小説・詩ランキング


「上之宮遺跡」復元石組遺構。桜井市大字上之宮387付近。

発掘により、建物群と園池を含む方約100mの居館遺構が

確認された。聖徳太子の生地「上つ宮」とも考えられる。

 


崇峻天皇殺害の最後のキー・ストーン。崇峻

在位わずか4年で、ゴミのようにポイ捨てされ

なければならなかった決定的理由は何か?

「この天皇を、いつかは除かなければならない」

それは馬子にとって既定事項だったが、

「いま、すぐに」実行された動機とは?

 

 

 

 

 

 

【8】 なぜ天皇ではないのか?

 

 

 厩戸(うまやと)皇子、つまり聖徳太子は、つぎの事績をなしとげたと言われています(年代は西暦、月は旧暦表示)。

 

  • 587年7月 蘇我馬子とともに排仏派・物部守屋を攻めて勝利。その際、四天王に戦勝を祈り、乱後に四天王寺を建立(587? 593? - 607?)。
  • 593年4月 摂政に即位。
  • 594年2月 「三宝(仏教)興隆の詔」を布告(厩戸皇子が起草か)。
  • 595年 新羅遠征軍を北九州から引き揚げる。高句麗僧・慧慈を師として迎え、仏法との官制を学ぶ。
  • 596年 伊予国湯岡(現・道後温泉)に湯治記念碑を建てる。
  • 600年 高句麗とともにに朝貢するが(最初の遣隋使)、「政治のしかたを改めよ」と文帝に叱責され、爵位を受けられず。
  • 601年2月 斑鳩(いかるが)を造営(-605年10月)。
  • 602年 百済僧・観勒を迎え、書生らにを教授させる。2月、来目皇子を将軍として新羅派遣軍2万5千名を北九州に集結。
  • 603年7月 新羅遠征を中止、派遣軍を北九州から引き揚げる。10月、王宮を「豊浦宮」から「小墾田(おはりた)」に移す。12月、「官位十二階」を制定。
  • 604年4月 「十七条憲法」を制定。
  • 606年5月 鞍作止利(くらつくり・の・とり)に命じて「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)を造らせ、法興寺(飛鳥寺)に安置(609年4月)。7月、橘寺?で「勝鬘経(しょうまんぎょう)」を講義。斑鳩・岡本宮(現・法起寺)?で「法華経」を講義。(→615年までに「勝鬘経」「法華経」「維摩経」の各『義疏』を著作)
  • 607年 法隆寺(斑鳩寺)を建立。屯倉(みやけ)を各地に設置し、藤原池などの溜池を造成し、山城国に「大溝」を掘る。
  • 607年7月 小野妹子らを遣隋使として派遣し、煬帝に国書を呈す。
  • 608年8月 の答礼使裴世清を迎えて歓待する。9月、高向玄理らを遣隋使として派遣。多数の留学生・留学僧をに送る。
  • 610年3月 高句麗僧・曇徴(絵具・紙・墨・碾磑の製法を伝える)を迎える。
  • 611年 新羅、「任那の使い」とともに倭国に朝貢。
  • 612年 百済の楽人・味摩之を迎え、少年らに伎楽を教授させる。
  • 613年 畝傍池ほかの溜池を造成し、難波から「小墾田宮」まで、最初の官道「横つ道」を開鑿。
  • 614年6月 犬上御田鍬らを遣隋使として派遣。
  • 620年 『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂。
  • 622年2月 没。

 

 これらがすべて聖徳太子の功績だとすると、仏教と大陸文化を導入して、日本古代国家の基礎を創ったのは太子、‥‥いやそれどころか、そもそも日本という国が今日この姿であるのは、――良くも悪くも――太子が定めた方向に人びとが進んできたからだ、とさえ言えるかもしれません。

 

