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月渓洞1号長鼓墳(光州市光山区月桂路155)6世紀前半。

韓国・全羅南道(「百済」南部)に多い、

倭人系豪族の前方後円墳の一つ。入口は、

朝鮮戦争時に防空壕として使われた跡。

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

 

《第Ⅱ期》 603-611

  • 603年7月 新羅遠征を中止、派遣軍を北九州から引き揚げる。10月、王宮を「豊浦宮」から「小墾田(おはりた)」に移す。12月、「官位十二階」を制定。
  • 604年 「朝礼」を改定。1月、諸臣に官位を与える(官位十二階の実施)。4月、「十七条憲法」を制定。
  • 605年10月 斑鳩(いかるが)が竣工し、厩戸皇子、移り住む。
  • 606年5月 鞍作止利(くらつくり・の・とり)に命じて「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)を造らす。7月、厩戸皇子、橘寺?で「勝鬘経(しょうまんぎょう)」を講義。斑鳩・岡本宮(現・法起寺)?で「法華経」を講義。
  • 607年 厩戸皇子、法隆寺(斑鳩寺)の建設を開始。屯倉(みやけ)を各地に設置し、藤原池などの溜池を造成し、山城国に「大溝」を掘る。
  • 607年7月 小野妹子らを遣隋使として派遣し、煬帝に国書を呈す。
  • 608年8月 の答礼使裴世清を迎えて歓待する。9月、高向玄理らを遣隋使として派遣。多数の留学生・留学僧をに送る。
  • 609年 厩戸皇子、『勝鬘経義疏』の著述開始。4月、「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)が完成し、法興寺(飛鳥寺)に安置。
  • 610年3月 高句麗僧・曇徴(絵具・紙・墨・碾磑の製法を伝える)を迎える。610年頃、法隆寺(斑鳩寺)の建設が完了。
  • 611年 新羅、「任那の使い」とともに倭国に朝貢。『勝鬘経義疏』を完成。

《第Ⅲ期》 612-622

  • 612年 百済の楽人・味摩之を迎え、少年らに伎楽を教授させる。厩戸皇子、『維摩経義疏』の著述開始。
  • 613年 畝傍池ほかの溜池を造成し、難波から「小墾田宮」まで、最初の官道「横大路」を開鑿。『維摩経義疏』を完成。
  • 614年6月 犬上御田鍬らを遣隋使として派遣。厩戸皇子、『法華義疏』の著述開始。
  • 615年 『法華義疏』を完成。
  • 620年 厩戸皇子、蘇我馬子とともに『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂(開始?)。
  • 622年2月 没。

 

 

 

【15】《第Ⅱ期》 603-611 独自政策の展開

――2度目の遣隋使

 

 

 馬子‐推古のラインで進めた西暦600年の遣隋使は大失敗でした。

 

 かつて「倭の奴国」「卑弥呼」から「倭王武」まで、中国の王朝に朝貢していたころは、朝鮮半島にはまだ国家と言えるものがなく、その点は倭国も同様でした。しかしそれだけに、国境やら領海などといった交通の障壁もなく、何かあっても野蛮人どうし、ナマの武力で争ってそれなり道を開くことができたのでした。信頼できる情報というものもありませんから、これこれの遠征をして、これこれの地方を征服しましたと言えば、中国の王朝はそれを信じて、「倭と朝鮮の全土監督大王」といった爵位を授与してくれました。

 

 ところが、倭国から使節を送らないでいた1世紀あまりの間に、朝鮮半島から遼東、遼西にかけて、各地方とも軍隊と政治組織を備えた古代国家を形成して、たがいの生存を賭けて争い合うようになっていました。たまたま列島に閉じこもって外に目を向けないでいた時期が、ちょうど近隣地域の国家形成期に当たっていたのでした。今では各国とも毎年のように中国に朝貢し、外交にも情報収集にも余念がありませんから、いまさら海の向こうの新興国などが割り込むすきはなくなっていたのです。倭国は、ほんの 100年ちょっとの間に、すっかり時代遅れになっていました。

 

 何よりも、中国王朝と中国を中心とする「冊封体制」が、過去のようなのんびりしたものではなくなっていました。3世紀あまりにわたって分裂していた中国に統一王朝が成立し、しかもその王朝・には、秦・漢のような対外的な甘さはありません。漢の時代には、朝鮮半島やベトナムにも不十分ながらも「郡」を置き、諸族をそれなりに従わせていたのですが、いまでは諸国はそれぞれの国家意志を備えた王国です。としても「世界帝国」の地位を維持するためには、硬軟両極(アメとムチ)の対外政策を駆使しなければならない。対外的地位を維持できなければ、国内的に統一を保てなくなり、反乱を誘発して崩壊するほかはないのです。

