「登山口」バス停~延暦寺西塔
↑2日目の行程。「登山口」バス停から青龍寺を経て、「峰みち」に合流(左ピーク)、「西塔」の諸堂を巡礼して「山王院」(右ピーク)、「東塔」、「ケーブル延暦寺」駅を通過、紀貫之の墓(裳立(もたて)山頂)を経て、「松ノ馬場」駅まで。シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。
大原行き京都バスに、「登山口」という停留所がある。なにやま登山口でもない。 ザ・登山口なのだ。
むかしの京都の人にとっては、「登山」といえば、比叡山登拝だったのだろう。しかし、数ある延暦寺登拝参道のなかで、ここが、ザ・登山口、ザ・登山道と言われるには、理由があろう。
地形図を見ると、この停留所から比叡山に2本の点線が延びている。1本は、「せりあい地蔵」を経て、まっすぐに横川へ通じている。もう1本は、青龍寺から、これまたまっすぐに、延暦寺西塔へつながっているように見える。
ご承知のように、比叡山延暦寺は、「三塔十六谷」と称され、数多ある堂房は「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」の3地域に区分される。そのなかで、「西塔」だけは、私はまだ足を踏み入れたことがない。青龍寺経由のコースで、「西塔」に行ってみることとしよう。
「登山口」バス停で降りる。GPS標高 175メートル。いい天気だ。↑これは比叡山と反対側。「ヒョウタン崩れ」とかいう山。
バスを降りたら、大原方向に少し行くと、小さな橋を渡る。すぐ、右に参道がある。
↑参道入口の左右に石碑が立っている。左は、「元三大師道」。つまり、横川の元三大師堂への道ということ。おなじみの石標だ。
右は、「圓光大師同脩黒谷青龍寺」と彫ってあるようだ。苦労して判読したが、まちがっているかもしれない。「圓(円)光大師」は、浄土宗の宗祖・法然の諡号(おくりな)のひとつ。青龍寺のある一帯は、「黒谷」といって、延暦寺西塔の「別所」とされる。黒谷は、法然の修業時代の主な修業場所だった。
左右の石碑で、この先で岐れる2つの参道を示しているのだろう。
5分ほどで、丁目石に出会う↑。「三丁」。登山口から3丁ということか。「三」の上の字(梵字?)は、よくわからない。このあと、「九丁」「十二丁」‥‥と、丁数が増えていく。
↓こんな調子で、暗い杉林の昇り坂がつづく。ところどころ石段風になっている。登山者が少ないせいだろう、過使用がなく、「きらら坂」より歩きやすい。
分岐点↓。直進すると「せりあい地蔵」から横川へ。右は黒谷青龍寺。右へ行く。
歩きやすい上り坂が続く。樹種がヒノキに変わり、だんだん明るくなってきた。アラカシ、イタヤカエデ、クリ、クヌギなども混じっている。
「十二丁」。
路がゆるやかになった。
青龍寺に到着。GPS高度で 574メートル。ホームページによると、常駐の僧が一人しかいないので、出かけている時は中に入れないそうだ。いま、お出かけ中らしい。
中を覗く。本堂。左の像は、法然少年と師・叡空か? 本尊は、東塔の延暦寺宝物殿に移されているそうだ。
山門前の燈籠と石碑↓。
左の大きい石碑は「黒谷青龍寺」。篆刻(てんこく)で記されている。
燈籠の胴には、「圓光大師御影前」。本尊は維摩居士(ゆいまこじ 古代インドの在家仏教徒で、『維摩経』の主人公)と法然(円光大師)の木造坐像で、かつては本堂に安置されていた。
右の2つの石碑。「真盛上人御旧跡」「圓光大師旧跡」。真盛は、戦国時代の天台宗の僧。黒谷青龍寺に隠遁して、戒律と称名念仏の一致を唱え、宮中の公家や守護大名に無欲と慈悲を説いた。
このように、黒谷・青龍寺は、延暦寺の中心部(三塔十六谷)からはるか離れた閑静な場所にあることから、経典の考究と念仏に専心する隠棲の修行場として利用されてきた。法然も、18歳(数え)の若さで出離隠遁を志し、青龍寺の叡空の門下に入ったという。その後、専修念仏の確信を得て「浄土宗」開宗を決意し、山を下りたのは、43歳の時だった。
その過程で、洛西・嵯峨の「清凉寺」に参籠したさい、同寺に集まる信徒の姿を見て、衆生救済を思い立ったという。「清凉寺」に法然の青年像があるのは、そのためらしい。(⇒:嵯峨野散策(2))
嵯峨野散策の記事で写真を出さなかったので、ここで、清凉寺の法然像を出しておこう↑
青龍寺門前から、簡易舗装の坂道を昇ってゆくのだが、道の山側におびただしい数の五輪塔と石仏が並んでいる。
五輪塔は、死者の冥福を祈るためのもの。人間も動物も、亡くなれば宇宙の塵に還ってしまう。五輪塔は、下から、「地輪」「水輪」「火輪」「風輪」「空輪」―――宇宙の5大元素を、それぞれのシンボル――立方体や球形――で表している。
この夥しい数の五輪塔は、それぞれが一人の死者を供養するものなのだろう。すべてが同じ時に造られたとしたら、「信長の比叡山焼き打ち」のような大量殺戮のためかもしれない。そう想像する人もいる。しかし、そのような大事件よりも、延暦寺開山の昔から千数百年、この山塊のどこかで修業しながら、法然や親鸞のように栄達することもなく没した人々を紀念する“聖蹟”のように、私には思われるのだ。
昇りきった頂きにも、大きめの石仏が居並ぶ↓。
↓ここで道路から外れるが、地形図には、「西塔」まで実線の路が延びているので、行ってみる。
かぼそい踏み跡が奥へ続いているようだ。そこで、しばらく歩いて行くと‥‥
ややっ! 鹿よけの柵とネットで通行止めだ。柵には、電気が通っている。
通行人が開けて通れるようになっていない。なんだか‥‥鹿やイノシシよりも、人間の通り抜けをシャットアウトするための柵に見える。(それなら「通り抜け禁止」と書けばよい)
「西塔」の「瑠璃堂」のすぐ近くまで来ているのに、戻って迂回すると、すごく遠回りになってしまう。斜面を高巻いて向う側に降りられないか、下の崖をトラバースして行けないか、など偵察してみたが、無理するのは危険だと判断した。ここで引き返すのは悔しいが、しかたがない。
これだから、山はじっさいに行ってみなければ、わからない!!!
タイムレコード 20211015
「登山口」バス停1050 [175m] - 1107「せりあい地蔵」分岐1113 [249m] - 1136丁目石「九丁」1155 - 1207丁目石「十二丁」 - 1214青龍寺1230 - 1248道路から外れる [638m]※ - 1251鹿柵ネット1258 - (4)へつづく。