 もちろんそれを疑問視する見解も、昔から有力に主張されています。聖徳太子に関しては、神か仏陀のように崇拝する人がいるかと思えば(主に仏教系)、無類の極悪人として糾弾する人もいる(主に国学・神道系)。最も過激な見解は、「聖徳太子は存在しなかった」というものです。「不存在」と言っても、「厩戸」という王子がいたことは認めたうえで、「厩戸」の事績とされるものはすべて、後世の人のこじつけか作り話だとするのです。しかし、これらの “批判的” 見解のほうに、私はむしろ疑問を持たざるを得ません。「太子の事績」とされることがらが、他の人のしたことだったり、そもそも存在しないウソだったりするのであれば、その結果として、当時の歴史の流れはどのようになるのか? それは、『日本書紀』などが描く歴史と、どこがどう異なるのか? ‥‥そこにこそ議論の意味があるはずです。しかし、「聖徳太子」を否定する論者は、史料を詮索して、あれは違う、これもウソだ、と言うだけで、その結果として、当時がどんな歴史であり、社会であったか、ということは語ろうとしない。これでは、まったく意味がないのです。

 

 そういうわけで、私は史料の詮索には関心がない。そんなことに足を取られるよりも、「聖徳太子」であろうと無かろうと、その時代がどういう時代で、どういう歴史の流れであったのか、ということに関心を集中したいのです。そこで、この記事では、「10人の話を同時に聴き取った」といった伝説的な話以外、「聖徳太子の事績」はすべてそのまま事実として、いちおう受け入れておきたいと思います。

 

 しかし、そのようにポジティブな立場に立った場合、私はひとつの大きな疑問に逢着せざるを得ないのです。

 

 それは、「これほどの大業を成し遂げた人が、どうして天皇ではないのか?」「天皇になれなかったのは、なぜなのか?」という疑問です。「業績と実力」だけではありません。厩戸皇子は、用明天皇と間人皇女のあいだに生まれた長男です。つまり、当時のいわゆる「直系」皇子であって、もっとも天皇にふさわしい血統です。非皇族の蘇我氏の娘である推古などよりは、ずっと天皇にふさわしい血すじなのです。

 

 592年11月、蘇我馬子崇峻天皇を宮廷で暗殺した後、12月に推古天皇が即位し、翌593年4月に厩戸皇子が摂政に即位しています。厩戸はまだ未成年だったので、推古が即位して厩戸は摂政になったのだ、と言われています。しかし、それはちょっとおかしくないか?

 

 ふつう「摂政」といえば、天皇がまだ幼い場合に天皇の代わりに政治を執る人のことです。「まだ幼いから天皇にはしないで、摂政にする」というのでは逆ではないか?! ‥‥たしかに、皇太子が「摂政」になった例は、近代にあります。大正天皇が発狂して「政務を執れない」とされたので、皇太子だった昭和天皇が「摂政」になっています。しかしそれは、天皇が発狂するという異常なケースでのこと。べつに、推古は発狂したわけではありません。「女だから政権担当能力がない」と言うのであれば、そもそも彼女を天皇にしないで、厩戸を天皇にして、厩戸が成人するまで蘇我馬子か誰かが摂政をすればよいこと。それが常道であるはずです。

 

 しかも、このあと考証しますが、推古が即位した時に、厩戸は満18歳ないし19歳でした。たった1年かそこら、誰かに摂政をさせるだけでよい。みずから摂政になって天皇に代って政治を執るほどの能力のある厩戸が、天皇になれない理由はなかったはずです。

 

 ところが、事実は、それと逆のことが行われた。わずか1年かそこらのタイムラグを理由に厩戸の天皇即位を断念して、推古を即位させ、その推古が長生きしたために、先に死んだ厩戸は天皇になれなかった、当時はまだ生前譲位の習慣がなかったから仕方なかったのだ、と日本史学者は言うのです。この説明、根本的におかしくないでしょうか? 日本だけでなく中国にも朝鮮にもそれまでに例のなかった「女帝」、また、日本では史上初めての「摂政」。この2つの「初めて」を断行するのと、「譲位」という中国にも朝鮮にも先例のある習慣を導入するのと、いったいどちらが容易なのでしょうか?!

