延暦寺東塔~「松ノ馬場」駅
(水色のGPS軌跡がずれているのは、谷間で電波が届かないため)
バスセンターでエネルギーを補給。「東塔」は、ざっと見て駆け抜けることにしよう。
「東塔」の「大講堂」。堂々たる建物だが、与える印象は受ける人によって異なる。
大講堂
いつくしき 五色の幡(ばん)は かけたれど みこころいかに とざしたまはん。
いつくしき 五色の幡に つゝまれて 大講堂ぞ ことにわびしき
うち寂(しづ)む 大講堂の薄明(はくめい)に さらぬ方して われいのるなり。
あらたなる み像かしこく かゝれども、その慕(した)はしき み像はあれど。
おゝ大師 たがひまつらじ、たゞ知らせ きみがみ前の いのりを知らせ。
宮沢賢治『歌稿B』#776-780
「大講堂」に掲げられた最澄の肖像を見ても、薄やみの中で手を合わせても、どこか、しっくりしたものを感得できないもどかしさを詠っている。大師の真意、大師の祈り、大師の御前にあるべき自分の祈りが見えない。いったい、正しい方向を向いて祈っているのかどうかさえ、わからないと言う。
ひとことで言えば、いっさいを没却し、己れを空しくして帰依すべきなのか、それとも、己れの中にいっさいを見いだすべきなのかが、わからないということだろう。
「大講堂」前の鐘楼。
みづうみの ひかりはるかに すなつちを 掻きたまひけん その日遠しも。
われもまた 大講堂に 鐘つくなり その像法の 日はさりしぞと。
宮沢賢治『歌稿B』#781-782
花崗岩の白砂を掻くようにして、最澄とその弟子たちがここに昇って来た時、はるかな湖面は、まばゆくも神々しい光に満たされていた。しかしそれは、はるかむかしの風景なのだ。当時は「像法」の世。仏法が、かたちだけとはいえ、なおこの世に存在した。いまは「末法」の世。いかなる仏法のかけらも、この地上からは消え去っているのだ。
賢治の撞く鐘は、警鐘を鳴らすというようなものではあるまい。「われもまた‥‥鐘つくなり」と彼は言う。いきいきとした仏法がすでに消え去って久しい現実世界の寂しさを、確かめるようにか細く、ながい余韻が尾を曳いて響く。
根本中堂
ねがはくは 妙法如来正徧知 大師のみ旨 成らしめたまへ。
宮沢賢治『歌稿B』#775
「大講堂」に寄せられた賢治の迷いのあとでは、そのすぐ前に詠まれた、この正統的な祈りも、どこか空しく感じられてしまう。「み旨(むね)」の何たるかが見えないからだ。「正徧知(しょうへんち)」は、シャカの尊称のひとつ。
↑ここに見えるビルは、「根本中堂」の建物をおおっている覆屋で、「根本中堂」は、この中にある(撮影禁止!)。しばらくのあいだ、覆屋の工事がつづいていたが、完成したようだ。
「根本中堂」。国宝といっても、「信長の焼き打ち」以後に再建された建築だ。左へ折れると、「十二町」で紀貫之(きのつらゆき)の墳墓に至る。左へ進む。
「ケーブル延暦寺」駅を通過。きょうはケーブルには乗らないで、尾根すじの踏み跡を下る。さすがに、晴れていると琵琶湖がよく見える。
下り坂。それほど急ではないのだが、花崗岩の風化した白砂が滑りやすく、おまけに崩れやすい。両側が切れ落ちていて危険な路だ。
ところで、さきほどの賢治短歌だが、あれでおしまいでは、夢も希望もない。が、「大講堂」のあと、「無動寺」の山みちを辿る頃には、なにか閃きを見出したように見える↓。
随縁真如
みまなこを ひらけばひらく あめつちに その七舌(しちぜつ)の かぎを得たまふ。
さながらに きざむこゝろの 峯々に いま咲きわたす 厚朴(ほお)の花かも。
暮れそめぬ ふりさけみれば みねちかき 講堂あたり またたく灯(ひ)あり。
宮沢賢治『歌稿B』#784-786
「真如」は、あるがままの真理。不変の真理が、「縁」にしたがって、さまざまな相となって現れた状態が、「随縁真如」。たとえば、水の「不変真如」は H2O だが、水蒸気、氷、液体の水、という「随縁真如」の姿で現れる、と説明される。
人間が、真理を観る眼を開けば、世界はおのずと開かれて、真理を開示する。大師・最澄は、仏の偶像でも経典でも己れでもなく、「あめつち」――大地のなかから、真理に至る「かぎ」を得たにちがいない。
2首目で、この直観を得た賢治に、真理の境域に達した喜びが、大輪の花が開くように、湧き上がってくる。
「七舌のかぎ」。延暦寺に伝わる伝説によると、最澄が開山の初め、根本中堂を建てる工事中に、地中から8つの突起を持った鍵を発掘する。これは、「八舌の鑰(けん)」というもので、中国天台宗の開祖・智顗の経蔵の鍵なのだという。智顗は、「自分の死の200年後に、東方の国で天台の思想が再興する。それまで、この経蔵は閉ざす」と言って、「八舌の鑰」を遠くに放り投げてしまった。それが出てきたので、最澄は入唐して天台山にある智顗の「開かずの経蔵」に差し込んだところ、みごとに開いたという。その「八舌の鑰」が、現在も延暦寺の宝物庫に秘蔵されているというのだ。(⇒:八舌の鑰)
