのである。そしてまた翌年、〔…〕小野妹子が、裴世清とともに隋へ行ったのは、大量の留学生を送るとともに、隋を仲介として、50年間も国交断絶にちかい状態にあった新羅との関係をととのえるためであった〔…〕
幻の植民地・任那と新羅の貢物の使を、日本の朝廷は〔…〕迎えた〔611年〕〔…〕もうその時は、日本の外交方針は180度変わっていたのである。
日本の指導者たちは、〔…〕意識すると意識しないとにかかわらず、高句麗を孤立させようとする隋の外交政策のなかへ、〔…〕まきこまれたと考えなければならない。』
「広隆寺」書院入口。京都市右京区太秦蜂岡町。
603年、聖徳太子配下の氏族であった渡来系・秦(はた)氏が、太子から
もらいうけた仏像を安置するため「蜂岡寺」を創建したと『日本書紀』は伝える。
しかし、「蜂岡寺」と現「広隆寺」の関係、同寺の「弥勒像」との関係には謎が多い。
『〔…〕隋の煬帝は、新羅の使に、お前の望みどおり兵を高句麗に出してやろう、その代わり、どうか倭に貢(みつぎ)をもっていってくれと頼んだにちがいない。〔…〕これは形だけであり、〔…〕ただ倭王の面子(メンツ)を立ててやればいいのだ。〔…〕
そして一方、隋は日本にたいして、おまえの積年の願望をかなえてやった、それゆえ、もうお前は高句麗と手を切り、隋に味方せよ。〔新羅に対しても、ほんとうに植民地を回復しようとしたり、九州に大軍を集結させて威嚇してはならない〕と説得し、脅迫したにちがいないのである。そして、聖徳太子はこのような隋の説得に従った。〔…〕
私は、おそらく新羅と任那からの〔…〕貢の献上を隋に提案したのは、太子であったと思う。〔…〕この幻の任那の国の貢に、日本は酔っていた〔…〕太子自身が、そのような興奮を演出醸成した、当の人かもしれない。
〔…〕太子が、外交方針を高句麗寄りから隋寄りに変更したのは、隋から本場の文化移入を考えてのことであった。そしてその〔…〕成果として、長い間中断していた新羅と任那からの貢物(みつぎもの)を得た〔…〕しかしこの貢物は、高句麗にたいする長い間の親愛関係の犠牲のうえにかちとられたものであった。
〔…〕太子は日本の立場を計算していたと思う。なぜなら、必ず戦いは隋の勝利におわるであろう。〔…〕高句麗側に立つことは、日本を危うくさせる。
聖徳太子の外交は、隋の勝利を前提とするものであった〔…〕しかし隋は高句麗に勝つことができなかった。
私は、これはやはり太子の見当ちがいであったと思う。』
梅原猛『聖徳太子 3』, pp.341-343,334-337,396-397.
しかし、見当ちがいは、なぜ起きたのか?
『太子は、先に、隋の煬帝を「海西の菩薩天子」といった。隋の煬帝は、篤い仏教信者であり、彼はまた、はなはだ学問を愛した。この徳の高い、学問のある聡明な隋の皇帝こそ、太子が理想とする天子であったにちがいない。〔…〕
おそらく太子が、〔…〕高句麗を利用しつつ、結果的には隋側に寝返ったのも、こういう皇帝を上にいただいた文明国へのあこがれのゆえであったろう〔…〕
隋が高句麗に負けたのである。〔…〕煬帝を尊敬するとともに、あえて、馬子の反対にもかかわらず、外交の方向を、はっきり高句麗から隋に変更した太子にとって、このことは大きなショックであった』
梅原猛『聖徳太子 3』, pp.392-393.