 

 「どうしても厩戸を天皇にはしたくない。」と思っている人たちがいた―――そう考えるほかに、「推古→天皇。厩戸→摂政」というこの事態は、説明がつかないと思うのです。。。。

 

 

 

飛鳥寺(法興寺) 発掘の結果、創建当時の伽藍は、このカメラの位置から、

正面に見える現・飛鳥寺の背後まで広がっていたことが判明している。

現・大仏堂(正面の破風建物)の位置に「中金堂」があり、

その手前に「塔」、左・画面端に「西金堂」、右方に「東金堂」、

撮影者の足元に「南門」――の各遺構が出土している。

 

 

 

【9】 「キャスティング・ボード」を握った「女マキャベリ」

 

 

 厩戸皇子の年齢が問題になるので、生まれた年を考証しておく必要があります。厩戸の生年については、572年、573年、574年という3つの説があって、574年説が日本史学会の通説だそうです(梅原猛『聖徳太子1』,pp.182-184)。『日本書紀』には厩戸の生年も正確な年齢も記されていません。ほかの史料では、574年とするものが多いのです。

 

 574年生まれとすると、崇峻暗殺の 592年には満18歳、数えで19歳です。573年説だと、数え20歳、572年説では 21歳となって、「未成年だから即位しなかった」という説明は根拠を失うことになります。ここでは 574年説を採っておきましょう。

 

 ところで、当時のヤマトでは、天皇が亡くなるとすぐに次の天皇が即位したのでしょうか? かならずしも、そうではありません。587年5月に用明天皇が崩御した時、次の天皇をだれにするかが決まらないまま「蘇我-物部戦争」に突入し、戦後の 9月に初めて崇峻天皇が即位しています。だとすると、崇峻天皇(592年11月暗殺)の後も、たった2か月待っていれば厩戸皇子が数え20歳になるのですから、待って翌年1月に厩戸を天皇に即位させてもよかったはずです。‥‥にもかかわらず、まるで厩戸の成人前に既成事実を作ってしまおうとするかのように、推古天皇が 12月に即位しているのです!

 

 そこから、重大な疑いが提起されます。そもそも崇峻の暗殺は、厩戸を天皇にさせないために急いだのではないか?‥‥と。

 

 「もしも今すぐに崇峻を暗殺して次の天皇を即位させてしまわなければ、あと2か月で厩戸が成人してしまう。そうなったら、群臣の協議は圧倒的に厩戸を推すことになる。そうなってからでは遅い!」――馬子は、そう考えたのでしょうか? あるいは、推古が?‥

 

 当時、誰を天皇にするかは、前天皇崩御の後の群臣の協議で決められていました。前天皇に指名権はなく、たとえ事前に皇太子を決めておいても、皇太子が天皇になるとも限らなかったのです。蘇我馬子がいかに絶大な権力を握っていようとも、「群臣の協議」という手続きを経なければ、天皇を決められないのです。

 

 しかも、馬子は皇族ではなく、身分はあくまでも臣下です。馬子穴穂部皇子宅部皇子を殺害した時には、皇女であり前皇后である推古を「奉じて」はじめて、皇族殺害をなしえたのです。崇峻殺害も、『日本書紀』が馬子単独で決めたかのように書いているのは、推古に天皇殺害の罪を着せないためで、事実は馬子推古の共謀だったかもしれない。推古は日本最初の女帝で、それまでは、中国にも朝鮮諸国にも「女帝」「女王」は前例がありませんでした。『魏志・倭人伝』の伝える「卑弥呼女王」と娘「壱与」が唯一の不確かな先例だったのです。“史上初めての女帝” に即位するという大胆な行為が、本人の野心無くして可能だったとは、私は思いません。推古は、夫であった敏達天皇の亡き後も馬子と組むことによって権力を維持し続け、次の用明天皇のキサキ・間人(はしひと)皇后厩戸皇子の母)などは、まったく権限を持ちえなかったほどでした。そして、自分の子である竹田皇子を何としてでも皇位に就けたい、がまだ幼少で無理ならば、息子が成人するまでは自分が天皇になって居よう……そう考えたはずです。

 

 馬子はともかく、推古のほうは、厩戸はどうしても天皇にしたくないと思っていたにちがいない。なぜなら、厩戸は間人皇后の子だからです。推古は、女同士のライバルである間人皇后には、どうしても負けたくなかったのです。女性一般について言うつもりはありませんが、権力慾の強い女性の右脳思考は、個人的な好悪感情に左右されやすいのです。現代の例は、名指すまでもないほど多数です。