しかし、賢治は、「七舌」と書いている。賢治の記憶違いだというのが通説なのだが(定本・宮澤賢治語彙辞典)、私は、あえて変えたのだと思う。“科学者”としての賢治にとって、延暦寺のオカルト説まで認めてしまうことは耐え難いからだ。
3首目。このあたりから「大講堂」の「灯」が見えたというのは、フィクションだろう。賢治がどの道を通って下山したとしても、東塔の諸堂は地形の関係で、下からは見えない。「またたく灯」とは、記憶の中にある「大講堂」の燈明であろう。現実に見た見ないはともかく、賢治は、灯がまたたいているような真理の確信を得たのだ。
その「あめつち」の「かぎ」とは、自然を科学的に探究することなのか、それとも、文学的に、自然の中に「うたごころ」あるいは童話を見いだしてゆくことなのか、あるいは、鍬をもって大地と取り組む人々のあいだに、入って行くことなのか‥‥それはまだ定まってはいない。1921年、賢治25歳の春。同年末、花巻農学校に就職する。
みずうみの北の岸まで、よく見える。
↓琵琶湖大橋と沖島。
↓先日、横川からの下山路に使った「三石岳」の尾根が見える(中央)。
ケーブル「もたて山」駅の近くを通過する。このへんから、路は、ゆるやかになる。
「裳立山 594m」↓。「裳立山之碑」とある。ゆるやかな下りで、ここに着いた。山頂というより、斜面の途中が出っ張った平らな場所だ。
“山頂”は広場になっていて、中央に「紀貫之の墓」がある。墓標が立っていて、隣りに小さな墳墓(土盛り)がある↓。
紀貫之(866? 872? - 945?)は、生前から、この場所に葬られることを望んでいたという。
「木工頭紀貫之朝臣之墳」。
「従五位・木工権頭(もく・ごんのかみ)」が、貫之が生前に達した最高の官位だった(「木工頭」は宮殿の造営修理を司る木工寮の長官だが、「権頭」は仮の長官.。任官ふた月足らずで没。臨終に際しての名誉職的人事か?)。紀貫之といえば、当代の和歌の第一人者であり、散文文学の創始者なのだが、官位はたいへん低かったのだ。
見る人も なくてちりぬる おく山の 紅葉(もみぢ)は夜の にしきなりけり
紀貫之、『古今集』より
貫之の数ある歌のなかで、私が好きなのは、こんなのだ。
雲もみな浪とぞ見ゆる海士(あま)もがないづれか海と問ひて知るべく
みなそこの月のうへより漕ぐふねの棹(さを)にさはるは桂(かつら)なるらし
かげ見れば浪の底なるひさかたの空こぎわたるわれぞさびしき
ひさかたの月におひたるかつら川そこなる影もかはらざりけり
『土佐日記』より
蘇東坡(1037 - 1101)の文章を想起する(⇒:記承天寺夜遊)けれども、蘇東坡は、100年ほど後代の人だ。天才的な詩人のインスピレーションは、時空を超えて通じあうのだろうか?
「裳立山」から、ふたたび急な下りになる。この下り路は倒木が多い。「遠見岩」で、中腹をトラバースしている「無動寺道」に出会う。
↑石碑の右から下りてくる。石碑には、「紀貫之卿墳墓 従是(これより)五叮」。左にある岩が「遠見岩」だろうか?
突き当りは崖。直進すると危険。左折して「無動寺道」を下る↓。
崩壊箇所↓。鎖が設置されている。花崗岩の砂土は、崩れやすくて危険だ。
尾根上部からの路が合流する(大津消防署「比叡10」の看板)。
約5分で、路がY字になる。左へ下りる。右の路は、先に見えている宝篋印塔へ行くようだ。
ヘッドライトは持っているのだが、ライトに眼が馴れると光の輪の外が真っ暗になってしまうので、できるだけ点けないで歩くことにしている。写真を撮ると暗いのがわかる。この日も、けっきょく最後までライトを点けなかった。
滋賀県道47号・伊香立浜大津線を渡って市街地に入り、さらに下る。「なのはな薬局」の角を左折し、突き当りの坂を右へ下る。
京阪線「松ノ馬場」駅に到着。以上で、“比叡山横断行”はとりあえず締めとしよう。翌日は、足休めに⇒:嵯峨野散策。
じつは、翌々日に南側の廃道バリエーションをしているのだが、YAMAPで公開しているので、関心のある方は「ギトン 無動寺道」で検索すると出てくるかもしれない。
タイムレコード 20211016
(4)から - 1459延暦寺バスセンター1525 [684m] - 1548「ケーブル延暦寺」駅 - 1614「もたて山」駅 - 1626裳立山(紀貫之の墓)1641 - 1657遠見岩1704 [451m] - 1718大津消防署⑩番地点1721 [387m] - 1750県道47号横断 [GPS140m] - 1806「松ノ馬場」駅 [GPS103m]。