 

 そこでのとった対外政策は、中国の伝統的な対外基調――遠い国と結んで近国を圧迫する「分断統治」であったと思います。このシリーズの (4)で、590年に文帝高句麗に送った脅迫状のような国書を紹介しましたが、隋にしてみれば、いまの高句麗の「国土」はすべて(平壌、さらには新羅の領土になっているソウルまで)、かつて中国が「郡」を置いて支配していた領域で、蛮族が中国の領土を不法占領して支配しているようにしか見えないのです。「おまえの国はすべて朕のものだ。おまえの支配を容認しているのは、おまえが朕に逆らわないでいるあいだのことだと思え。」というのは、決してただの脅しではなく中国皇帝としての真意なのです。(現代の中国の政権歴史学も、高句麗は朝鮮民族国家などではない、中国の地方政権に過ぎない、などと言っています)

 

 もちろん、といえども、周辺国家すべてを敵に回しては持ちこたえられない。そこで、遠くにいる新羅に対しては目をかけてやって、友好国となるよう誘導する。その次に遠い百済に対しては、硬軟まじえつつも、高句麗ほどには圧迫しない。そして、いちばん近い高句麗には厳しく対処する。これが中国の伝統外交です。ゆくゆくは新羅などを味方にして、高句麗を挟撃して亡ぼし併合し、版図を拡大してゆく――それが、中国王朝の一貫して追求する世界政策なのです。

 

 そこへ現れた「倭国」です。「倭国」が高句麗の言いなりになって、“野蛮人の余興” を提供しているあいだは、の皇帝は気にもかけません。およそ国際政治の圏外の存在でしかないからです。しかし、いったん頭角を現わすや否や、「中国中心の世界政策」に取り込まれます。そのさい、中国の伝統的な基調にしたがって、を最も遠い「最辺境国」として優遇し、そのウラで目立たないように「ムチ」を加えることも忘れないでしょう。

 

 聖徳太子という、ある意味では先見の明がある、ある意味では現実政治に無知な「辺境国」の王族が躍りこんだ国際関係の舞台は、当時こんなありさまだったのです。

 

 

「百済」南部にあたる韓国・全羅南道には、倭人系渡来人

のものとおぼしい前方後円墳が多数確認されている。

(上)海南龍頭里古墳(海南郡三山面昌里578番地)4世紀前後

(中)海南長鼓峰古墳(海南郡北日面方山里山1008-1)4-5世紀

(下)咸平新德1号墳(咸平郡月也面礼徳里山176番地)5世紀頃

 

 

 

【16】《第Ⅱ期》 無礼な国書とおめめキラキラ

――隋を驚愕させたリベンジ作戦

 

 

 600年の最初の遣隋使が失敗した原因は、何よりも他国に依存して使いを送ったことにありました。その結果、文帝に「そんな政治のやり方はダメだ」と言われて、もらえると思っていた爵位の授与もありませんでした。607年の遣隋使も、こんどは百済の誘いがあっての派遣だったようです。というのは、百済の朝貢使に連れられて、「倭、赤土、迦羅舎国」の使節が朝貢している(『隋書』帝紀・大業4年条)からです。「赤土」と「迦羅舎」は、百済南部の伽耶諸国(倭人系?)でしょう。もしも、このまま言われたとおりにすれば、前回と同じ憂き目を見ることになります。そこで考えた「倭」独自の “自主外交” の秘策は、厩戸皇子の独創であったと思います。後世の評価がそうなっているのは理由のあることです。よほどの天才か変人でなければ思いつかないエキセントリックな策だからです。

 

 まず、今回は、しっかりした漢文の「国書」を作って、その内容は百済には見せないようにして、煬帝の前でいきなり読み上げます。内容は、ご存じの通り、「日出(ひいづ)る処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙(つつが)無しや。」――おまえも天子なら、俺も天子だ、冊封も爵位も要らねえよ、と言わんばかりの国書。

 

 しかし、それと同時に、正使・小野妹子をはじめとする面々は、「海西の菩薩天子が仏教を重々しく興しておられると聞いたので、使者を派遣して拝礼し、僧侶数十人を留学させたいと存じます。」と、眼を輝かせて言う〔これは使節の発言であって、国書の内容ではありません。ウィキペディアは、このへんの記述が不正確で要注意。梅原猛氏の著書などに『隋書』の原文が引用されているので、見ておくべきです――ギトン註〕煬帝こそは「菩薩天子」に間違いないと心底信じきっている様子。無礼千万な国書にいきり立って、「蕃夷の書、礼無きもの有り。また以て聞こゆることなかれ。」と命じた煬帝も、その一方では「菩薩天子」と持ち上げられて悪い気はしないのです。

