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海石榴市(つばいち)。奈良県桜井市。

倭国の「みやこはずれ」の船着き場。歴代の王宮に近い。

大和川の上流初瀬川が、ヤマトの平地に出てくるところ。

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

 

《第Ⅱ期》 603-611

  • 603年7月 新羅遠征を中止、派遣軍を北九州から引き揚げる。10月、王宮を「豊浦宮」から「小墾田(おはりた)」に移す。12月、「官位十二階」を制定。
  • 604年 「朝礼」を改定。1月、諸臣に官位を与える(官位十二階の実施)。4月、「十七条憲法」を制定。
  • 605年10月 斑鳩(いかるが)が竣工し、厩戸皇子、移り住む。
  • 606年5月 鞍作止利(くらつくり・の・とり)に命じて「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)を造らす。7月、厩戸皇子、橘寺?で「勝鬘経(しょうまんぎょう)」を講義。斑鳩・岡本宮(現・法起寺)?で「法華経」を講義。
  • 607年 厩戸皇子、法隆寺(斑鳩寺)の建設を開始。屯倉(みやけ)を各地に設置し、藤原池などの溜池を造成し、山城国に「大溝」を掘る。
  • 607年7月 小野妹子らを遣隋使として派遣し、煬帝に国書を呈す。
  • 608年8月 の答礼使裴世清を迎えて歓待する。9月、高向玄理らを遣隋使として派遣。多数の留学生・留学僧をに送る。この年、新羅からの渡来移住者多し。
  • 609年 厩戸皇子、『勝鬘経義疏』の著述開始。4月、「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)が完成し、法興寺(飛鳥寺)に安置。
  • 610年3月 高句麗僧・曇徴(絵具・紙・墨・碾磑の製法を伝える)を迎える。610年頃、法隆寺(斑鳩寺)の建設が完了。
  • 611年 新羅、「任那の使い」とともに倭国に朝貢。『勝鬘経義疏』を完成。

《第Ⅲ期》 612-622

  • 612年 百済の楽人・味摩之を迎え、少年らに伎楽を教授させる。厩戸皇子、『維摩経義疏』の著述開始。
  • 613年 畝傍池ほかの溜池を造成し、難波から「小墾田宮」まで、最初の官道「横大道」を開鑿。『維摩経義疏』を完成。
  • 614年6月 犬上御田鍬らを遣隋使として派遣。厩戸皇子、『法華経義疏』の著述開始。
  • 615年 『法華経義疏』を完成。
  • 620年 厩戸皇子、蘇我馬子とともに『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂(開始?)。
  • 622年2月 没。

 

 

 

【19】《第Ⅱ期》 603-611 外交――答礼使の謁見と隋の国書

 

 

 西暦608年8月3日、いよいよの答礼使をヤマトの「みやこ」に迎えます。一行は大和川を遡って、奈良盆地最上端の「つばいち」で船を降りました。

 

『秋八月辛丑朔(ついたち)の癸卯の日に、唐(もろこし)の客(まらうど)、京(みやこ)に入る。是日(このひ)、飾騎(かざりうま)七十五匹を遣して唐の客を海石榴市(つばいち)の術(ちまた)に迎ふ。額田部(ぬかたべ)(むらじ)比羅夫、以て礼の辞を告(まう)す。』〔『日本書紀』〕

 

『後(のち)十日にして、また大礼哥多田比(かたび)をして二百余騎を従へ、郊(みやこはづれ)に労(ねぎら)はしむ。』〔『隋書』〕

梅原猛『聖徳太子 3』, pp.311-312.  

 

 日付の読み方ですが、「辛丑」が、この月のついたちの干支で、2日以後はそこから干支の順序にしたがって数えていって、→「壬寅」→「癸卯」の日、つまり 8月3日ということです。

 

  

 

 「唐の客」とあるのは、『日本書紀』編纂の時点では中国のことを一般に「唐」と呼んでいたためで、ここではの使節・裴世清一行のことです。「飾騎(かざりうま)」75頭でお出迎えというのも盛大ですが、側の記録ではその3倍の「二百余騎」になっています。これはおそらく、正式の出迎えの騎馬以外に、たくさんの野次馬――見物の豪族たちが集まって来ていて、彼らもそれぞれに豪勢な飾り立てをして見栄を張ったのではないでしょうか。

 

 「哥多田比〔かたび。「田比」は1字〕」は、「ぬかたべ」の音を写したのでしょう。「大礼」は「冠位十二階」の第5位。小野妹子と同位です。

 

