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山岸涼子「日出処の天子」原画複製

 

 

「日出処の天子」――厩戸(うまやど)の王子には

どこか暗い翳がつきまとう。

 

 遣隋使の派遣と文明の摂取、

飛鳥寺、法隆寺の大伽藍建立、

「十七条憲法」をはじめとする

官僚制度の創始と仏教の研究、

古代日本国家の基礎を築いたとされる

太子の華々しい業績を裏切るかのように、

彼の突然の死後まもなく、その一族「上宮王家」は

諸豪族の連合軍に包囲され絶滅している。

あるいは皆殺しにされたともいわれる。

 

この「上宮滅亡事件(643年)」のさい、法隆寺と斑鳩(いかるが)の宮は

焼き討ちされて灰燼に帰している。現在の法隆寺は、

その後、奈良時代初めころに再建されたものだ。

一族を根絶やしにされた太子の復讐を怖れた後代の人々が

怨霊を鎮めるために再建したのだ。(ただし、法隆寺は現在も、

公式には再建説を否定しているが)

 

 

 

 

 

法 隆 寺 西院

 

 

 「聖徳太子の墓所」とされる磯長(しなが)叡福寺北古墳↓。円丘の周囲を、僧・空海が築いたとされる結界石が、ぎっしりと二重に取り巻いている。結界とは、本来は外部からの悪霊の侵入を防ぐためのものだが、ここにある結界石は、むしろ太子の怨霊が溢れ出すのを食い止めているかのようだ。

 

磯長・叡福寺北古墳(聖徳太子陵) 円墳の裾を、二重の結界石がとりまく。    

 

 

磯長・聖徳太子陵 結界石の近写。 伝承は、空海が「二重の結界」を設けたと伝える。

しかし、内輪のほうが明らかに時代が古いのは、なぜなのか?

 

 

 「聖徳太子にまつわる暗い影」というとき、どうしても触れなければならないのは、摂政即位の前年(592年)におきた「崇峻天皇暗殺」という事件だろう。

 

 天皇が殺されて、太子が即位したのだ。その二つの出来事が無関係だったとは誰も思わない。江戸時代の儒学者・国学者はみな、天皇暗殺の首謀者は聖徳太子だったとして糾弾し、あるいはそう断定しないまでも、殺害を黙認した責任を追及する。天皇制が復活した明治以後とは違って、江戸時代には、聖徳太子は極悪叛逆人の代名詞だったのだ。(梅原猛『聖徳太子 2』,集英社文庫, pp.11-34.)

 

 この国の歴史で、在位中に殺害された天皇は、安康崇峻安徳の3名だが、

 

 安康天皇[20代]の場合は、后(きさき)の連れ子に殺されている。安康は、この連れ子の実父(大草香皇子)を殺して、その妻を自分のものにしたのだ。つまり、殺害は仇討ちだった。安康は、ほかにも、皇太子だった木梨軽皇子を自殺に追い込んで即位している。安康殺害は、皇族同士の殺し合いの渦中の出来事であり、しかも、史実性(『日本書紀』)は疑わしい。「安康天皇」じたいがフィクションである可能性が高い。

 

 安徳天皇[81代]の場合は、源平内戦の果ての「壇ノ浦の戦い」で入水心中している。暗殺というよりは戦死だ。

 

 ところが、崇峻[32代]は、群臣が立ち会った公式行事(東国の調[みつぎ]の献上)の最中に、臣下によって惨殺されているのだ。公開の場での堂々たる殺害。「暗殺」と呼ぶのも変なくらいだ。崇峻天皇は、臣下によって殺された・ただひとりの天皇だったことになる。

 

 臣下が国王ないし皇帝を殺害することを「弑逆(しいぎゃく)」といい、東アジアの他の国家では、すこしも珍しいことではない。むしろ、古代・中世・近代をつうじて、たったひとりしか「弑逆」の例がない日本の場合が、非常に特殊なのだ。

 

 なぜ崇峻は、天皇としては稀な不幸の犠牲となったのか?

 

 ひとつには、崇峻の時代にはまだ、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」というような観念がなかったということだろう。『日本書紀』が伝える「皇統」のなかで、まちがえなく史実と認められるのは、継体天皇[26代]以後だろう。崇峻[32代]の当時には、「天皇」という名称すら、まだ無かった。7代ていどの王統では、たいした権威はなかったと言わなければならない。遠い将来に「万世一系」と称されるようになるとは、当時は誰も思わなかったのだ。

 

 また、後代の天皇が暗殺の対象にならなかったのは、政治の実質的権力者ではなかったためかもしれない。平安時代以後の天皇は、政治権力というよりも、宗教的権威として君臨した。危険を冒して天皇を殺したからといって、権力は手に入らず、むしろ宗教的権威を冒瀆した絶大な「たたり」を恐れなければならない。「天皇暗殺」は、割りの合う冒険ではなかったのだ。しかし、崇峻の時代には、まだ天皇が政治権力に近かっただろう。その後、天智[38代]、天武[39代]の頃に、天皇権力は頂点に達している。

 

 崇峻の前後の時代(6世紀末~7世紀)に、中国の文物と情報が及んできたことも、関係があるかもしれない。これに先立つ5~6世紀の中国は「南北朝」時代で、南・北それぞれの王朝で宮廷クーデターや皇帝の暗殺は日常茶飯事、そのたびに諸王朝がめまぐるしく交代した。ヤマトの支配層は、新しく将来された書物で、あるいは渡来した朝鮮各国の僧侶・知識人から口伝えに、生々しい情報を得ていただろう。「先進国のすることならば、マネしてもかまわないだろう。」と思ったかもしれない。

 

