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法隆寺「東院」。聖徳太子の居館「斑鳩宮」があった場所

に建てられている。八角・宝形造の屋根は「夢殿」。

 

 


これから、摂政聖徳太子の政策の変遷を、

やや詳しく見ていきたいと思います。

前回の最後に、

太子の治績は時系列順に3つの時期に

分けられる、ということを述べましたが、

駆け足だったので、たいへん端折った説明に

なってしまいました。

ここで、改めて時系列の年表を

出しておきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

【11】 「聖徳太子時代」の3つの時期

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

 

《第Ⅰ期》 593-602 

  • 593年4月 厩戸皇子、摂政に即位。
  • 594年2月 「三宝(仏教)興隆の詔」を布告(厩戸皇子が起草か)。
  • 595年 新羅遠征軍を北九州から引き揚げる。高句麗僧・慧慈を師として迎え、厩戸皇子、仏法との官制を学ぶ。
  • 596年 厩戸皇子、慧慈と伊予国湯岡(現・道後温泉)に遊び、湯治記念碑を建てる。
  • 600年 高句麗とともにに朝貢するが(最初の遣隋使)、「政治のしかたを改めよ」と文帝に叱責され、爵位を受けられず。
  • 601年2月 厩戸皇子、斑鳩(いかるが)を造営(-605年10月)。
  • 602年 百済僧・観勒を迎え、書生らにを教授させる。2月、来目皇子を将軍として新羅派遣軍2万5千名を北九州に集結。

《第Ⅱ期》 603-611

  • 603年7月 新羅遠征を中止、派遣軍を北九州から引き揚げる。10月、王宮を「豊浦宮」から「小墾田(おはりた)」に移す。12月、「官位十二階」を制定。
  • 604年4月 「十七条憲法」を制定。
  • 606年5月 鞍作止利(くらつくり・の・とり)に命じて「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)を造らせ、法興寺(飛鳥寺)に安置(609年4月)。7月、厩戸皇子、橘寺?で「勝鬘経(しょうまんぎょう)」を講義。斑鳩・岡本宮(現・法起寺)?で「法華経」を講義。
  • 607年 厩戸皇子、法隆寺(斑鳩寺)を建立(-610頃)。屯倉(みやけ)を各地に設置し、藤原池などの溜池を造成し、山城国に「大溝」を掘る。
  • 607年7月 小野妹子らを遣隋使として派遣し、煬帝に国書を呈す。
  • 608年8月 の答礼使裴世清を迎えて歓待する。9月、高向玄理らを遣隋使として派遣。多数の留学生・留学僧をに送る。
  • 609年 厩戸皇子、『勝鬘経義疏』の著述開始。
  • 610年3月 高句麗僧・曇徴(絵具・紙・墨・碾磑の製法を伝える)を迎える。
  • 611年 新羅、「任那の使い」とともに倭国に朝貢。『勝鬘経義疏』を完成。

《第Ⅲ期》 612-622

  • 612年 百済の楽人・味摩之を迎え、少年らに伎楽を教授させる。厩戸皇子、『維摩経義疏』の著述開始。
  • 613年 畝傍池ほかの溜池を造成し、難波から「小墾田宮」まで、最初の官道「横つ道」を開鑿。『維摩経義疏』を完成。
  • 614年6月 犬上御田鍬らを遣隋使として派遣。厩戸皇子、『法華経義疏』の著述開始。
  • 615年 『法華経義疏』を完成。
  • 620年 厩戸皇子、蘇我馬子とともに『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂(開始?)。
  • 622年2月 没。

 

 

【12】《第Ⅰ期》 593-602 仏教の国教化と寺院建立

 

 

 この期間は、若い厩戸皇子にとっては準備期、ないし、頭角を現わす前の雌伏の期間と言えます。宗教戦争に勝利した蘇我馬子の政策基調が、国政を全面的に支配し、厩戸は、馬子推古の意向に忠実に従っていたと思われます。

 