聖徳太子の外交基調を批判的に見るには、私は、618年に高句麗から来た使者が伝えようとしたメッセージを理解することから始める必要があると思います。1400年以上離れた現在の私たちの恣意的な考えや感覚で斬る前に、まず当時の人びとの考え(決してひと通りではない)を理解しておくべきだと思うからです。
高句麗の使者は、「中華帝国を中心とする文明世界以外に、もっと広い世界がある」ことを伝えて、中国からの文明摂取にのみ眼を向けている太子らを陶酔から醒めさせようとしていました。隋の滅亡という結果を予期できなかったのは、煬帝個人を理想化しすぎていた太子のみならず、中国文明を絶対的価値として信じ切っていた倭国の人びとすべてであったと思います。隋王朝に幻想を抱いていたのは、太子ひとりではなかったのです。
しかし、そのうえで今日の視点から、聖徳太子以後の東アジア史の展開を追ってゆくならば、梅原氏の評価とは異なって、太子の外交基調は必ずしも誤った方向ではなかったと言わなければなりません。なぜなら、高句麗の戦勝と隋の滅亡もまた、一時的な経過点の情勢にすぎなかったからです。
630年には犬上御田鍬を長とする「第1回遣唐使」が派遣され、632年、犬上御田鍬は、唐の答礼使を伴なって帰国します。そして、遣隋使以来留学していた学僧・学生が、631年から 640年にかけて続々と帰国して来ます。彼らのもたらした知識や国家観が、いわゆる「大化の改新」以後の律令制の導入に決定的役割を果たしたことは明らかです。
留学生の最初の帰国があった 631年には、厩戸も推古も蘇我馬子もすでに死去していました。政治改革や外交・軍事とちがって、文化政策の成果が目に見える形になって現れるには、時間がかかるのです。
京都市北区「北野白梅町」交差点にある「北野廃寺跡」の碑。
広隆寺の前身「蜂岡寺」に比定する見解が有力。
このあたりから「太秦(うずまさ)」方面もふくんで広がる「葛野」
郡は、渡来氏族・秦(はた)氏の広大な勢力圏だった。
その間にヤマトでは、「太子外交」の失墜とともに、蘇我馬子と推古の「百済・高句麗追随」外交が復活していました。新羅は、太子と隋・煬帝によって開かれた親倭路線を続けようとして、621年にもヤマト政権へ朝貢します。聖徳太子没後の 623年には、「任那の使い」を伴なって仏像、金塔、仏舎利などを将来します。しかし、国粋意識から「任那日本府の復興」にこだわる推古・馬子らが、形式的な朝貢に満足できなくなるのは時間の問題だったと言えます。この年、例の朝鮮語に堪能な吉士磐金を新羅に派遣して「貢献問題」を議論する一方、馬子は境部雄摩侶を大将軍とする「征新羅軍」を派兵します。朝貢のしかたについて新羅と揉めたあげく、武力行使におよんだものと思われます。
「征新羅軍」が、じっさいに新羅に侵入して戦闘を交えたかどうかはわかりませんが、馬子が死んだ 626年までには撤収したものと思われます。武力行使は、新羅との間にせっかく開かれた国交を困難に陥れただけで、何の成果もなく終ったのでした。
馬子らによる対外的緊張関係の造成は、国内の締め付けをも呼び起こしています。624年には百済僧観勒を僧正に任命して僧尼の取り締まりを開始します。倭国の人びとが将来に希望をもって、のびのびと中国文化の摂取に努めていた時代は終ろうとしていたのです。
その後、ヤマト王権は、中国と朝鮮諸国の情勢に揺り動かされて4回にわたるクーデターを経たあと、663年の「白村江」敗戦に至ることとなります。645年倭国で「乙巳の変」(「大化」クーデター。蘇我入鹿の暗殺)が起きたころから、大陸では唐-新羅 vs 高句麗-百済という構図が明瞭になり、高句麗と百済は前後して「唐-新羅」連合に滅ぼされることになります。そのなかで倭国は、伝統的な親・百済関係に引きずられて、大軍を派遣して半島紛争に介入し、最終的に「白村江」で惨敗をみることとなったのです。
このような行く末を見ると、蘇我氏を中心とする倭国の指導者たちが、「太子外交」の基調を捨てて、「百済・高句麗追随」路線に回帰し、情勢の推移にもかかわらずそれに固執したことが、不幸な末路の原因であったと言わざるをえません。
そればかりでなく、「白村江」敗戦は、その後の日本「律令国家」の形成に対しても大きなインパクトを及ぼし、傷跡を残すことになったと、私は考えます。
『白村江の敗戦をうけ、中大兄皇子を中心とする倭国の支配者層は、国家体制を整備し、国土防衛を強化する必要に迫られた。〔…〕
官僚制については〔…〕大宝令・官制の原形となる中央官司機構〈太政官―大弁官―六官〉を創出した。これによって支配層は厳しく統制され〔…〕た。〔…〕
倭王朝は支配層の統制強化を終えると、今度は全国の人民の徹底的掌握を図った。〔…〕全国・全階層の人民を把握するために庚午年籍が作成され、徹底的な個別人身支配が可能となった。その結果、兵役・力役の徴発、租税物品の徴収がたやすくなり、軍事・財政両面において国力の増強がもたらされた。
官僚制と公民制は、律令体制の根幹となるシステムであり、〔…〕倭の律令体制の成立、きわめて強圧的な国家体制の本質を、緊迫した国際情勢に対処するための〈臨戦態勢〉と把握したいと思う。』
吉川真司『飛鳥の都』,pp.100,110,117-118.