 

 煬帝は、父・文帝の在位中、宮廷に陰謀をめぐらして、皇太子だった長子のを廃位させ、3男、4男を失脚させ、勇と5男を殺して次男である自分が即位したほどで、文帝にまさる暴君だったと言われています。が、その反面、仏教にはことのほか崇敬の念が深かったので、「菩薩天子」は彼の自負心を直撃したようでした。一種のショック療法だったのでしょうか? ともかく「倭国」は、「赤土、迦羅舎」などの小国群に埋もれず、の宮廷で頭角を現わすことに成功しました。煬帝は、まずは「裴世清」という下級役人を答礼使として倭国に派遣し、この不可解な国の様子を探らせることにします。(おそらく、「数十人の僧侶」をが受け入れたのは、裴世清の報告が届いた 608年・第3回遣隋使の時であったでしょう。)

 

 厩戸の書いたエキセントリックな国書が成功を収めるには、小野妹子らの役割がきわめて大きかったと考えられます。まかり間違えば、傲慢な国の無礼な国使として、全員とらえられて処刑されてもおかしくなかったはずです。ヤマトの高位の豪族であったなら、国書の内容を意識して、傲慢に見られる態度を表わしてしまったことでしょう。その点、あえて、それまでは名もない氏族であった小野氏から取り立てて正使を任命したのも、厩戸の秘策のうちだったのかもしれません。

 

『小野一族は和珥(わに)氏と同じく、〔…〕近江国滋賀郡小野村、琵琶湖の西岸に住んでいた一族であろう。場所がら多少帰化人の血を引いている〔…〕ここで聖徳太子に推薦されて、わが国はじめての遣隋使の大使となった。〔遣隋使当時の妹子は、「冠位十二階」で〕「大礼」とあるので、当時まだ妹子は第5番めの位であった〔…〕

 

 この登用が何によったか明らかでないが、多分、妹子は多少なりとも帰化人の血を引くか、あるいは帰化人集団と深い関係をもつことによって、海外の情勢に通じ、漢文も相当に読め、あるいは多少は漢語も話せたからであろう。』

梅原猛『聖徳太子 3』, p.271-272.  

 

 

小野妹子の墓と伝えられる大津市水明(湖西線小野駅)の「唐臼山古墳」

墳丘上に「小野妹子神社」がある。

 

 

 

【17】《第Ⅱ期》 隋をめぐって右往左往

――動きだした「東夷」の諸国

 

 

 589年にが中国を統一して以来、朝鮮各国は、じっとの動静をうかがっていました。すぐ隣りに巨大な帝国が誕生した以上、さらに外征をかけてくるのか、おとなしくしていれば危害を加えないのか、判らないうちはへたに動けないのです。

 

 そうしているうち 598年、ついに文帝高句麗に「水陸三十万」の兵を差し向けました。理由は、高句麗に服属していた「靺鞨(まっかつ。のち「渤海」を建国)」という部族を率いて高句麗王が遼西に侵入したというのですが、10年近い待機に堪えられなくなった騎馬族の要求に圧されての先制攻撃であったかもしれません。

 

 ところが、の遠征軍は、長雨で食糧の輸送が途切れたのと疫病がはやったために、国境の遼河に着いた時には全滅に近い状態となっていました。水軍のほうも、嵐に遭って、多くの船が漂流し沈没しました。こうして、水陸とも遠征をあきらめて戻って来たものの、「死する者は十のうち八、九」であったと『隋書』は記す。

 

 ここで驚くべきは高句麗のとった態度です。戦わずして勝利したのですから有頂天かと思いきや、高句麗・嬰陽王は、

 

『恐懼し、使を遣はして罪を謝し、表(ふみ)を上(たてまつ)りて、「遼東糞土の臣某」と称す。帝、ここに於て兵(いくさ)を罷(や)め、之を待すること初めのごとし。』〔『三国史記』高句麗本紀〕

 