 

 他方、蘇我馬子のほうは、厩戸の血統の良さはもちろん、政治家としての天分を認めていたと思います。マキャベリストであり、すぐれた現実政治家であった馬子は、この国の皇子たちが、どれもこれも、子供のように政治音痴で、国の将来をゆだねるに足りないことを憂えていたと思います。そのなかで、厩戸だけは見どころがある、上手に育ててやれば、リアルな政治家になるかもしれないと、希望を託していた可能性があります。

 

 ただ、その馬子とて、こと皇位に関しては自分の意見を押し通せないのです。誰か皇族を味方にしなければ、群臣の賛同を集めることができません。馬子は、どうしても推古を味方にする必要があった。彼女の野心を利用しなければならなかった。そこで馬子が考え出した「妥協策」が、「推古天皇、厩戸摂政」という折衷案だったのだと思います。

 

 ただし、この折衷案は、厩戸が成人してしまったら実現できなくなる。もしも厩戸が天皇になってしまったら、推古の出番はなくなる。息子を天皇にする機会も奪われた推古は、馬子から離れてゆくだろう。――だから馬子は、崇峻暗殺を急いだのです。

 

 

 

【10】 聖徳太子が帯びた「暗い翳」

 

 

 天皇となるに十分な血すじも資質もそなえていながら、決して天皇にはなれない運命――若いうちこそ、「摂政」という・与えられた職務をこなすのに懸命だった厩戸皇子も、齢を重ね人生経験を積むにしたがって、自分を取り巻くマキャベリズムの狡猾な罠に気づいていったにちがいありません。その自覚が、彼の行動に影を落としていったことは、想像に難くない。


 

  

飛鳥寺・金銅釈迦如来坐像 (飛鳥大仏) 止利仏師・作。

最近の金属分析の結果、頭部全体が創建当時のものと推定される。

聖徳太子の似顔として造られたという(梅原猛説)

 

 

 「聖徳太子」の治世は、3つの時期に分けて見ることができます。《第Ⅰ期》は、「摂政」即位(593年)から、「新羅侵攻軍」を北九州に集結させる(602年)まで。この期間は、基本的に前代の政策の延長。外交は、高句麗百済に追随しながら新羅を敵視。内政は「箱もの」(立派な建物。中身は二の次)中心の仏教振興策。馬子の政策基調そのままです。馬子推古と蘇我氏一派の意見が幅を利かせ、厩戸はそれに従って具体的な細目を決めたり、臣下のあいだの意見の違いを調整したりしていたのでしょう。

 

 《第Ⅱ期》――「新羅遠征」中止(603年)から、新羅の「倭国朝貢」(611年)まで――。内政では、「十七条憲法」をはじめとする画期的な文明化政策、大陸文明を受容しうるだけの精神的基盤を構築する “中身の建設” を次々と打ち出します。そして、中国中心の「冊封体制」からの独立をに認めさせた・大胆な独自外交路線。ヤマトの人びとに、「厩戸外交」の輝かしい勝利を印象付けたのは、611年に訪れた新羅からの「朝貢」使でした。太子独自の政策が華々しく展開された時期と言ってよい。

 

 ところが、612年、の煬帝が高句麗に侵攻を開始し、以後 614年まで3次にわたる隋-高句麗戦争で、太子の外交路線は破綻したかに見えました。太子の政策は、高句麗をはじめとする諸国を、が “有徳の文明国” として支配する秩序に支えられていたからです。煬帝の暴力的侵攻は、自らの支配の正当性を破壊するものであったのです。しかも、高句麗の根強い抵抗に遭っての国力は衰え、618年、は滅亡。もはや太子は、推古天皇と馬子の信任を得られなくなったことでしょう。こうして《第Ⅲ期》――612年から622年死去まで――には、太子は政治に関心も自信も失って「斑鳩宮」に引きこもり、著作に専念するのです。

 


 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらは自撮り写真帖⇒:
ギトンの Galerie de Tableau