藤ノ木古墳出土 金冠 6世紀後半 (レプリカ) この鳥と樹木の意匠は、
クシャン朝バクトリアから旧約聖書「生命の樹」にまで遡る。
いったいどんな経路で「倭国」まで伝えられたのか?
【1】で示したように、蘇我馬子(うまこ)は、この国最初のマキャベリストであり
すぐれた現実政治家だった。彼に比すべき後代の政治家といえば、
源頼朝と徳川家康くらいしかいないのではないだろうか。
馬子にとって仏教は、信仰である以上に政治の道具であり
「諸臣と人民(おほみたから)」の支配を容易にするイデオロギーだった。
馬子は、大陸諸国から “文明国のマキャベリズム” を
学び取る一方で、この島国特有の政治風土を十分に心得ていた。
トップダウンの “指令→実行” を嫌い、なにごとも上下周囲に相談して
曖昧な情緒の中で衆議を一致させて事にあたることを好む。
そこで彼が用いた政治手法は、「多数派工作」と「各個撃破」だった。
集団をなす政敵をたがいに争わせて分断し、「多数派工作」によって
孤立させ、ひとりを亡ぼすと、また分断工作を組みなおして、
次の一人を孤立させ、亡ぼしてゆく。そして、自身はつねに
“陰の司令塔” となって、目立たないようにする。
敏達朝の “排仏令” のもとで逼塞し、反撃の機会をうかがっていた
馬子にとって、ヤマト王権を支える主要な豪族たち
――物部氏、中臣氏、三輪氏、大伴氏、…――は、
じつのところみな敵だったが、肝心の皇族も、馬子にとっては
十分に信頼できるとは言いかねた。すでに一世紀以上にわたって
君臨し、諸国と「倭国」の覇権を争った先祖の気概を忘れ、
群臣にかしづかれて何不自由なく育った皇子たちには、
ヤマトの政治慣習も、大陸のマキャベリズムも、
まったく頭に入らなかった。それは、「外戚」蘇我氏の
血を享けた皇子たちにしても同じだったのだ。
この時代、「天皇」というコトバはまだ無かった。「日本」という国号も、
「皇族」「皇子」「皇女」「(皇)太子」等々の言葉もない。それらが
存在したのは、天智朝(668-672)以後のことだ。
いま問題にしている 6世紀~7世紀前半には、「天皇」のことは
「タリシヒコ」「おほきみ」と言った(梅原猛『聖徳太子 2』,p.155; 『ヤマト王権』,p.62)。
(『古事記』神話の「アマテラス」は「アマ・タリシ・ヒコ」と同語源かもしれない)
600年に隋に朝貢した「倭国」の使いがそう報告したと
『隋書』に書かれているし、『日本書紀』でも確認できる。
しかも「王(きみ)」「大王(おほきみ)」は、天皇・皇族の区別なく使われる
呼称だったようだ(たとえば、「額田王(ぬかたのおほきみ)」)。ただし、
この記事では、あくまで便宜上「天皇」「皇子(おうじ)」「皇女」などの呼称を
もちいることにする。なお、「崇峻天皇」「聖徳太子」等は、死後に
生前の業績を讃えて付けられる「諡号(しごう、おくりな)」であって、
生前に、そう呼ばれたわけではない。
(死後すぐにでもない。「崇峻天皇」は、奈良時代の『日本書紀』編集時に
皇統を整えて見せるために、はじめて贈られた諡号だ。)
29代・欽明天皇は、1人の后(きさき)、5人の妃(みめ。下位のキサキ)
とのあいだに、公認されただけで 25人の皇子・皇女を設けた。
「これだけいたからには、対立が生ずるのは当然である。」
と、梅原猛氏は言う。
皇子たちは、「腹違い」であればもちろん、たとえ同母の兄弟
であっても、ひとつの皇位をめぐって争う敵同士だった。
これに、母であるキサキ・ミメのあいだの思惑と嫉妬がからんで、
ヤマトの皇族社会は、複雑な抗争状況を呈した。
【3】 「直系」の皇子と「傍系」の皇子