このように、日本古代における「軍国主義体制」の成立は、朝鮮半島の緊迫した情勢、唐軍・新羅軍の来襲の恐れ――という外圧に対処するためだった、というのが、最近の日本史学者のほぼ一致する見解なのですが、私はこれに疑問をもっています。なぜなら、じっさいには「白村江」のあとで倭国侵攻も “報復” もなかったし、当時諸国が日本に外征する意志をもっていたとは、どうしても思えないからです。むしろ私は、これらの “富国強兵” ――軍国主義は、敗戦の悲惨さと、大陸諸国に対してヤマトの人びとが抱いた恐怖心を利用して、中大兄(なかのおおえ)らひと握りの独裁者たちが作り上げた強権体制確立のための「大いなる幻影」だったと考えます。
そのことを雄弁に語っているのは、「白村江」敗戦の翌年に九州・大宰府に建設された「水城(みずき)」という防御施設↓です。「水城」は、川の流れが貫通する部分で切れていて防御の役目をしないばかりでなく、そもそもヤマトへ(東方へ)の敵軍の侵攻を食い止めうる位置関係にはありません。むしろ「水城」は、ヤマト王権の威力を九州の豪族と住民に示して、求心力を高めるために建設された、と考えて初めて理解できるものです。「水城」現地踏査記録⇒:YAMAP「大宰府水城」
「水城」。高さ 9m, はば 77m の土塁が、御笠川の流域低地を横断して、
山裾から山裾まで 1.2km にわたって築かれた。土塁の両側には、土地の
傾斜にしたがって階段状の浅い濠が並び、水を流すしくみが造られていた。
しかし、土塁は、御笠川の水を貫流させるために中央で切れており、
防御の機能をはたしうるかどうか、たいへんに疑問である。
こうして、聖徳太子以後のヤマト王権の歴史は、ひたすらに強権統制を強める方向へ発展させられました。これは、太子が理想とした平等主義的な仏教的文明国〔太子のこの理想国家像については、のちほど『法華義疏』のところで説明します――ギトン註〕とは、大きく異なるものではなかったでしょうか?
とはいえ、太子の外交政策の評価という本来のテーマに戻りますと、それがまったく欠点のないものだったと主張するつもりはありません。すでに指摘したように、「太子外交」のつまづきは、「任那の朝貢」問題という多分にアナクロニック(時代錯誤的)な国粋主義に足を取られたことにありました。隋は、この問題に対する倭国支配者のこだわりを利用して、トリックともいえる手法によって、倭国を高句麗から引き離して新羅に近づけたのでした。厩戸は、国内において、とくに推古を筆頭とする国粋主義勢力の支持を得るために、トリックには目をつぶって隋の提案に従ったのです。その結果は、朝鮮諸国に対して、一方に偏しない中立的な外交態度をとることとなって、結果的にはおおむね良かったのですが、トリックに加担した点は禍根を残すことになりました。
たしかに太子の手法には問題があったし、太子の見込み違いのせいで十分に継承されることはなかったのですが、それでも、いったん成立した中立外交は、倭国の立場を自立的なものとし、各国が競って倭国への文化移植を試みるという、良好な国際関係をもたらします。それは、太子が倭国政治の第一線から身を退いた《第Ⅲ期》―― 612年以降にもつづいていくのです。とりわけ、これまでは疎遠だった新羅からの文化流入には注目すべきものがあります。
そこで次回は、《第Ⅲ期》を中心とする文化流入から話を始めたいと思います。
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