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岩波新書『飛鳥の都』,p.14 により作成。  

 

 

6~7世紀の「倭国」の政治は、朝鮮半島の政治情勢に

大きな影響を受けていた。当時「倭国」は、仏教をはじめとする

大陸文明を摂取して “文明国化” をめざしていたが、

中国・朝鮮の諸国が「倭国」の “文明開化” に協力したのは、

あくまでも自国の国益を伸長するためだった。

諸国は、たがいの存亡を賭けて争っており、「倭国」の

協力ないし従属を引き出すことに大きな関心があったのだ。

中国では、が 360年ぶりに全土を統一し(589年)、西域・モンゴル・

チベット方面を征服し、遼河で高句麗と対峙して半島侵攻を狙う。

高句麗は、遼河の東(遼東)から満州北部にわたって

諸種族を服属させて版図を広げる一方、鴨緑江上流の

「国内城」から「平壌」に都を移して(427年)半島に進出した。

もとは半島の西半分を占めていた百済(ひゃくさい。

「くだら」は「クン・ナラ」[現代朝鮮語で「大きな国」]

が語源だとの説もあるが、文献的根拠はない)

は、高句麗に圧迫されて漢江岸の「漢城」(現在のソウル付近)から

南方の「熊津」(現在の忠清南道公州付近)に都を移した(475年)

新羅(しんら)は、もとは慶州盆地の小国に過ぎなかったが、

(「金城」は現在の慶州。当時の朝鮮語で「シロ」。「しらぎ」の語源か)

半島中央部~南端部の「伽耶」諸国を吸収して強大化し、

(「伽耶」諸国の王族は、「新羅」の支配層に進出して半島統一を遂行する)

漢江以南を百済から奪い取って西海岸に進出(552年)

に使節を派遣して文明の摂取と国家体制の整備を進めた。

 

伽耶」諸国は「倭」と関係が深く、

もとは《日琉語族》の住民から構成され

その一部(弥生人)が北九州に渡って稲作文明を伝えつつ列島の

縄文人を吸収し、「倭国」の基になったとする学説もあるくらいだ。

しかし、半島では統一国を作ることはなく、西の百済と東の新羅

徐々に吸収されていった。この歴史に注目したのが百済だった。

百済は、「倭国」の文明化を援助しながら、

新羅に滅亡させられていった「伽耶」諸国の歴史を

ヤマト」政権に説き(『百済本記』という偽書を作って

ヤマトに贈呈し、「任那日本府」なる植民地政府が

かつて存在したと信じさせた)

新羅を征討して“倭人勢力の復興”をなしとげるよう、渡来人と派遣僧侶

通じて根気よく奨めたのだ。新羅と国境を接するようになった高句麗

新羅との抗争を有利にするために、しばしば百済の対倭外交を支援した。

 

ヤマト」政権にとって、仏教の導入・“文明開化” は両刃の剣だった。

百済・高句麗の援助のもとに文明の恩恵に浴する一方で、

両国の “おだて” に乗って半島に出兵し新羅と戦うだけでなく、

中国の大国(のちには)の敵国となる危険な道をあゆむ恐れが

つねにあったのだ。7世紀における「ヤマト」の王族と蘇我氏ら豪族は

海外情勢に揺さぶられて激しく動揺し、「ヤマト」宮廷はクーデターを

くりかえし(3度目のクーデターが「大化の改新 645年」)、最終的には

あの悲惨な「白村江敗戦(663年)」を迎えることとなる。

 

 

 

 

 

飛鳥大仏。飛鳥寺の本尊(609年完成)。寺も仏像も    

百済・高句麗の全面的援助によって建てられた。     

右手と顔(上半分または大部分)が創建当時のもの。   

 

 

 

    【1】 蘇我馬子とは、どんな人か?