天皇となるにふさわしいのは、どんな人だろう? 王者としての貫禄、政治的力量、臣下から信頼される人柄、…… そういった資質だろうか? たしかに、蘇我馬子は、そう考えていたかもしれない。しかし、この時代の常識は、そうではなかった。常識によれば、何よりも「血すじの純潔さ」が重要だった。したがって、天皇と皇女(天皇の娘)の間に生まれた子が、もっとも天皇にふさわしかったのだ。こういう、もっとも「天皇の血」が濃い続柄を、「直系」と言った。
この、「直系」優先の原則をあてはめてみると、↑上図のように、26代・継体天皇から →29代・欽明天皇 →30代・敏達天皇 までは、理想的な代替わりが実現している。継体天皇と手白香皇女の間に生まれたのが欽明天皇、欽明天皇と石姫皇女の間に生まれたのが敏達天皇だ。とちゅう、安閑天皇と宣化天皇は傍系を経由しているが、これは、欽明天皇が成人するまでの中つなぎと思われる。天皇の即位は 20歳を過ぎてから、という不文律があったようだ。なぜなら、当時の天皇は政治的権力者だった。臣下の提案を聞いて、「そうしろ」とか「それはやめておけ」とか、決裁しなければならない。臣下の間で意見が対立したときは、「よく話し合え」とか、「おまえが譲ったらどうか」とか言わなければならない。まちがっても、「こうしろ」などと独断してはならない。「ヤマトのしきたり」を十分にわきまえていなければ、天皇は務まらないのだ。
問題は、敏達天皇の後だ。ここで竹田皇子が即位すれば、理想的な皇統が続いたはずだった(あくまでも、血すじに関して)。ところが、敏達のあと、皇子の成人を待って、→用明→崇峻→推古 と、蘇我氏系の傍系天皇が代替わりしているうち、推古天皇が長生きしたので(満74歳)、竹田皇子のほうが先に死んでしまった。当時はまだ、生前退位という習慣がなかったのだ。推古天皇が亡くなる時には、もう「直系」の皇子は一人も残っていなかったので、誰が次の天皇になるか、基準がないことになって、熾烈な継承争いが起きる。7世紀のヤマト宮廷では4回のクーデターが起きているが、皇位継承もひとつの原因となっている。
しかし、7世紀に入ってしまうのは、まだ早い。欽明天皇に時間を戻そう。欽明の子どもたちを中心に系図を書くと、↓つぎのようになる。
梅原猛『聖徳太子 1』,p.188. から作成。
欽明天皇を中央に置いて、左側は皇族のキサキとその子どもたち、右側は臣下のキサキとその子どもたち。臣下のキサキは、蘇我稲目(いなめ)の娘たち――「堅塩媛」と「小姉君」――が圧倒的に欽明の寵愛を受けていたことがわかる。なかでも「堅塩媛(きたしひめ)」は 13人の皇子・皇女を産んでいる。ほとんどみな年子ではなかろうか。よほど身体が頑丈で、しかも容色衰えない若々しい女性だったのだろうか。
「堅塩媛」と「小姉君(おあねのきみ)」。子どもの数が欽明の寵愛の程度を反映しているのだとすると、圧倒的に「堅塩媛」の勝ちだ。馬子も、上の姉「堅塩媛」をエコヒイキしていたように思える。「堅塩媛」系からは2人の天皇を推戴しているが、「小姉君」系からは崇峻ひとりだけ、しかも在位わずか4年で殺してしまうのだ。
じつは、「小姉君」系の皇子・皇女は、日陰におかれていたせいかどうかは分からないが、事績を調べてみると、みなどこか常軌を逸したところがある。
まず、茨城(うまらき)皇子ですが、この人は若い時に、伊勢大神に仕える巫女だった磐隈皇女を犯しています。伊勢大神の巫女は処女でなければならないのですから、磐隈皇女(「堅塩媛」系の第2子)は、この事件で解任されています。茨城皇子のほうは処罰はされなかったようですが、こんな前歴があったら皇位継承レースからは脱落です。
葛城皇子の事績は伝わっていません。若くして亡くなったようです。