 ただちに謝りを入れてしまったというのです。しかも、「うんこのような土地にいる臣下でございます」と、最大級の卑下。さすがの文帝も戦争をやめて、開戦時に剥奪した「遼東郡公」の爵位も元に戻したというのです。これを「屈従外交」と言うことはできないでしょう。これほど悲惨な負け戦をした大国が、ただ引き下がることはあり得ないからです。周辺国が文明化した東アジアでは、“武力だけ” の時代はもはや終わっていたことを証明する事件だったと言えます。

 

 しかし、の高句麗遠征とその失敗を受けて、他の周辺国もようやく動きを見せ始めました。百済は、遠征が始まった段階で隋に使者を送って、「軍の導きをなすことを請ふ。」――遠征のご案内をいたしましょうか?‥‥その使者が来た時には、もう戦争は終って、嬰陽王の謝罪文も届いていたので、文帝は案内を断り、高句麗を「伐(う)つことを致すべからず。」――おまえもケンカするんじゃないぞ、と念を押した。

 

 そればかりではなかったようで、はこのことを高句麗にチクったらしいのです。高句麗は、この直後に百済の「境を侵掠」した、という記事が『三国史記』に出ています。両国はこの時点では陸の国境を接していないので、わざわざ海を渡って侵入したのか? それとも新羅と共同でか? わかりませんが、いずれにせよ、高句麗は百済の裏切りに激怒したことでしょう。一方、あらゆる機会を利用して諸国の分断を図るの手際にも抜かりはありません。

 

 新羅も動き始めました。597年に倭国は新羅に、崇峻天皇の時に遣わした吉士磐金――朝鮮語の堪能な役人を、また送っていたのですが、用向きは分かりません。また、「任那のことを問はしめ」たのでしょうか。ところが、その吉士磐金が翌年帰国し、こんどは手ぶらではなく、珍しいお土産をもらって意気揚々と帰って来たのです。「かささぎ」2羽と「くじゃく」1羽を持ち帰っています。「かささぎ」は、当時日本にはまだいない鳥で、たいへんめでたい動物とされていました。「くじゃく」に至っては、東南アジアに行かなければ手に入りません。新羅はこの贈り物で、「わが国は南方諸国とも交流があるのだよ。仲良くしておいて損はないだろう?」と、世界を知らないヤマトの支配者を諭しているのです。

 

 これを知った百済は、翌599年に、われも負けじと言うんでしょうか、「ラクダ1頭、ロバ1頭、ヒツジ2頭、白雉1羽」を献上しています。「白雉」は、突然変異で生まれる白いキジで、日本で捕獲された剥製もあります。それにしても、ラクダをどこから連れてきたのか? 西域、シルクロード方面と交流があるよ、ということなのでしょう。

 

 この贈り物合戦は前兆だったのでしょう。601年(『三国史記』によれば 602年)、百済新羅は戦端を開きます。「倭国」も介入を図って北九州に2万5千の軍を集結させますが、司令官の病死などのために遠征に至らなかったことは、すでに述べました。

 

 600年にの内部で皇太子が廃位され(次男――のちの煬帝による陰謀)、宮廷で混乱の起きていることが伝えられると、各国は、の外部への圧力は弱まったと判断して、徐々に動きを活発にしていったのです。こうして、国際環境は変化しつつありました。変化の軸にあるのは、なんといっても強大国・です。すべてはのまわりをめぐっているのです。もはや、以前のように「高句麗百済との同盟一辺倒、新羅を仇敵とする一辺倒」では通用しなくなっていたのです。「倭国」としては、東アジアの “中心軸” との直接の関係を確立するとともに、新羅を含めた各国との外交関係を慎重に見極めていく必要がありました。

 

 

「唐臼山古墳」の墳頂にある小野妹子神社。墳丘は崩れており、

社殿の裏には、石室を構成していた石材が露出している。

未発掘であるが、石材の観察から、7世紀の中央官人の墓

であることはまちがえないとの指摘がある。

 

 

 

【18】《第Ⅱ期》 煬帝からのサプライズ――答礼使の派遣

倭国は、法螺貝を鳴らして歓迎

 

 

 遣隋使派遣の翌年 608年、小野妹子らが帰国しますが、の答礼使・裴世清以下13人のの使節団を伴ってでした。

 

『日本の送った遣唐使・遣隋使にたいして、中国がかわりに使節を送りかえしてくることは、はなはだ異例なことである。それは一つは中国にとって、日本との通交は、やはり一種の朝貢で、けっして対等とは考えられていないことにもよる〔…〕

 

 異例なことがどうして起こったか。〔…〕今、隋は、はっきり高句麗征伐の意志をもっているのである。〔…〕高句麗を討つためには、まず外交的用意が必要なのである。そのために、高句麗に味方するいっさいの国を、高句麗から引き離さねばならぬ。高句麗の友好国、それは、西は突厥、東は倭国なのである。

梅原猛『聖徳太子 3』, pp.288-289.  