 まず、「摂政」即位翌年(594年)の「三宝興隆の詔(みことのり)」。「三宝」とは「仏・法・僧」――つまり仏教のことです。これはまさに、崇仏派蘇我氏の勝利宣言というべきです。ここに仏教は正式に「倭国」の国家宗教となりました。

 

 

『こういう時に、我も我もと、いっせいに雪崩現象が起こるのが、日本の常である。「諸(もろもろの)(おみ)(むらじ)等、各君親の恩の為に、競(きほ)ひて仏舎(ほとけの・おほとの)を造る。」と(『日本書紀』に)ある。君親の恩というけれど、まず自家の寺をつくって、新しい時代に乗りおくれまいとしたのであろう。この場合、この時代風潮に逆らうことは、支配者の猜疑を招くことになる。

 

 この時多くの寺が造られたことが、発掘の結果、明らかになっている。』

梅原猛『聖徳太子 2』,p.98.  


『三宝興隆詔をうけて、朝廷の豪族たちは「君親の恩」のため競って寺院を建立したという。30年後の推古32年(624年)には寺は 46ヵ所、僧は 816人、尼は 569人にまで増えた。46寺のほとんどは豪族の氏寺であり、彼らの本拠地(のちの畿内)に建てられたが、その願いは「君親の恩」に報いること、つまり過去の国王・祖先の菩提を弔い、現在の国王・父母の安穏を祈ることであった。』

吉川真司『飛鳥の都』,pp.7-8.  

 

 

 すでに 587年、「蘇我-物部戦争」で蘇我・諸皇子連合軍が物部軍を平定した時に、“宗教戦争” は仏教側の勝利に決していたはずでしたが、「倭国」の豪族たちが本格的に仏教導入に雪崩れ込むのは、「崇峻暗殺」後の推古聖徳太子の即位(592-593年)をまってからだったのです。やはり、崇峻天皇の時代には、外国からの援助にもかかわらず国内の抵抗があって「飛鳥寺」の建設も容易に進まず、天皇自身が物部の残党をキサキに迎えて政治に関与させるなど、「排仏」に戻ろうとするリアクションさえ見えていたのです。崇峻暗殺」は、蘇我氏と仏教派による “宗教戦争勝利” を、最終的に確定したクーデターだったと評価できるでしょう。


 

飛鳥寺出土の軒丸瓦。 飛鳥寺展示室。

この「複弁蓮華文」は、6世紀後半の隋に初めて出現したもの。

高句麗・百済の「瓦博士」は、当時最新の技術を伝えた

ことが判る。(ところが、飛鳥寺竣工[596年]の9年前に

葬られた藤ノ木古墳の副葬品に、この「複弁蓮華文」の

馬具があることが、私たちを驚かす。同古墳の

被葬者・穴穂部皇子は、蘇我馬子よりも先に最先端の

仏教文化を導入した先覚者だったのかもしれない)

 

 

 しかし、ここで梅原猛氏が、「発掘の結果」多くの寺がこの時に建てられたことが判明している、と述べておられる点が、私にはよくわかりません。いろいろ調べてみているのですが、6世紀末の諸豪族の寺院建立が明らかになった「発掘」というのが、いくら探しても見当たりません。かえって、寺院の「瓦」に関する考古学研究は、「飛鳥寺」「法隆寺」「四天王寺」「豊浦寺」――すべて蘇我氏と厩戸皇子の寺――以外には、これらのような本格的な瓦葺(かわら・ぶ)きの寺院は、この時期に建てられてはいないことを示しています(『飛鳥の都』,pp.8-11)。当時、「瓦」を製造するには、高句麗百済から来た「瓦博士(かわら・はかせ)」集団に焼いてもらうほかありませんでした。「飛鳥寺」は日本最初の瓦葺き建物であり、重い瓦葺きの屋根を支えるためには、建物の床下に礎石を埋めて、柱をその上に建てなければなりません。しかし、6世紀までの日本の建物はすべて、「弥生式竪穴住居」と同じ「掘立柱(ほったてばしら)・茅(かや)葺き」ないし「板葺き」建物だったのです。

 

 したがって、豪族たちが競って寺を建てた――と言っても、ただちに本格的な瓦葺きの寺院が建ったわけではなく、蘇我氏以外はみな、かんたんな掘立柱の「仏舎」だったと考えなくてはなりません。その中に入れる仏像も、容易には入手できなかったはずです。さしあたっては、布や木札に仏の絵を描いた程度のものだったのではないでしょうか?