次の泥部穴穂部(あなほべ)皇女は、用明天皇の后(きさき)になり、厩戸皇子(聖徳太子)を生んでいます。奇怪なのは「泥部」という名前です。『日本書紀』は、これを「はしひと」と読ませています。「愛(は)し人」で、恋人という意味でしょう。「泥部」と「愛人」、いったいどういう関係があるのでしょう?! 用明の皇后としての名前は、「穴穂部間人皇后」。こちらの「間人」も「はしひと」と読みます。用明が亡くなった後で、用明の腹違いの子・田目皇子との間に、佐富女王という皇女を設けています。腹違いとはいえ息子と結婚しているわけで、つまり “父子どんぶり”。いくら皇族は近親婚が多いといっても、これはタブー違反だったでしょう。
穴穂部皇女の近親婚は、それだけではありません。すぐ下の弟は、泥部穴穂部皇子。なぜか、姉とそっくりの名前です。「穴穂宮」の所在地だったという伝承は、大津市穴太(あのう)、天理市、伊賀市の3か所にありますが、いずれかの「穴穂宮」で、この姉弟はいっしょに育てられたようです。いつもいっしょで、どこへ行くのも一緒、一心同体のような姉弟だったのでしょう。そして、「はしひと(愛人)」という名前です。からだの関係を想像しても、勘ぐりすぎではないでしょう。同母姉弟の恋人関係は、もちろんタブー違反です。
ふたりの「はしひと」にあてた「泥部」という字。タブー違反のセクシャリティを『書紀』の編者が忌み嫌って付けたように、私には思えます。「間人(はしひと)」のほうも、「間男(まおとこ)」という言葉が連想されます。実の弟や義理の息子と密通する皇后。いや、密通どころか公然たる関係です。
このように、穴穂部皇女と穴穂部皇子は、世の中の常識にとらわれない自由な生き方をした人たちであったようです。そういう穴穂部皇子ですから、蘇我馬子から見れば、とてもこんなやつに政治は任せられない。それどころか、放っておけば何をするか分からないから、目が離せない。いまに飛んでもないことをしでかすから、その前に消しておかねばならん、と思っていたはずです。
【4】 「愛し人」の皇子と「愛し人」の皇女
『日本書紀』が記す穴穂部皇子の最初の騒動は、敏達が崩御した時に起きています。天皇、皇后などの貴人が死ぬと、ふつうはすぐに古墳に葬ってしまうのではなく、まず「殯(もがり)」という儀式をしました。
『殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬送儀礼。死者を埋葬するまでの長い期間、遺体を納棺して仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。
殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮(もがりのみや)」という。』
「もがり」の期間は、正式には3年間でしたが、じっさいにはもっと短いこともありました。たとえば、欽明の「もがり」は数か月でした。
奈良県斑鳩町 藤ノ木古墳
ところが、敏達が崩御して(585年)、「殯の庭」を隼人(九州出身の兵士)たちが守っていると、穴穂部皇子がエラい剣幕でやってきて、「どうして死んだ王の庭にばかり仕えて、生きている王のもとに仕えないのか!」と大声で騒いだというのです。梅原猛氏の解釈によると、敏達の寵臣だった三輪逆(みわ・の・さかう)と蘇我馬子、物部守屋の3者対立が、敏達がいなくなったことによって表面化した。何が起きるか分からないので、三輪逆は「殯の宮」を厳重に護衛させて、皇后(額田部(ぬかたべ)皇女,のちの推古)以外入って来られないようにしてしまった。穴穂部皇子は、「ひとり占めにするな!」と言うのでしょう。「死んだ王の庭にばかり…」というのは、国政をないがしろにして「もがり」に専念すること自体を非難する意味があるでしょう。穴穂部は、葬送儀礼より生きている者のほうが大切だ、と過剰な厚葬を批判しているのかもしれません。「王」は、皇族一般の意味でしょう。