 

 

 6世紀後半は、蘇我 vs 物部(もののべ)、崇仏 vs 排仏の闘争の時代だと言われる。

 

 538年、敬虔な仏教徒として名高い百済聖明王から仏像と経綸が贈られてきた。つづく 540年、ヤマト王権は、かねて百済から求められていた「任那(みまな)4郡」の割譲に同意し、その責任を負って大伴金村が失脚している。仏教を伝えてやった交換条件として、倭人の勢力が強い「伽耶」諸国の一部併合に同意しろと言われて、同意してしまったのだ。とうてい割の合わない取引に応じたことから見て、じっさいには「ヤマト」政権は「伽耶」に対して、たいした支配も利害関係も持っていなかったのだろう。ともかく、仏教伝来は、伝える側にとっては純粋な布教などではなく、国際政治を有利に展開するための手段だった。

 

 百済は、547年、553年、554年に、高句麗との戦いのために「ヤマト」政権に救援軍派遣を要請し、その間、552年には再び仏像と経綸を贈呈し、554年には、五経博士、暦博士、医博士、楽人等を派遣している。「ヤマト」は 548年に 380人を百済に派遣して築城を助け、554年には兵1000人、舟40隻等を送っている。百済は「倭軍」の遠征を期待していたのに、わずかな支援にとどまっているのは、遠征できるほどの国力が、「ヤマト」にはまだないからであろう。

 

 しかし、仏教の伝来は「倭国」に、ある意味で災いをもたらしていた。仏教を受け入ようとする勢力と、排斥しようとする勢力のあいだに、深刻な争いを引き起こしていたのだ。それというのも、卑弥呼女王以来、また古墳祭祀以来、「倭国」には固有の宗教伝統が強固に存在していたからだ。けっきょく、伝えられた仏像と経典は蘇我稲目がもらい受けて、朝廷は蘇我氏の私的な信仰を “大目に見る” 、ということで決着した。つまり、蘇我氏以外の「ヤマト」支配層は、こぞって仏教を排斥したのだ。しかも、570年に稲目が死ぬと、物部氏らは仏像の安置所を焼き払い、仏像と経綸を難波江に流してしまった。「崇仏」派は、聖徳太子以前のヤマトでは、あくまでも少数派だった。

 

 572年に即位した敏達(びたつ)天皇の時代は、「排仏」の絶頂期だった。それとともに、敏達百済との関係を中断して、新羅寄りの政策をとった。当時、蘇我稲目の子・馬子がまだ若くて勢力がなかったせいもあるが、それ以上に、仏教文明とともにやってきた疫病(天然痘)が流行したのだ。当時の人は、病気は神の祟りだと思っていた。海の向こうから邪教を受け入れたために、ヤマトの神々が怒っている。仏像を拝む悪魔の手先、危険思想を抱くアカは、排除しなければならない!

 

 しかし、逼塞していた蘇我馬子も、584年には屋敷内に仏殿を建て、3人の少女を尼として得度させ、翌年には大野丘に仏塔を建てて法会を催した。排仏一辺倒の大勢に抗して、仏教興隆のマニフェストをぶち上げたのだ。ところが折り悪しく、天然痘の流行がひどくなり、馬子もかかってしまった。物部守屋中臣勝海は、「それ見たことか!」と仏教禁圧を上奏し、敏達天皇は、「灼然なれば、仏法を断(や)めよ」と命令した。仏教の害悪は火のように明らかだ、と言うのだ。物部守屋らは、仏塔を焼き払い、仏像を奪い取って海に流した。3人の尼を裸にして尻を打って見せ物にした。馬子は、天皇のところへ行って、仏像を取り上げられたので天然痘が治りません、どうか死ぬ前に仏を拝ませてください、このままでは地獄に落ちてしまいます、と必死の訴え。ここまで言われたら、さすが仏嫌いの敏達も許さざるを得ない。排仏令を撤回して、尼たちを馬子に返した。ところが、馬子は仮病だったのか、死ぬ気配もない。かえって敏達が天然痘にかかって、排仏令を撤回したまま死んでしまった。こうして、天皇が崇仏許可に転換したという先例が残ってしまった。

 

 

敏達天皇陵とされる「太子西山古墳」 崩御の6年後に、母・石姫皇女の陵に

合葬されたという。天皇は独立の陵に后(きさき)と合葬されるのがふつうだが、

なぜ母と合葬される扱いを受けたのか? 敏達の皇后であった炊屋姫(のち

推古天皇)は、この時すでに、自分が皇位に昇る決意を抱いていたのだろうか?