 「かざりうま」――↓下は「藤ノ木古墳」出土の馬具による6世紀末の馬装の想像図ですが、黄色の部分はみなキラキラの金銅(金メッキ)です。皇子級の騎馬は、ふだんからこんなにいろんなものをチャラチャラ付けていたのですから、これをさらに飾り立てたら、どんなだったでしょうか。

 

 

東京国立博物館1089ブログより。

 


 

 

『壬子に唐(もろこし)の客を朝庭に召して、使の旨を奏さしむ。〔…〕(ここ)に大唐(もろこし)の国の信物を庭中に置く。


 時に使主裴世清、親(みづか)ら書を持ちて両度再拝みて使の旨を言上して立つ。その書に曰はく、「皇帝、倭皇を問ふ。使人長吏大礼蘇因高等、至(まう)でて懐(おもひ)を具(つぶさ)にす。朕、宝命を欽して区宇(あめのした)に臨み仰ぐ。徳化を弘めて含霊(よろづのもの)に覃(およ)び被らしむることを思ふ。愛(はぐく)み育(やしな)ふ情(こころ)、遐(とほ)く邇(ちか)きに隔(へだて)無し。皇(きみ)、海表に介(よ)り居して、民庶を撫で寧(やす)みし、境の内安楽にして、風俗融(とほ)り和(あまな)ひ、深き気至れる誠ありて、遠く朝貢(かよ)ふことを脩(かた)つといふことを知りぬ。丹款(ねむごろにまこと)なる美を、朕、嘉(よみ)すること有り。稍(やうやく)に暄(あたたか)なり。比(このごろ)は常の如し。故、鴻臚寺の掌客裴世清等を遣して稍(やうやく)に往く意を宣ぶ。幷(あはせ)て物送すこと別の如し」といふ。』〔『日本書紀』〕

梅原猛『聖徳太子 3』, pp.311-312.  

 

 「壬子」は 8月12日。「つばいち」に到着してから正式の謁見まで 10日かかっています。ずいぶん勿体ぶっているのか、吉日を選んでいるのか、謁見の式次第をめぐって倭国首脳が揉めているのか。その間に、聖徳太子が非公式にでも会わなかったとは思えないし、『隋書』を見ると、じっさいに会って裴世清と会談しているようです。しかし、会談の内容はのちに見ることにして、まずは煬帝の倭国王あて国書↑を見ておきましょう。

 

 裴世清は、隋から運んできた「信物」――おみやげ品の数々を、「庭中」――「朝庭」↓の中央に積み上げたうえ、煬帝の国書を開披して朗読を始めます。

 

 

Wikimedia PD by Wikiwikiyarou, 一部改。

 

 

 冒頭に、「皇帝、倭皇を問ふ」とありますが、これは「倭王」と書いてあったのを、『日本書紀』の編者が改ざんしてしまったのだと解されています。「皇帝、倭王を問ふ」――朕は皇帝である。おまえはただの王だ。分(ぶん)をわきまえろ、と、「日出(いづ)る国の天子」うんぬんの思いあがった国書を、まず否定し去ったうえで話を始めます。煬帝のこの国書全体の調子は、明らかに倭王を見下しながら、「しかし、わしは、おまえさんみたいな無骨な正直者が好きだ。」と、広い心で受け入れる姿勢です。こうした内容を見ても、「皇」ではなく「王」と書いてあったのは間違えないと思います。

 

 ↑真ん中あたりに「皇(きみ)」とあるのも「王(きみ)」の改ざん。

 

 「使人・長吏・大礼・蘇因高」は、小野妹子のことです。「因高」は「いもこ」の音を写したのでしょう。「蘇」は「蘇我」でしょうか。隋側は、妹子の名をしっかりと公式記録に記しています。内容を見ても、の宮廷での彼の活躍ぶりが伝わってきます。が、これまで無視してきた倭国に注目するようになり、答礼使まで送ってきたのは、もっぱら妹子の陳情工作が功を奏したためだとわかるのです。

 

 答礼使の長である裴世清の職務も、この国書からわかります。裴世清の官位が「文林郎」であることは前回述べましたが、「文林郎」とは、おおぜいいる文官の下っ端、という程度の意味です。この「文林郎」とか「儒林郎」等々いうのは、中国の官僚制特有の称号で、単なる官位の名称です。「正九品上」と言うかわりに「儒林郎」と言い、「従九品上」と言うかわりに「文林郎」と言うだけのことです。数字で呼ぶ代わりの名称なのです。どんな仕事をしているかとは無関係。「儒林郎」が儒学に詳しいわけではないし、「文林郎」が文学士なわけではありません。(この点、梅原猛氏は誤解しておられます)