ところが、ヤマトの社会では、こうした目立った行為は、とかく誤解されてしまうのです。『日本書紀』の編者は、「穴穂部皇子、天下を取らむとす」――自分が新しい天皇だ、自分に仕えろという意味で言った、とするのです。おそらく当時の人々も、穴穂部の行動を、そのように理解したのでした。
穴穂部皇子が、「殯の宮」の中にいる額田部皇女に向かって、中に入れろ、と怒鳴ると、今度は人びとは、皇子は、皇后を強姦して、新しい天皇になるつもりだ、などと思い込みます。
頑として入り口をふさいだ三輪逆に立腹した穴穂部皇子は、蘇我馬子と物部守屋を呼んで、先帝のなきがらを独り占めにしている三輪逆を殺そうと謀る。馬子も守屋も、政敵三輪を倒すのに異存はない。守屋は、逃げた三輪逆の居場所を探しに向かう。‥‥ところが、ここでマキャベリスト蘇我馬子が本領を発揮します。馬子は皇子を引き留めて、「王たる人は、みづから往(いでま)すべからず」――手を汚しちゃいかん、と言うのです。そして、あとは守屋に任せて、自分も引きこもってしまう。こうして、物部守屋は三輪逆を殺し、殺人者の汚名を着ることになります。馬子は、自分の手を汚すことなく、排仏派の巨頭を一人葬り、もう一人を殺人犯にしました。穴穂部皇子はといえば、「殯の宮」騒動で、もうすっかり皇位簒奪未遂犯になってしまっています。
はたして、敏達のあとに即位したのは、「堅塩媛」系で額田部皇女(推古)の兄・用明でした。用明の擁立が、推古と馬子の意志に沿っているのは、言うまでもありません。ところが、その用明天皇は、即位後まもなく天然痘にかかって死の床に就いてしまいます。人は、臨終が近くなると宗教に頼りたくなるものです。用明は、枕元に群臣を集めて言います。わしは仏教に帰依したい。しかし、天皇が帰依するとなれば、蘇我氏や誰かが私的に信仰するのとは、わけが違う。これまで、我が国は仏教排斥を建前としてやってきたが、ここで 180°転換できないだろうか? みなで相談して決めよ。
さあ、たいへんなことになりました。いまでも、蘇我氏以外の重臣はみな仏教大反対です。しかし、天皇がああ仰っている。どうしたらいいんだ?! 内心ほくそ笑んでいるのは馬子です。いよいよ仏教を国教にする日が近づいた! やつらがへとへとになるまで、とことん議論させた後で、頃合いを見て、「仏さまは決してそんな恐いお方じゃござんせん。ほら、このおやさしいお顔を見てごらんなさい。ありがたい仏さまのお膝元で、陛下も、さぞかし安らかな気持ちになって、お隠れあそばされることでしょう……」とかなんとか。。。
ところが、そこに飛び込んで来たのが、例によって政治音痴の穴穂部皇子です。群臣がまだ協議中で結論が出ていないというのに「豊国法師」(渡来人の坊さんらしい)を連れて、用明の寝室に入ってしまった。穴穂部本人としては、他意はないでしょう。天皇が、仏にすがりたいと言ってるのだから、すがらしてやるのが人情というもの。崇仏とか排仏とか、関係ない!(梅原猛『聖徳太子 1』,pp.253-273)
けれども、おさまらないのは群臣たちです。何たる勝手なふるまい! 陛下が「みなで決めよ」と仰っているから、みんなで相談しているのに、やつは天皇より偉いのか?! なかでも物部守屋は、顔を真っ赤にして激怒。あの野郎、排仏派だと思っていたから、殺人犯の汚名まで着て協力してやったのに、裏切りではないか! チャッと舌打ちする蘇我馬子。何もかも、ぶち壊しではないか! 陛下は、このまま法師に手を取られて、やすらかに逝かれるだろう。陛下には何よりだったが、そのあとが恐ろしい。まだ衆議は一致していないのだ。陛下亡きあと、どんな戦争になることやら。わが方、崇仏派は決定的に不利だ。勝手に抜け駆けして、恐れ多くも天皇の臨終を、千万(ちよろず)の神々から奪い去ってしまったのだ。いったい誰が、わが方に味方しようか?!