 

 それでも、聖徳太子の治世末年ころまでには、おもな寺が 46ヵ所、僧尼の数が 1400人近くに達したというのですから、もはや仏教は崇仏派・蘇我氏一派のものではなく、「倭国」全体が仏教を受け入れる時代となったのです。

 

 

『いわゆる飛鳥寺院は祖先祭祀だけでなく、王権を中心とする政治秩序とも関わっていたのである。蘇我氏と飛鳥寺は、そのような〈飛鳥の仏法〉の中枢に位置していた。〔…〕

 

 飛鳥寺造営は 20年をかけて終ったが、蘇我氏が掌握する技術者はそこから畿内各地に派遣され、寺院の成立をもたらしたのである。建築や工芸だけではない。仏教学・医学・芸能といった寺院に欠かせない技術・知識も飛鳥寺で維持され、普及の拠点となっていた〔…〕飛鳥寺はまさに「文明化の総合センター」であり、蘇我氏の政治路線を十全に実現するための装置でもあった。』

吉川真司『飛鳥の都』,pp.8-11.  

 

『しかし、ここで仏教が祖先崇拝に結びつけられたことに注意すべきであろう。日本人は、このおそらくは本来、祖先崇拝とは関係ないはずの仏教をすでにこの時、祖先崇拝の教えに還元しようとしているのである。』

梅原猛『聖徳太子 2』,pp.98-99.  

 

 

 蘇我氏の導入した仏教が「護国仏教」であり、「王権を中心とする政治秩序」と深く関わるものであったことは、中国(北朝、)と高句麗百済から仏教を導入する以上、当然のことだったと言えます。これらの国々で仏教は、単なる宗教から “統治イデオロギー” に組みなおされていたのです。そのことを端的に表しているのが、華北の「雲崗」「龍門」の摩崖仏↓です。これらの巨大な仏像は、歴代皇帝の似姿として造られました。造営した「北魏」王朝の支配層が北方遊牧民(鮮卑族)から漢人風に風俗を改めるにしたがって、摩崖仏の服装も中国風に変ってゆくのです(梅原猛『聖徳太子3』,pp.24-27)。これらの国々で、「仏」とは、皇帝のことだった。

 

 

雲崗・第20窟 北魏・初代・道武帝の似像と言われる。

「建国の英雄」にふさわしい堂々たる風貌。戦士の服装。

 

雲崗・第16窟・摩崖仏 北魏・第4代・文成帝の似像と言われる。

すっかり漢人の服装になり、表情も文人風で穏やか。

 

 

 しかし、インドの仏教に本来は含まれていなかった「祖先崇拝」を仏教に混入させたばかりか、仏教の教えと儀式の意味を変質させて、ほとんどまるごと「祖先崇拝に還元」してしまったことは、日本仏教の大きな特質だと言えます。

 

 「祖先崇拝」の混入は、すでに中国仏教で起きていますが、日本に伝わってから、それは著しく高まったのです。仏教を「祖先崇拝」のなかに解消してしまおうとする・この傾向は、馬子推古が推進した方向と見てよいでしょう。しかしそれは、聖徳太子の仏教にも影響を及ぼしています。太子は《第Ⅱ期》の初めに仏教の講義を行ないますが、最初に取り上げたのが、「祖先崇拝」を賞揚する『勝鬘経(しょうまんぎょう)』です(梅原猛『聖徳太子3』,pp.206-220)。『勝鬘経』は、もともとのインドにはない経典で、中国で作られた “偽経” とされるものです。推古天皇は、飛鳥で行われた太子の「勝鬘経講義」を聞いていたく感動し、「播磨国の水田百町」を下付しています。太子は、これを財源として法隆寺を建立するのです。こうして、彼らの仏教理解は、日本独自の仏教が作られてゆく方向を定めたと言えます。現在でも、私たちは「お寺」といえば専ら、祖先や死んだ家族を弔う場所と心得ています。本来は宗教の場であるはずの寺院が、葬儀下請け業と墓地分譲不動産業に堕してしまっている現状を嘆く仏教者は多いでしょう。そうなってしまったおおもとは、良くも悪くも、聖徳太子と蘇我氏にあるのです。