 

 裴世清は、従九品上という下っ端役人ですが、国書によると彼の職務は「鴻臚寺の掌客」です。「鴻臚寺」は、宮中の朝会や外国使節謁見の儀礼を受け持った官署。「掌客」は、外国使臣の接待にあたる役人。つまり、遣隋使の接待に当たった下級官吏が、そのまま、帰国する妹子らに付いて行ったことになります。その点でも、の宮廷は倭国を重視していたわけではなく、多分に見下しながら、鷹揚に期待に応えてやるという権高い態度だったのです。「なに? 答礼使が欲しいだと? あああ、じゃおまえが行って来い」というわけです。

 

 そういう背景を踏まえて、国書の内容を読んでみましょう。「倭国から使い人の長吏・蘇因高という者が参って、わが帝国を心から慕う思いをつぶさに語った。

 

 朕は、(地上世界を支配しなさいという)天帝の命令を欽(つつし)んで受け、全世界に君臨する者である。すべての生きとし生けるものに徳化を及ぼしたいと思っている。遠くの者にも近くの者にも、へだてなく、朕は『愛育の情』をそそぐのである。」ぶったまげてしまうほかはない。これ以上に尊大で、傲慢な愛情に満ちた態度がありうるでしょうか?

 

 ――「蘇因高」から聞くところによれば、きみは、大海のかなたで孤立しているけれども、民にやさしい王で、国内は平和である。さまざまな風俗が融けあって、人の心は「深気〔温厚な気風〕と至誠」に満ちており、遠路はるばる朝貢するために使節の派遣を整えたのだ、ということを知った。その丹款(まごころ)を、朕はほめてつかわすぞよ。。。 ‥‥んんんん、あの気位高い推古の前で、ホントにこれ読んだんですかねえ。。。 どーせ中国語、聞いても解らないがw

 

 「稍に暄(あたたか)なり。比(このごろ)は常の如し」――これは時候のあいさつ。そこで、朕もやっと気が向いてきたので、「鴻臚寺の掌客」――野蛮人のお世話係でベビーシッターの裴世清を派遣することにした、うんぬん。

 

 

「髻華(うず)」:難波神社(大阪市中央区)の「菖蒲神事」⇒:ゲジデジ通信

 

 

『是の時に皇子・諸王・諸臣、悉(ことごと)に金の髻花(うず)を以て頭に着せり。亦(また)衣服に皆(みな)錦・紫・繍・織及び五色の綾羅を用ゐる。〔…〕丙辰〔8月16日〕に唐(もろこし)の客等を朝(みかど)に饗(あへ)たまふ。〔『日本書紀』〕

梅原猛『聖徳太子 3』, p.312.  

 

 「髻花(髻華 うず)」は、木の枝葉や花、金銀の造花、鳥の羽などを髮や冠に挿す飾り。現在でも、巫女(みこ)さんが神楽(かぐら)の時に付けていますね↑。頭に黄金の造花を挿して五色のキンキラを着込んだ官僚がおおぜい居並ぶ前で、の使節が、天皇のいる「大殿(みかど)〔↑「小墾田宮概念図」参照〕に向かって皇帝の国書を朗々と読み上げる。まぁ煌びやかな大祭典というほかはありません。謁見の儀式を一目見ようと、さぞかしたくさんの見物が「小墾田宮」のまわりに押しかけたことでしょう。

 

 

 

【20】《第Ⅱ期》 603-611 外交――答礼使と聖徳太子の会見

 

 

 一方、『隋書』のほうは、もっぱら裴世清聖徳太子の会談内容を記しています。↓「」は、裴世清のこと。

 

『すでに彼の都に至る。其の王、と相見へ、大いに悦びて曰はく、「我、海西に大隋礼義の国有るを聞き、故に朝貢せしむ。我、夷人にして僻(とほ)く海の隅に在り、礼義を聞かず。是を以て境の内に稽-留(とど)まり、相見(まみ)ゆるに即(いた)らず。今、故に道を清め、館を飾り、以て大使を待(もてな)す。冀(ねが)はくは大国の維新の化(け)を聞かん」と。、答へて曰はく、「皇帝の徳は二儀に並び、沢(たく)は四海に流(およ)ぶ。王の化(け)を慕ふを以て、故に行人をして此に来りて宣(の)べ諭(さと)さしむ」と。』〔『隋書』〕

梅原猛『聖徳太子 3』, pp.312-313.  