 しかし、それにしても、『日本書紀』が伝える「崇峻暗殺事件」は、ふにおちないことだらけだ。なぜ殺されたのか?――積極的な理由も原因も、『書紀』の記述には見出しがたいのだ。

 

 

崇峻天皇の墓所との推定が有力な 奈良県桜井市「赤坂天王山古墳」石室入口。

荒れるにまかされ、「天皇陵」に指定されてさえいない。

 

 

 『日本書紀』が記す「暗殺」の経緯。崇峻5(西暦592)年10月4日、イノシシを献上する者があった。崇峻天皇は、そのイノシシを指さして、

 

 「何(いづれ)の時にか此の猪(しし)の頸を断(き)るが如く、朕(わ)が嫌(ねた)しとおもふ所の人を断らむ

 

 と言った。そして、警備の兵をいつもより増やしたので、人々は変だと思った。天皇の言は、うっかり漏らしたひとり言に過ぎなかったが、蘇我馬子(そがのうまこ)は、これを伝え聞いて(10月10日)、自分が「嫌(ねた)」まれていると思い、「儻者(やからひと)を招き聚めて」天皇殺害を謀議した。

 

 11月3日、馬子は群臣を集めて、「東国の調(みつぎ)」を天皇に献上する儀式を行なうと言った。そして、東漢直駒(やまとのあや・の・あたひ・こま)に天皇を弑(しい)させ、その日に陵に葬った。〔東漢氏は、古い渡来人の家系で、蘇我氏の配下〕

 

 『日本書紀』が伝えているのは、これだけなのです。まるでゴミをポイするような簡単な暗殺‥。天皇殺害という、日本史では他に例のない危険な行動に出るにしては、あまりにもあっけない。しかも、そこまでする動機が、まったく見当たらないのです。動機がない以上に奇怪なのは、相談に集まった「儻者(やからひと)」からも、殺害現場(貢ぎもの献呈の儀式)に立ち会った群臣からも、まったく異議の出た形跡がないことです。

 

 これを理解するには、まず、崇峻の「ネタい人を…」発言は、きっかけにすぎず、これに先立って“一触即発”の厳しい反目が、崇峻と馬子のあいだにはあったと見なければならないでしょう。その反目の原因は、いったい何なのか? 『書紀』は黙して語らないのです。

 

 反目の理由を見つけるのは容易ではありません。それというのも、蘇我氏は崇峻天皇の外戚なのです。馬子は崇峻の叔父。馬子の父・蘇我稲目は崇峻の祖父です。しかも、崇峻は馬子に擁立されて即位している。天皇の「外戚」といえば、私たちは平安時代の藤原氏を思い浮かべます。天皇が藤原氏に逆らうことなど、ありえません。天皇が、ちょっと変なことを口ばしったからといって、藤原道長が天皇を暗殺したりするでしょうか? そんなことはしません。「外戚」は天皇を意のままにできる以上、天皇が何を考えようと恐れる必要はないからです。 

 

 梅原猛氏は、崇峻天皇は、いわば蘇我氏の「ロボット」で、「ロボット」にされて鬱積した不満が反目の原因だったとしておられます(梅原猛『聖徳太子 2』,集英社文庫, pp.37-38.)。しかし、ロボットであればなおさらのこと、殺してしまう必要があったとは思えないのです。

 

 不可解なのは、動機だけではありません。周囲の人々から異議が出ないのが奇妙というほかはない。“大逆罪” を冒した馬子が、責任を問われた形跡が全くない。手を下したヤマトノアヤは処刑されていますが、処刑の理由は天皇殺害ではなく、馬子の娘で崇峻のミメ [位の低いキサキ] であった河上娘(かわかみ・の・いらつめ)と通じて駆け落ちしたから、というのです。

 

 ヤマトノアヤとしては、馬子の命令に従って天皇暗殺をやり遂げた褒美に、天皇の女の一人をもらったつもりだったのかもしれません。それを理由に処刑されてしまうのですから、不可解以上に奇々怪々。馬子としては、天皇殺害罪を言い出したら、首謀者である自分の身が危なくなる。かといって、下手人が罪に問われなかったら、周囲が納得しない。裏で娘と図ってヤマトノアヤを誘惑して駆け落ちさせ、処刑の理由を作った?‥‥そんな筋書きを想像したくなります。 

 

 公開の場で堂々と殺されても、誰からも同情されず、殺害の首謀者も罪に問われない。それほど、誰からも憎まれるようなことを、崇峻がしていたのだろうか? ‥‥そのような形跡はまったく見いだせないのです。ただ単に、誰だかわからない人を「いつの日にか殺したい」と口ばしった――というだけ。しかし、探れば探るほど、何か目に見えないどろどろしたものが背景に渦巻いているようにも感じられます。

 

 

殺された崇峻天皇は、「もがり」葬儀も行われず、その日のうちに埋葬されたという。  

あらかじめ古墳と石棺が造ってあったのか? 生前の築陵はふつうだったとしても、  

手回しが良すぎないか? 奈良県桜井市「赤坂天王山古墳」石棺        

 

 

 この事件を解明するには、『日本書紀』には直接書かれていない政治的背景を探る必要がある。殺害者である蘇我馬子と、周囲の「群臣」――支配層の人々の不可解な行動は、そこからメスを入れて行かなければ理解できないのではないか? そういうことが考えられます。

 

 そこで次回は、蘇我馬子とは、どんな人なのか? 崇峻天皇とは、どんな人なのか? 事件当時、ヤマト朝廷――「倭国」の宮廷では、どんな政治的事件が起きていたのか? ‥‥そのあたりから探っていきたいと思います。

 

 

 

 

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