 

 

蘇我稲目 馬子    国際派 仏教導入   百済寄り外交、対新羅強硬策

物部守屋 中臣勝海 保守派 仏教排斥   新羅寄り外交、対外消極策

 

 図式にまとめると、↑このようになるだろうか。物部氏、中臣氏、大伴氏は、ヤマト王権のもとで物資の生産を担当する「部民(べのたみ)」を統率する氏族だった。また、軍事に関わり、王宮を警護し、神事をつかさどる役目をする。外来の仏教に対して、ヤマトの神々を崇める保守の側に立つのは自然な成り行きだ。とくに、物部氏は、武器の生産・管理を担当し、軍事・警察・刑罰権を掌握していた(『ヤマト王権』,pp.166-169)。河内の大和川中流を領地として多くの部族を従え、一大軍事国家というべきものを作っていた、と梅原猛氏は言う(『聖徳太子 1』,pp.280-281)。

 

 これに対して、蘇我氏は、ヤマト王権の財政を握っていた。梅原氏によれば「財務官僚」だ。「財政」と言っても、当時はまだ「おかね」というものはない。コメ、布などの農村生産物が貨幣の役割をした。「屯倉(みやけ)」といわれる王権の領地を管理し、貢物の貯蔵・出納を司る。そこに蘇我氏は、朝鮮からの渡来人が伝えた文字による記帳や、進んだ人民統率の技法を導入した。耕作者を木札の名簿で管理し、力役や兵卒の徴発も能率的に行なった。蘇我氏の配下には、東漢(やまとのあや)(伽耶から渡来)西文(かわちのふみ)(百済から渡来)などの渡来系氏族がいた(『ヤマト王権』pp.157-159; 『聖徳太子 1』,pp.282-284)。

 

 『古事記』によれば、物部氏の祖は、神武天皇に付いて天下ったニギハヤヒノミコトだという。神武より先にヤマトに赴いて、この地を支配していたという。物部氏に限らず、各氏族は、それぞれ固有の神から出自し、自分の権力を神聖化する宗教的権威を帯びている。しかし、新興の「財務官僚」蘇我氏には、そのような宗教的権威はない。蘇我氏が自分を権威づけるために外来の仏教に頼るのは、これまた自然な成り行きだったのだ(『聖徳太子 1』,pp.279,284)。

 

 しかし、蘇我馬子と渡来人・渡来文化のかかわりで、仏教以上に重要なのは、政治思想面の文明摂取だろう。馬子が、渡来人・渡来僧との接触や、大陸の書物、とくに史書の読解を通じて受け取ったのは、政治的マキャベリズムと現実的なバランス感覚だった。“文明の波” に揉まれながら、当時の日本ではまだ珍しい政治感覚・外交感覚に秀でた現実政治家に成長した。馬子は、朝鮮各国からの、政治的意図をもった仏教伝来という、悪魔の洗礼にさらされるなかで、大陸文明国のマキャベリズムを自家薬籠中のものとしたのだ。

 

 

 

    【2】 宗教戦争の開始

 

 

 敏達から「崇仏許可」の言質を取った蘇我馬子の次の目標は、仏教を国教にすることだった。


 次の用明天皇の代には “宗教戦争” が本格化した。崇仏 vs 排仏の対立だけでなく、豪族間の主導権争い、そして、おおぜいいた皇子(おうじ)のあいだの皇位継承をめぐる思惑がからんだ。私兵を率いての実力闘争となり、殺害が日常化した。ここに老獪なマキャベリストの本領はいかんなく発揮され、馬子は政敵を次々に葬っていった。

 

 それと並行して、馬子は、高句麗百済からこれまでにない強力な援助を引き出して、「倭国」最初の本格的仏教寺院「飛鳥寺(元興寺)」の建立を進めた。しかし、寺だけではない。「倭国」の朝野に仏教熱を燃え上がらせるために馬子が用意した最強カードは、“国の母” のように気高い女帝・推古と、神童のような天才少年・厩戸皇子(うまやど・の・おうじ)だった。

 

 崇峻は、馬子がカードを切った決定的瞬間に、たまたま皇位にいた邪魔者として消されたのだろうか? 次回は、皇族の系譜をたどりながら、“宗教戦争” のゆくえを見ていきたい。

 

 

 

 

 

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