 

 「私どもは、ご覧のとおりの野蛮人でございます。礼も義も耳にする機会さえございません。島国のうちに閉じこもっておりましたのは、海外のことを何も知らなかった無知のせいなのでございます。」初めて会ったの官人の前で、太子の率直な低姿勢は、煬帝の国書の尊大さと、まさに “好一対” に対応する卑屈さです。「日出る国の天子…」云々の跳ね上がった負けん気は、いったいどこへ行ってしまったのか?!‥そして、「新しい道路と客館を新築して大使さまをお迎えいたしました。『大国の維新の教化』を受けたいと願っております。どうか、お導きくださいますよう」。相手が、の官僚制の最底辺にいる「文林郎」にすぎないことは、十分に知られているはずですが、太子の態度に、そんなことを顧みるようすは見られません。

 

 太子に答えて裴世清は言う:「わが皇帝の徳は、二儀に並ぶものです」――「二儀」とは、天と地、日と月、など世界を支配する二元的対立原理(陰陽二気)そのもののこと。「二儀と並び立つ」…ずいぶん大きく出たものですがw――「その恵沢は四海に及びます。あなたが文明の教化を慕っておられるから、皇帝もそれに応えて私を遣わし、あなたがたを『宣べ諭す』ために、ここに参りましたのです」。

 

 ここでたいへん顕著なことがあります。聖徳太子――厩戸は、自分が倭国の王であるかのように裴世清に対しているし、裴世清も、厩戸を倭国の王と思って会見しているのです。小墾田宮での謁見儀式でも、推古は「大殿」の奥に控えていて、姿を見せることはなかったでしょう。ヤマト政権は、天皇が実は女性であることを隠しおおせたし、はすっかり騙されてしまった――と見ることもできます。あるいは、対外的には厩戸が倭国の「国王」としてふるまっていた、と見てもよいのかもしれません。裴世清も、謁見儀式のようすから、「倭国王」より上に、何やら神権的な宗教指導者がいるらしい‥とは感じたものの、それは倭国特有の宗教観念で、政治とは関係ない、と割り切ったのかもしれません。

 

 仏教的に見れば、王の上にバラモンがいるのは俗界では当たり前。だからってバラモンに政治的権力はない。

 

 しかし、この種の “二重の扮装” は、この時だけではありませんでした。対外的に「日本国王」と「天皇」を “二本立て” にする扮装は、足利義満に送った国書など、のちの時代にも繰り返されることになるのです。

 

 

桜井市大福「三十八柱神社」。推古朝「小墾田宮」

の所在地だったという伝承を伝えている。

 

 

 

【21】《第Ⅱ期》 603-611 外交――煬帝の「アメとムチ」

 

 

 608年9月、倭国訪問を終えた裴世清ら一行は帰国の途に就き、彼らを送って、小野妹子らが「第3回遣隋使」として再びに赴きます。今度は、他の国の使節に付き従ってではありません。倭国初めての独立した朝貢使派遣なのです。帰国する中国の使節といっしょなのですから、誰も妨害することはできません。

 

 『書紀』は、この時に高向玄理ら8名の留学生・留学僧が遣隋使に同行したと記していますが、すでに出願した「学僧数十人」も、実際にに渡ったのはこの時だったかもしれません。いずれにせよ、が公式に彼ら倭国からの留学者を受け入れたのは、裴世清の帰国報告に基いてだったと思われます。

 

 こうして、太子の対隋外交は完結しました。その途上で、「第2回遣隋使」から帰国中の妹子らが、百済通過中に、持参していたの国書を盗まれるという事件が起きています。国書は裴世清も持参していますから実害はないのですが。

 

 梅原氏は、この盗難に百済国家が関与していたのはまちがえないと推断しておられますが、私は、妹子らが立ち寄った百済南部の旧・伽耶諸国――「赤土」「伽羅舎」等――のしわざではないかと思います。横並びで隋を訪問した4国のうち、倭国だけがに目をかけられた。妬まないはずはないと思うのです。いずれにせよ、朝鮮半島諸国にとって、倭国の中国との直接通交は歓迎できることではなかった、ということがわかります。ヤマトの宮廷内では、国書紛失の罪を犯した妹子を処刑せよとの議論が持ち上がりますが、けっきょく推古の勅断で赦免されます。いまもし妹子を失脚させてしまうと、交渉の立役者がいなくなって、数十人の学僧の留学も実現しなくなってしまいます。ここで「太子外交」をおじゃんにするわけにはいかない。妹子の処罰など、させてはならないのです。