もうこうなったら、穴穂部を殺すしかない。殺して、今回のは、奴ひとりの勝手なふるまいだった。われわれは抜け駆けなど断じて許さない、ということを示すのだ。馬子は、額田部皇女(推古)の意見を聞くと、額田部も同意見。「だから、早く消せって、あたしは言ったのよ。あのチャラチャラ男も、あいつのスケの淫乱女も、昔っから気に入らないわ!」 用明の皇后は、穴穂部皇女なのに、後宮で発言権を握っているのは、前皇后の額田部なのだった。エキセントリックな夢見る皇女に付き従う者など、政治の世界にはいない。皇宮の表も裏も、女マキャベリの天下なのだ!
こうして、蘇我馬子は、額田部皇女を「奉じて」、穴穂部皇子と宅部(やかべ)皇子のふたりを殺害するよう、配下の下級豪族たちに命令する。自宅で、いきなり襲われた2人の皇子は、抵抗する余地もなく惨殺された。(梅原猛『聖徳太子 1』,pp.294-299)
ここで宅部皇子という人が巻き添えにされているのは、なぜだろう? 『日本書紀』には、穴穂部皇子と仲が良かったから、としか書かれていない。この謎、掘り下げればどんどん深くなるし、興味は尽きないのだが、いまは簡単に触れておくだけにしよう。
法隆寺の近くに「藤ノ木古墳」という小さな円墳がある。盗掘されていないことから、発掘の成果が期待されたが、結果は期待以上だった。今までに6次にわたる調査が行われて、ほぼ全貌が明らかになっているが、まだ続くらしい。被葬者は、若い男性2名で、ひとつの石棺に合葬されている。この2名が、馬子と推古に殺された穴穂部皇子と宅部皇子らしいのだ。学者の間では、いまのところそれが定説と言ってよい。今回の記事の↑いちばん上の写真は、主たる被葬者穴穂部皇子の頭の位置にあった金冠だ。なんと煌びやかで、またファンタジーに満ちた冠だろう。
ところで、↓下の写真は、2人の被葬者が横たわっていた姿勢を、学者が復元した模式図だ。遺体は、どちらもほとんど溶けてしまっていたが、科学的な分析調査によって、二人の性別も身長も、装身具の付け方から位置・姿勢まで、詳細に明らかになっている。
↑この図を見て、ゲイ諸君は、何か気づかないだろうか? ‥‥そう。仲のいいカップルの添い寝の姿勢が、1400年の時を隔てて再現されているのだ。断っておくが、学者たちは、ふたりがゲイだなどとは夢にも思っていない。ゲイカップルの添い寝など、考えたこともないだろう。学者たちは、ただあるがままに、正確に再現しているだけなのだ。その結果がゲイカップルに見えるのだとしたら、彼らはほんとうにカップルだったのではないだろうか?
もちろん、ただたんに被葬者たちがカップルだったというだけでは、こうはならない。生前の彼らをよく知っていて、彼らにふさわしい埋葬のしかたを考えた人たちがいたはずだ。私は、それは穴穂部皇女と彼女の従者たちだったと思う。もしかしたら穴穂部皇女の長男・厩戸皇子も加わっていたかもしれない。
穴穂部・宅部殺害の 14年後、藤ノ木古墳の約500メートル東で、聖徳太子は「斑鳩(いかるが)の宮」造営に着手する。そこは、現在の「法隆寺・東院」。「夢殿」のあるところだ。
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