 

 しかしそればかりではなく、このように変換された「護国仏教」の導入によって、「王権を中心とする政治秩序」もまた、天皇家と臣下の「家」の祖先崇拝と、強く結びつくことになります。以後 1400年余り、「万世一系」の血統が実現してしまった原因の一つが、ここにあるのかもしれません。

 

 

 

【13】《第Ⅰ期》 593-602 前代外交の継続と失敗

 

 

 600年に、「倭国」初めての遣使が、文帝に謁見しています。紀元後57年に北九州の「奴国」が後漢・光武帝に朝貢して以来、2世紀初めの「倭国王帥升」、3世紀の「卑弥呼女王」など、中国に使節を送った「倭」諸国の王は少なくなかったのですが、478年に「倭国王・」(雄略天皇か?)が南朝のに朝貢して以来、「倭国」から中国には使いを送っていなかったのです。

 

 したがって、600年の遣隋使は、122年ぶりの朝貢となるのですが、この遣使を中国の『隋書』は詳しく記録しているのに、『日本書紀』はまったく沈黙しています。『日本書紀』の完黙の理由は何か? おそらく、この遣隋使の文帝との謁見が、「倭国」にとってきわめて不名誉な結果に終わったせいだと思われます。

 

 倭国の使いは国書を持参していなかったようです。遣わした倭国王の名は「アメ・タリシヒコ・オホキミ」だと言う。文帝が役人を通じて「風俗」を尋ねたところ、使いは、「倭王は天を兄とし、太陽を弟とします。夜明け前に結跏趺坐(けっかふざ。座禅の姿勢。足を組んで足の裏を見せて座る)して政務を聴き、夜が明けると政務をやめ、弟である太陽に任せます。」と言う。文帝は、「それは道理に合わない。」と言って、政治のやり方を改めさせた、と。

 

 「倭国」の過去の朝貢は、「都督・倭・新羅・任那・加羅・安東大将軍」といった爵位をもらって、国内と朝鮮諸国に権威を示す目的がありました。例外なく爵位をもらっています。これが、冊封体制にしたがって朝貢することの意味にほかなりません。ところが、文帝は、「そんな政治のしかたはだめだ」と言って、爵位を与えなかったのです。

 

 倭国の使いが、爵位をもらえるつもりで謁見したのはまちがえないと思います。倭王が女性であることがわかると爵位をもらえないかもしれないと思って、男性名の「~ヒコ」を名乗っています。「弟の太陽」というのが聖徳太子で、じっさいに推古天皇は夜明け前の神事を担当していたのでしょう。しかし、それが「道理に合わない」と言われて、冊封を拒否されてしまったのです。

 

 国書も持参していないといった経緯から考えて、この時の遣隋使は単独ではなく、高句麗の使節に連れられて行った可能性があります。高句麗としては、倭国が朝鮮諸国を監督するような爵位をもらってしまったら、百済新羅を刺激することになって不穏当ですから、避けたいところです。それでも連れて行った目的は、の宮室に余興を提供して楽しませるためだったと私は思います。

 

 のちの遣唐使の時ですが、ヤマト王権も、エゾの人を連れて行って、余興にしたことがあります(659年。『日本書紀』斉明天皇紀)。「この人たちは、深山の樹の穴に住み、肉を食らって生活しています。」などと説明すると、の皇帝(高宗)は、「朕、蝦夷の身面(むくろ・かを)の異(い)なるを見て、極理(きはま)りて喜び怪しむ」と言って面白がっています(高橋崇『蝦夷(えみし)』,1986,中公新書,pp.4-9)。つまり、野蛮人の見世物です。文帝の役人も、そのつもりで、倭人の「風俗は?」と尋ねています。倭国の政治を聞くつもりなど最初からなかった。爵位を与えられるような文明国だとは、最初から思っていないのです。