 

 

「須弥山石」:仏教で世界の中心にあるという「須弥山(しゅみせん)」を表す。

中空で、周囲の穴から水が噴き出る仕掛けを施した石造物。斉明朝(655-661)に

外国使節や蝦夷を接待する饗宴場に置かれ、夜間照明のもとで噴水ショーを

行なったと推定されている。「飛鳥資料館」レプリカ。

 

 

 こうして、数々の困難を乗り越えて、中国との直接外交を軸とする本格的な文明摂取と国際政治の舞台へのデヴュー――という太子の宿願は達成されました。

 

 しかしながら、のほうから見た場合には、以上は “ことがら” の半面でしかありません。つまり、「アメ」の部分です。その一方では、「ムチ」を加えることも決して忘れてはいなかったのです。

 

 小野妹子らが初めに煬帝に謁見した 607年、煬帝は「流求」に朱寛という者を派遣して「異俗を求め」させています。この時点では、珍しい風俗を求める好奇心だったのでしょう。朱寛は、ひとりの流求人を連れ帰っています。

 

 ところが、翌年煬帝は、また朱寛を「流求」に派遣して「慰撫せしむ。流求従はず。」煬帝は「流求」が気に入ってしまったのか、服属させようとしたところ、拒否された。そこで、朱寛は流求人と戦って相手を殺傷したようで、「布の甲(よろひ)」を奪い取って帰ってきます。

 

『時に倭国の使、来朝し、之を見て曰はく、「これ夷邪久国の人の用ゐる所なり」と。』〔『隋書』流求国伝〕

梅原猛『聖徳太子 3』, p.328.  

 

 「第3回遣隋使」に来ていた小野妹子に見せたところ、「夷邪久(いやく)国」のヨロイだと言った。「夷邪久」は、いまの屋久島です。当時の中国で「流求」は、南西諸島から台湾までの広い範囲を指す地名でした。が、ここで言う「流求」は、大隅諸島でも沖縄でもなく、台湾島であった可能性が高いです。(610年の遠征記事↓から、そう推測できます)

 

 の宮廷が戦利品の「よろい」を妹子に見せたのは、決して意図のない行為ではありません。中国を慕って貢いで来る国は優遇してやるが、従わない者は、こうなるのだ、という言外の脅迫と見るべきです。その恐るべき意図は、妹子らを通じてヤマト本国にも確実に伝えられたでしょう。というのは、隋の流求関係は、その後次のように展開しているからです:

 

 609年、再度朱寛を派遣して服属を要求しますが、やはり「流求」は従わない。そこで、「陳稜」「張鎮周」の2名を将軍にして「東陽の兵、万余人」を派遣して攻撃するのです。その際、「義安」(現在の広東省潮州)から「月余り」航海して「流求」に達したとあります。

 

 「流求王・渇刺兜(かつらつとう)」は、兵を繰り出して「陳稜」らを迎え撃ちます。しかし、多勢に無勢。流求軍はしだいに退いて、軍は流求の「都」に侵入しました。これが、翌610年正月のこと。

 

『渇刺兜、自ら将として出でて戦ふ。また破れ退きて柵に入る。稜ら勝(かち)に乗じて攻めて之を抜き、渇刺兜を斬り、其の民(たみ)万余口を虜(とりこ)にして還(かへ)る。

 

 二月乙巳、稜ら流求の俘(とりこ)を献(たてまつ)る。頒(わか)ちて百官に賜(たま)ふ。』〔『資治通鑑』〕

梅原猛『聖徳太子 3』, p.335.  

 

 勝ちに乗じた隋軍は、流求の都城(柵で囲んだ館程度のもの)を打ち破って流求王渇刺兜を殺害し、1万人余りの民(たみ)を拉致して皇帝に献上、煬帝はこれらを奴隷として百官に分け与えた、というのです。

 

 この「台湾侵略・拉致事件」の情報も、朝鮮諸国を通じて‥‥あるいは南西諸島から、ヤマト政権に伝わったはずです。「中華帝国への応対を一歩まちがえれば、こんなに悲惨な目に遭うんだぞ!」という見せしめなのです。

 

