「メアリーの部屋」という、アメリカの哲学者が考えた思考実験があります。《唯物論》(物理主義)に対する《心の哲学》からの反論として提出されている思考実験――「中国語の部屋」「逆転スペクトル」「コウモリに世界はどう見えるか」「哲学的ゾンビ―」など――のひとつですが、それらのうちで最もわかりやすく、示唆に富んでいるように思われます。
↓ウィキペディアの模式的説明がわかりやすいので、まずこれを見ておきましょう。
科学が発達した現代では、人間の行動と知覚に関するしくみも、物理・化学的に、生理学的に、とことん解明されていて、人間の思考というのは、外界の物質に反応する細胞物質の物理化学的・電気的反応の一部として説明しつくされてしまうように見えます。
《心の哲学》は、そうした《唯物論》ないし物理主義の説明を否定するのではなく、「科学的説明」の正しさは、それはそれで認めつつ、……しかし、“それだけではないゾ!”、物質的な「反応」に加えて、人間の「体験」「感覚」「生きる」…といったものがなければ、われわれの「この世界」は成立しない――と主張するのです。この「プラス」の部分を、《心の哲学》者は「クオリア」と呼ぶ。
「科学的な物質過程」には還元されない「クオリア」というものがある、という考え方のおおもとは、フッサールの《現象学》にあるようです。「科学」を否定して宗教や神秘主義に逃げ込んでしまうのではなく、科学は科学としてそのまま認めながら(否定するのではなく、「カッコに入れる」)、自然科学を超えた超主観的な「プラス」の部分を主張して、「科学」に還元されない “人間の領域” を確保しようとする考え方です。
しかし、《唯物論》は真か偽か? といった哲学問題にはまり込んでしまうと、身動きが取れなくなるようにも感じます。《唯物論》でも《唯心論》でもいいじゃないか。面倒な議論は、哲学者に任せておけばよい。ここで私は、「メアリープラスの部屋」という思考実験を考えてみたくなるのです。
「メアリー」は、色と視覚に関する物理的事実をすべて知っているのでした。「メアリープラス」は、それに加えて、色の認識が人間にもたらす《文化現象》をすべて知っている、モノクロのテレビと書物で習得して知っているとします。《文化現象》とは、色に関する各宗教の教義から、さまざまな色が人間感情にもたらす心理的効果、色が人間の社会と歴史で演じてきたあらゆる象徴事象まで、すべての人文知識を含みます。いや、知識だけではない。「メアリープラス」は、豊富な色の世界を描写したあらゆる文学作品を読破して、人間のあらゆる “色彩体験” を「追体験」しているのです。ただし、小説の挿絵はすべてモノクロ。「メアリープラス」の部屋には、古今東西のあらゆる風景画を集めた画集もありますが、それもすべてモノクロです。
つまり、「部屋」の中に生まれた時からいる「メアリープラス」と、部屋の外にいる「色を見て生きている人」との違いは、色を実際に見たことがあるかどうか、という一点だけなのです。
このような「メアリープラス」は、部屋の外に出て、色のある景色を見た時、なにか今までにない体験をするでしょうか? 今まで知らなかった知識を獲得するでしょうか?
ここから先は、私の考えを書きます。(皆さんは皆さんの考えを、この記事のコメント欄にでも、ぜひ書いてみてください。「公開するな」との但書がなければ、公開させていただきます)
部屋の外に出ることによって「メアリープラス」が遭遇する “新しいこと” は、↓つぎの2つだと思います。
① いよいよ「外」に出る時には、「メアリープラス」は「色のある世界」について、期待、願望、憧れ、恐れ、といったものを持つ。あらゆる意味で「完全な」知識を持つので、さまざまな想像をすることができるが、その想像は、けっして単一で「完全」なものではない。想像はさまざまにゆらいで、彼女を不安に陥れる。
② 「外」を目にした「メアリープラス」の知覚は、はじめのうちは混乱する。色に「目が慣れる」――視神経に、色をとらえる機構が形成される――には時間が必要だ。目が慣れた時、「メアリープラス」を大きな「驚き」が襲う。彼女が自ら体験する「色のある世界」は、事前に想像していたのとは全く違っているからだ。
「仕組みを理解する」ということは、その「仕組み」によって世界を「体験する」こととは、まったく違うのです。例えば、さまざまな陰影と色調、彩度をもつ「世界」の具体的ありさまは、不断に変化しつづけます。厳密にいえば、ある風景は、その一瞬にだけ存在するものです。それは、「メアリープラス」自身の主観的条件によっても、さまざまに変化します。
もちろん、そうした「不断の生々流転」があるということを、「外」に出る前から「メアリープラス」は理解していました。小説や詩を読んで “追体験” さえしていました。が、具体的世界の「生きた過程」として体験されたわけではなかったのです。
人間の体験にとって、①②は重要だと思います。とりわけ②は、「自己」に内在するものではなく、「外部」の世界がわれわれに提供する「意外さ」だということに、私たちは気づく必要があります。
その「外部の世界」とは、もちろん、街や道路などの人工的な世界を含みます。しかし、「自然」の世界のほうが、私たちを「驚かす」程度は大きいように私には思えます。どこかへ旅行したとして、少なくとも国内であれば、行った先の風景が「意外だ」とか、最初に降り立った場所の風景じたいに驚愕するということは、あまりありません。しかし、(私の場合でいえば)「山」は別です。東京の近くの小さな山であっても、はじめて行くところであれば、事前に地図や写真で想像していたのとは違っているのがふつうです。人がおおぜい来る通常のハイキングコースから外れた場所ほど、そこで遭遇する「意外」な部分は大きいようです。
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Kirill Fadeyev, "Virginity".