 

 この最初の遣隋使が高句麗の誘いによったのか、厩戸皇子の発案だったのかは判りませんが、厩戸としても、先生の慧慈法師から文明国中国の国家体制について聞くにつけ、ぜひとも朝貢使を復活してに学ばなければならないと考えたことでしょう。その結果が不首尾に終ったことは、それまで、馬子推古慧慈ら年長者に諾々と従っていた厩戸を奮起させた可能性があります。

 

 厩戸皇子は、翌601年に「斑鳩(いかるが)」の造営を始めています。「斑鳩宮」の造営は、蘇我氏と推古の本拠地である飛鳥からかなり離れた場所に、独自の根拠地を造ることを意味します。根拠地を造ることは、独自の政治集団――のちの「上宮(じょうぐう)王家」――を創設することにほかなりません。よわい 27歳にして厩戸は、政治的自立を志向しはじめたのです。


 

 

飛鳥・甘樫丘から、「斑鳩」法隆寺方面を望む。遠いことがわかる。

「斑鳩」は、遠方の平らな丘の麓。手前の森は「雷(いかづち)の丘」。

 

 

 「斑鳩宮」は、現在の法隆寺・夢殿の位置にありました。それにしても、なぜこんなに遠くにしたのでしょう。「斑鳩宮」から飛鳥(当時の推古の王宮である「豊浦宮」)まで、直線距離で約16.2km あります。馬の「常歩(なみあし)」で3時間かかります。当時は直線の整備された道などありませんから、もっとかかったはずです。聖徳太子斑鳩を選んだ理由について、人びとはふつう、ヤマト・飛鳥から、港のある難波に向かう交通の要衝だった、ということを挙げます。しかし、「摂政」である太子が毎日のように王宮に通うことを考えれば、この距離は長すぎるように思われます。

 

 私は、太子が斑鳩に根拠地を建設したのは、母である間人皇后(穴穂部皇女)の意向が大きかったと考えます。斑鳩には、穴穂部皇女の亡き同母兄・穴穂部皇子が眠る「藤ノ木古墳」があるからです。間人(はしひと)皇后は、政争の不当な犠牲者として悲惨な最期を遂げた亡き兄のそばにいたいと、強く願ったにちがいありません。厩戸も、仏教導入の純真な先覚者であった穴穂部皇子を犠牲にして、自らが宗教戦争に勝利した経緯を、乱から日が経つにつれ、忸怩たる思いで振り返ったろうと思うのです。純粋そのものだった叔父穴穂部皇子を忘れないためには、毎日6時間の道のりなど何でもない!‥私が日々の行動を通じて、身をもって、馬子推古に、穴穂部皇子殺害の反省の機会を与えてやろうではないか!‥‥厩戸は、そう念じていたのではないでしょうか?

 

 翌602年、推古政権は、来目皇子を司令官とする新羅遠征軍を、2万5000名という大軍で組織し、北九州に集結させています。に授爵を拒絶されてしまったから、もう武力しかない、ということなのでしょうか? しかし、来目皇子は病気にかかって現地で死亡し、かわりに任命した当麻(たいま)皇子も、妻の死去を理由に降りてしまいます。こうして、「新羅遠征」は、海を越えることなく 603年に中止されるのです。崇峻天皇が始め、推古天皇下の 595年に中止された「新羅遠征」と、まったく同じ経過をたどったことになります。

 

 朝貢の失敗。そして、前回とまったく同じ頓挫を繰り返す外征。馬子の指導する推古政権の対外政策は、どうしようもなく行き詰ってしまいました。

 

 こうして、《第Ⅱ期》には、この難局を打開すべく、厩戸皇子独自の外交政策が華々しく展開されることとなるのです。

 

 

「卑弥呼女王の墓」との説もある箸墓古墳。桜井市大字箸中。

 

 

 

 

【14】《おまけ》 「斑鳩」を詠んだ万葉歌

 

