通称「やまでら」――山形県の宝珠山立石寺(りゅうしゃくじ)は、平安初期に開かれた天台宗の古刹だ。延暦寺の第3代法主慈覚大師・円仁が清和天皇の勅願によって開いたという。円仁は、延暦寺巡礼でおなじみになっている(⇒:比叡山、中央突破(4))。
円仁が開いたとされる寺は、関東に209寺、東北に331寺、北海道にまであるというからマユツバものだが、山寺には、京都から移された円仁の遺体を置いている洞窟がある。開山はともかく、ゆかりが深いのはほんとうだろう。延暦寺では、円仁の死後に立石寺に改葬したと説明している。
そればかりではない。延暦寺には、宗祖・最澄がともした「不滅の法灯」というものがあるが、信長の焼き打ちに遭った時に、法灯も消されてしまった。そこで、山寺に分けられてあった法灯の火を、聖火リレーのように運んで、延暦寺の法灯を復旧したのだという。だから、山寺にある法灯こそは、最澄以来一度も消えたことのない正真正銘の「不滅の法灯」なのだ。
シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。
じつは、山寺には、この3月にも行ったのだが、コロナのせいで拝観時間が制限されていて、山門から中に入ることができなかった。今回はリベンジだ。ちょうど紅葉の季節にあたっている。
「山寺」駅から真正面に、山寺の全貌を見渡すことができる。
左の山の中腹でこちらを向いているのが「五大堂」。その右の屋根が「開山堂」。直下の洞窟に円仁が葬られている。右の山の小さいお堂は「釈迦堂」で、修行のための岩場の上にある。
↑根本中堂。ここは山門の外にあるので、これは3月の写真だ。建物の形も、「五色の幡」も、比叡山延暦寺と同じ。「不滅の法灯」はここにある。
延暦寺の根本中堂は撮影禁止なので、こちらの写真が代わりになる。
↑山門。これも3月の写真(雪がある)。拝観停止の立札の前で立ち往生している先客。
↑山門の隣りにある。左は鐘楼で、右は「念仏常行堂」。延暦寺・西塔の「常行堂」と同じく、平面が正方形の宝形造(ほうぎょうづくり)。阿弥陀仏のまわりを巡りながら念仏を唱えつづける行(ぎょう)のための建物だからだ。
↑この写真から11月になる。山門から中に入ると、苔で滑りやすい昇り階段が、ひたすらつづく。
急な石段の両側に、無数の石灯籠、石仏、石碑、摩崖仏、摩崖碑が並ぶ。平安時代から現代に至る熱心な信者が寄進したものだ。↓これは観音菩薩(千手観音?)。新しいものだが、現代風に流れず、風格のある姿が崇敬を誘う。
こちらは平安初期の摩崖仏↓。お賽銭が乗っかっている。風雨で摩滅する寸前の状態で残っているのもすごいが、様式のわずかな痕跡から建造年代を推定する現代の美術史学もすごい。
↑「百丈岩」。その直下に芭蕉の「せみ塚」がある↓。
「せみ塚」は、芭蕉の俳句「しづかさや 岩にしみ入る 蝉の声」を記念した石碑群。蝉が葬られているわけではない。古い石碑が多いが、残念ながら続け文字と変体仮名ばかりで読めない。↑この碑も、「芭蕉□」‥‥3字目が私には読めない。読めた方は、教えていただけないだろうか。
芭蕉と俳句の絡みで訪れる向きには、境外の「山寺芭蕉記念館」に、ぜひとも立ち寄られるようお薦めする。この記念館については、最後の写真でご案内しよう。
↑頭上に仁王門が見えてきた。
↑仁王門。
仁王門を過ぎると、↑右の岸壁には穴がたくさんあって、まるで月の写真だ。穴の中には石仏があったり、大きい洞窟の内部にはお堂が建っていたりする。
↑左の岩壁の上に立っているのは「開山堂」。その右上に「五大堂」が覘いている。この2堂は、帰りがけに寄るとしよう。
↓「奥ノ院」。山はまだ中腹だが、ここが寺の“頂上”ということらしい。
タイムレコード 20211110
「山寺」駅1400- 1410立石寺・山門1416- 1453奥ノ院1504 - (2)へつづく。