 

 じつは、この年8月に、高句麗煬帝を激怒させる事件が起きていました。煬帝は長城地帯を巡行して突厥啓民可汗(かがん)を訪れたところ、啓民可汗に恭順を誓ったうえで、そこに来ていた高句麗の使者に会わせたのです。高句麗は、598年の・あの「うんこ臣下」の詫び状以来、にはまったく朝貢していませんでした。それなのに、突厥に使者を派遣していたのは、この遊牧国家と攻守同盟を結んでに対抗するためでした。それをの皇帝にバラして引き合わせた啓民可汗は、「高句麗とはもう付き合わない。私たちは隋の味方です。」と態度で示したことになります。

 

 この事件は、高句麗討滅の決意をさせただけでなく、高句麗から最重要の同盟国を引き離したのです。百済は、高句麗と隋のあいだで “二股がけ” のどっち附かず。もう、高句麗の側に残っているのは「倭国」だけで、倭国さえ引き離せば、はいよいよ高句麗に対して9年前の屈辱をすすぐべく、リベンジの軍を差し向けることができます。

 

『倭国はどうも妙な国である。〔…〕中国から離れているので、礼儀を知らないが、人間は純朴なのであろうか。この倭国をどのようにして高句麗から離すか。〔…〕倭国がもっとも欲しいものは、文化であり、仏教である。文化を、仏教を、倭国に与えてやる。そうすれば倭国は高句麗を離れ、隋の側に帰するであろう。私は、裴世清はかかる計算のもとに、倭国に送られたと思う。』

梅原猛『聖徳太子 3』, p.289.  

 

 

海石榴市(つばいち)。大和川(初瀬川)中流にある古代の船着き場。

バザールがあり、「歌垣」が行われ、人がおおぜい集まる場所だった。

裴世清の一行は、ここで船を降り、ヤマト政権あげての盛大な歓迎を受けた。

 

 

 

 608年の「夏四月」(以下旧暦)、13人のの使節団を案内して、小野妹子ら遣隋使一行は筑紫の港に着きました。6月15日には難波に到着し、ヤマトの都(小墾田宮)には、8月3日に「海石榴市(つばいち)」の船着き場から入っています。

 

 九州からヤマトまで3か月以上かかっているわけで、かつて『魏志倭人伝』に記録された行程と比べても、おそろしくゆっくりした旅です。ヤマト政権では、が答礼使を派遣してくることなど予想していなかったので、あわてて難波に隋使節のための客館を新築するなど、歓迎準備におおわらわでした。一行の旅は、時間稼ぎのために引き延ばされたと思われます。それでも、あちこち見物しながら進み、「秦国」と銘打って、中国から来て昔のままの生活をしている人々の村――などというものまで(芝居でしょうけれど)演出しています。使節に退屈したようすはなく、で「文林郎」(官位の名。従九品上。職務は不明)の下級官吏だった裴世清は、おおいに羽を伸ばして観光を楽しんだことでしょう。

 

 難波の港では、「飾船(かざりぶね)三十艘」で出迎えて、新築の客館に案内しています。この客館、もともとあった高句麗使節用の館の「上に」造ったというのですから、外交常識のなさにも呆れますが、ほほえましくもなります。厩戸の家庭教師をしていた僧・慧慈をはじめ、高句麗から来ていた人たちはショックを受けたにちがいありません。

 

『倭王、小徳阿輩台(あほた)をして、数百人を従へ、儀仗を設けて、鼓、角(つのぶえ)を鳴らし、来たり迎へしむ。』〔『隋書』倭国伝〕

梅原猛『聖徳太子 3』, p.308.  

 

 「小徳」は「冠位十二階」の第2位。妹子は第5位の「大礼」ですから、かなりの高官が難波津まで来て出迎えたことがわかります。「つのぶえ」はありえないと思います。当時は日本にはまだ牛はいませんから、角笛を作りたくても材料がありません。おそらく「ほら貝」を鳴らしたのを、角笛と思ったのではないでしょうか。法螺貝は古墳祭祀でも使われています。「飾り船」はともかく、タイコと法螺貝の軍楽隊では、さすが野蛮国!‥しかし、心のこもったもてなしぶりだったのでしょう。裴世清の報告書をもとにしたであろう『隋書』の記載に、軽蔑の心地は感じられません。

 

 

 

 

 

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