 

『斑鳩の 因可(よるか)の池の宜しくも 君を言はねば 思ひぞわがする』

『万葉集』3019-3023 現代語訳

 

「斑鳩のヨルカの池の名のように、あなたを良く言う人がいないので、悲しい物思いにふけってしまうのです。」

 

 

 『万葉集』で「斑鳩」を詠みこんだ歌は、「詠み人識らず」の・これ1首だけだそうです。「君」とは誰なのか? 古代の語義では、詠み人と同等か、詠み人よりも身分の高い男性――ということになるでしょう。「宜しくも君を言はねば」(世間の人は、あなたを良く言わない)――ということからすると、聖徳太子のような人ではないことがわかります。「君」とは、斑鳩に葬られた穴穂部皇子ではないか? 後世の人が穴穂部の鎮魂のために詠んだ歌ではないか? ‥‥「藤ノ木古墳」が現代まで盗掘されずに来たのは、つねに誰かが、この陵墓を護ってきたからなのです。しかし、それがどんな人びとなのかは永久に知られることがない。決してお寺にも神社にもされず、由緒が記録されることさえない墓でありつづけてきました。‥‥という思いから勝手に解釈した現代語訳↑です。

 

 この歌は、『万葉集』「巻12 相聞」に収録され、3019番から 3023番までが、「物に寄せて思ひを陳ぶ」という題で、ひとつづきになっています。前後を含めて解釈してみましょう。通常の「相聞歌」の解釈とは、だいぶ懸け離れてしまいますが、穴穂部を慕う後世の人びと――いったいどんな人びと?――の深い想いが伝わってくるようです。訳の[ ]内は枕詞で、( )内は序詞(じょことば)――いずれも歌ごころを導くための風景イメージで、歌の内容とは無関係な、いわば幻想:

 

 

『洗ひ衣(きぬ) 取替河(とりかひがは)の 河淀の 淀まむ心 思ひかねつも』#3019

 

「[急いで着物を洗ったらほころんでしまったので、一部の布切れを取り替えて縫い直さなければならない。面倒なことになってしまった](その「取替え」ではないけれど、鳥飼川の川淀のように)淀んだ心で、来世を過ごしていらっしゃることでしょう。まるで横着な洗濯人のように、いにしえの人びとがあなたを大事にしなかったことが悔やまれます。そのことを思うと、私は悲しくて耐えられないのです。」――「洗ひ衣・取替河」について⇒:加藤良平「万葉集における洗濯の歌」

 

『斑鳩の 因可(よるか)の池の宜しくも 君を言はねば 思ひぞわがする』#3020

 

「(イカルガのヨルガの池が、不吉な名で呼ばれているように)、あなたを良く言う人がいないので、悲しい物思いにふけってしまうのです。」

 

『隠(こも)り沼(ぬ)の 下ゆは恋ひむ いちしろく 人の知るべく 嘆きせめやも』#3021

 

「[流れ出す出口のない沼のように]人知れずこっそりと、あなたを慕っていようと思います。人に気づかれるほどはっきりと、あなたの不幸を世間に訴えたりはしますまい。そんなことをしたって、あなたも、また、あなたと同じように世間に疎んじられている私たちも、けっして世に容れられることはないのですから。」

 

『行くへ無(な)み 隠(こも)れる小沼(おぬ)の 下思(したも)ひに 我(あれ)ぞ物思(ものも)ふ このころの間(あひだ)#3022

 

「(流れ行くあてもなく閉ざされた小さな沼のように)ひっそりと、私は、秘かな悲しい思いでいっぱいです。このごろは、ずっとそういう気持ちでいるのです。」

 

『隠(こも)り沼(ぬ)の 下ゆは恋ひ余り 白波の いちしろく出でぬ 人の知るべく』#3023

 

「[出口のない沼のように]人知れずあなたを思い慕う気持ちが溢れ出て、まるで水面の白波のようにはっきりと表れてしまい、私たちの行動は世間に知られてしまいそうです。どうしたらよいのでしょう?」

 

 

 

 

 

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