比叡山延暦寺。京都側から琵琶湖側へ、2本のルートで抜けることにした。都合2日がかり。
1日目は、京都市街からのもっともポピュラーな参道「修学院道」で、最高峰大比叡に上がり、坂本ケーブルで下山。2日目は、青龍寺経由の静かな参道を延暦寺「西塔」まで辿り、「東塔」から、昨日のケーブル駅を通過、紀貫之(きのつらゆき)の墓を経て、徒歩で坂本へ下りる。
修学院駅~四明岳
↑1日目の行程。四明岳、大比叡のピークを踏んで、無動寺上部の坂本ケーブル(比叡山鉄道)「ケーブル延暦寺」駅まで。シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。
出発点は、叡山鉄道「修学院」駅。天気予報は、晴れときどき曇り。新幹線京都駅から直行したが、出発は昼近くなった。
四明岳につらなる尾根が正面に見える。このコースが好まれるのは、この景色があるからだろう。
音羽川を遡ってゆく。↓3つ並んだ山のうち、中央・手前が修学院山。左奥は四明岳のようだ。
修学院離宮が、川の対岸にある(ここからは見えない)。
「きらら橋」。ここが登山口。ひと休みして、装備を整えよう。
↓左の小径が登山道。右の道路は音羽川の管理用道路で、まもなく消えてしまう。まちがえないように、「←比叡山登山」の看板が立ててある。
この登り路を「きらら坂」という。地面が白っぽいのは、花崗岩が風化した砂だからだ。「きらら」とは、花崗岩に含まれる雲母のことだ。倒木をくぐってゆく。
クヌギが多い。クヌギのドングリは、大きめの球形で見分けやすい。髭のはえたハカマにも特徴がある。葉っぱはクリに似ているが少しちがう(緑色の落ち葉↓)。
ほかに、イロハカエデ、ヒメシャラ、山桜、コナラ、クリ、アラカシ、モチノキ、アセビなど。西国らしく、常緑照葉樹が多いが、私はあまり詳しくない。
通行止め↓。この先に、壁が崩れて通れない箇所があるらしい。去年の台風で崩壊した。
迂回路ができていて、尾根通しに修学院山のピークを踏んだあと、「きらら坂」上部に合流する。
↑迂回路とはいえ、よく踏まれていて歩きやすい。
私はむしろ、こういう尾根道のほうがいい。「きらら坂」のような古い道は、過使用で岩や石ころが多くなって歩きにくい。そのほうが歩きやすいと言う人もいるが。
下を覗くと、「きらら坂」の道が見える↓。どのへんか見当がつく。ははあ、このへんは、いちばん難儀する場所だ。両側が迫っていて暗いうえに、足もとにゴロタが多くていやになる。通行止めのおかげで得をした気分だ。
修学院山のピークに到着↓。GPS高度で 351メートル。
「きらら坂」と合流し、「水飲み対陣碑」に到着↓。GPS標高 381メートル。右から「京都一周トレイル」が合流する。進行方向やや上に、送電線鉄塔がある。
「水飲み対陣」というから、両軍の将が水を飲みながら話し合いをしたのかと思ったら、そうではないらしい。「水飲」は、ここの地名のようだ。
南北朝時代の 1336年(建武3年)6月(旧暦)、後醍醐天皇方の千種忠顕(ちぐさ ただよし)と、足利尊氏方の足利直義(ただよし 尊氏の弟)のあいだで戦われた「きらら坂の戦い」を紀念する石碑らしい。
後醍醐天皇らの「建武の新政」に離反し、楠正成、新田義貞らとの戦いに敗れた尊氏は、九州に逃れるが、筑前・豊後の援軍を得て京に攻め上る。後醍醐天皇は、皇族を引き連れ、「三種の神器(じんぎ)」を携えて比叡山に避難するが、のち北朝となる光厳上皇は、病いと偽って京都に戻り、尊氏の入京を待ち受けている。足利軍の先鋒として入京した直義が、比叡山の後醍醐方を攻めたのが、この戦い。千種忠顕は、この戦いで戦死し、「きらら坂」上部の標高620メートル付近に「千種忠顕卿戦死之地」碑がある。
ということは、この「対陣碑」の場所には、足利方の陣があったのだろうか?
千種忠顕は公家だったが、武芸をたしなみ、流刑にされた後醍醐天皇に附き従って隠岐の島まで赴き、そこからの脱出・挙兵を遂行したのも彼の働きだった。「建武の新政」では権勢を恣にしたというが、公家なのに武将と互角に戦って討ち死にするのだから、すごい。同じ足利直義の手下に無残に殺されてしまった護良(もりなが)親王とは、対照的なタイプだろう。
つまり、この「きらら坂の戦い」には、「三種の神器」の争奪がかかっていたようだ。じっさい、その後、尊氏は後醍醐方に和議を申し入れ、比叡山から下りて来た後醍醐天皇を監禁して、「三種の神器」を奪い取り、光厳上皇の弟を光明天皇として即位させてしまう。ところが、後醍醐天皇は、ひそかに吉野に逃れ、「おまえらに渡した神器は偽物で、こっちにあるのが本物だ。アッカンベ !!」―――というわけで、南北朝の争乱が始まることになる。 ⇒:wiki「千種忠顕」 ⇒:wiki「建武の乱」
(以下つぶやき)しかし、三種の神器に本物ってあるのかね ?! もし本物があったら、天照大神の岩戸隠れも、スサノオの八岐大蛇退治も、天孫降臨も、事実だったことになってしまうがの?
「対陣碑」の付近から、京都市街の北部がよく見える。↑こんもりした丘の連なりが、なんともいえず魅惑的だ。
冴えわたり
七つ森より風来れば
あたまくらみて
京都思ほゆ
宮沢賢治『歌稿B』#622
賢治は、この歌を詠んだ時、修学旅行で見た上京の風景を思い浮かべていたにちがいない。「七ツ森」は、盛岡の近郊、「小岩井農場」の南にある丘の連なりで、↑この京都の風景にひじょうによく似ているのだ。
「京都の風」とは、どんな風だろうか?
さきほど見えていた鉄塔のところまで昇って来た↓。
「浄刹結界趾」。同じ結界碑が、比叡山延暦寺の四境にある。悪い霊を入れないためだ。
おや? 隣りの結界碑は倒されている。
いまさら起こして立てるわけにもいくまいw。牛馬はともかく、「女人結界」にしたら、延暦寺も、ケーブルカーの会社もバス会社も倒産してしまう。
↓道の横の沢を見下ろすと、白い砂の崖で、草が全然生えていない。花崗岩の砂なので崩れやすく、大雨のたびに両側が崩れては、下流に運ばれてしまうのだろう。(右の岸の木立ちで、崖の高さを実感してほしい)
路にクリのいがが増えてきた。クヌギは無くなった。
自然林から、杉、ヒノキの植林に変った。林床には、常緑照葉樹の灌木が生える。↓これはヒイラギ。
690メートル付近で、「ケーブル比叡山」駅へ行く道に少し入ると、京都方面がよく見える場所があって、「ビュースポット」という看板が立っている。といっても、前の木立ちが邪魔するので、それほど展望がよいわけではない。
タイムレコード 20211014
「修学院」駅1131 [81m] - 1200きらら橋1226 [154m] - 1309修学院山1327 - 1337水飲み対陣碑1346 - 1434「ビュースポット」1447 [697m] - (2)へつづく。