 台湾は、ヤマトから遠いじゃないか、と思うかもしれません。しかし、側の意図としては、ヤマトの心臓部を叩いたつもりだったかもしれません。というのは、古代の中国人の地理認識では、日本列島は朝鮮半島の南に南北に連なる列島だったのです。『魏志倭人伝』が、「邪馬台国」を、九州の南にあるように記しているのは、そのためです。古代中国の支配層の認識では、ヤマトは九州の南、台湾島とほぼ同じ位置にあったのです〔吉村武彦『ヤマト王権』,pp.13-17;吉田晶『卑弥呼の時代』,2020,吉川弘文館,pp.25-38〕

 

 『隋書』「東夷伝」にも、「古くは云ふ、〔倭国は〕‥‥会稽の東に在り、儋耳と相近しと」とあります。「会稽」は現在の浙江省紹興市、「儋耳」は現在の海南省(海南島)西部にあった郡。‥‥「倭国」の位置は、奄美からフィリピン・ルソン島までの範囲になります。

 

『なぜ流求は、このような目にあうのか。〔…〕〔中国人の地理感覚では〕流求が倭の近くにあり、倭の使者がこの流求から奪ってきた甲(よろい)を見た時に、夷邪久(いやく)の風俗に似ていると、驚きの声と恐れた表情で答えたことがその原因ではなかったか。』

梅原猛『聖徳太子 3』, p.336.  

 

 

「猿石」。「猿石」と呼ばれる二面石像のひとつ。もとは

欽明天皇陵の濠堤の上に並べられていたという。6~7世紀

の築造か。奇怪な動物?と手の仕草、機能、目的など、

いっさいが謎に包まれている。「飛鳥資料館」レプリカ。

 

 

 

【22】《第Ⅱ期》 「太子外交」の勝利か?

 

 

 こうして、倭国の外交は、「中華帝国のアメとムチ」の洗礼を受けながら、伝統的な「親・百済、親・高句麗」路線から離れようとしていました。さしあたって倭国の国内では、この新機軸は大成功を収めたように見えました。誰も彼もが、史上初めてヤマトに現れた中国の正式使節を迎えて舞い上がっていました。軽薄にキャアキャア騒ぐ倭人たちを、歯がゆい思いで眺めていたのは、高句麗から来ている人びとだったでしょう。

 

 それでも高句麗は、倭国から離反するのではなく、むしろこれまで以上に熱心に文化を伝えようと努めます。610年には、高句麗僧・曇徴が、製紙法と墨・絵具の製法、碾磑(すりうす)の製造法を伝えます。

 

 しかし、翌611年には、なんと新羅が「任那の使い」を伴なって、倭国に朝貢してきます。じつは、これはがウラで新羅に指図した結果でした。新羅の官僚が、とっくの昔に存在しなくなっていた「任那」の使者に成りすまして、まるでヤマトの属国のように演技して倭国に朝貢したのです。もちろん、本来であれば新羅が、独立国家の沽券にかかわるような・こんなふるまいに出ることはありえないのですが、の指示とあればやむをえません。すべては、倭国を高句麗から引き離し、隋・新羅の「高句麗包囲網」「高句麗孤立化戦略」を完成させるためでした。

 

 これまで、「任那のこと」を何度「問う」ても反応がなく、「任那の調(みつぎもの)」を持って来いと、何度要求しても応じなかった新羅が、一転して自分からヤマト政権の望むとおりの行動に出たのです。欽明朝以来の懸案だった「任那問題」は、「太子外交」の効果として、一挙に解決してしまいました。

 

 611年はまさに、聖徳太子の独自外交が、成功と名声の頂点にあった年でした。そしてそれは、一瞬の頂点に過ぎなかったのです。頂点を過ぎれば、ただちに転落が始まります。

 

 この年、煬帝は高句麗侵攻を開始します。ところが、614年まで3回にわたって侵攻を繰り返しても、高句麗を屈服させることはできず、かえって無理な外征は国内を疲弊させて中国各地に反乱が勃発し、618年、ついに煬帝は暗殺され、は滅亡してしまいます。

 

 この予想外の展開に、「太子外交」の評判は、一転して地に落ちることになります。自信を失った厩戸は政治から手を引き、「斑鳩宮」に閉じこもって著述に専念するようになります。政権は、蘇我馬子推古の手に戻り、もとの「親・百済、親・高句麗」路線が復活するのです。

 

 それでは、「太子外交」は、ほんとうに失敗だったのか? 当時の人びとの眼には失敗に映ったとしても、その後 100年 200年先まで見通した場合には、どうなのか? 私たちは、どう評価すべきか?

 

 次回は、その点の議論から始めたいと思います。



 

 

 

 

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