【レヴュー】 笠原十九司『日中戦争全史・下』(1)――「陸軍は粗暴犯、海軍は知能犯」 | ギトンのパヴィリオン

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浜田知明 「初年兵哀歌 芋虫の兵隊」。

 

 

 

 笠原十九司『日中戦争全史・下』 高文研, 2017. 

 

 

 

 

 

 日中戦争下の中国で、日本陸軍の犯した戦場残虐行為や無軌道な戦線拡張は、たしかに目立っている。しかし、「陸軍は粗暴犯、海軍は知能犯」。戦争の開始と拡大にあたって、日本国家の中枢を、つねに巧妙に動かして着実に前進させ、上から下まで一糸乱れぬ統率のもとに、日本全体を不可能な戦争へと引き込み遂行したのは、海軍なのだ。陸軍は、決定的戦争意志を持った海軍に引きずられて暴れた低脳馬鹿にすぎない。

 

 ところが、その海軍にしてからが、“じつは本気で戦争する気などなかった”。ただ、軍備拡張によって自分たちの権力欲と名誉欲をみたそうとし、組織の繁栄を願っただけ‥‥なのだという。戦争を理由に軍備を拡張し、その結果、戦争をすることになったので、退(ひ)くに退けずに突入した‥‥というのだ。


 海軍が、陸軍を踊らせ、内閣に仕掛けて、中国との戦争を開戦させたのは、けっきょくのところ、“軍拡のための軍拡”を行なう口実にするため、最新の航空戦力を備えて陸軍に対して優位に立つため、そして、“せっかく育てた航空兵力”を、中国という実戦の場で訓練するためだった。

 しかし、「訓練」と言うからには、「本番」がなければならない。こうして、対英米戦が設定された。設定すれば、陸軍はその気になって南方のベトナムにまで進軍するし(北部仏印進駐, 1940年)、英米も本気にとって、経済制裁――製鉄原料や石油の対日輸出禁止――で牽制してくる。いまさら、「軍備はあくまでソナエ。ほんとに戦争する気はありません」などとは海軍は言えない。こうして、まるで狂気に侵されたかのように、「太平洋」という名の対世界戦争を布告し(1941年12月8日)、日本帝国は予定された末路へと突き進んだ。

 

 

 

 


 

【1】 緒戦の正面戦闘。「ジョシュー、ジョシューと人馬は進む」

 

 

 日中戦争(1937~)開始当初、日本陸軍は破竹のいきおいで華北に戦線を広げたが、まもなく膠着した。日本軍を広大な国土に散開させ、一進一退の長期持久戦に持ち込んで消耗させることが、中国国民党政府の戦略であり、戦局は、その戦略のとおりに進行したのだ。

 

 日本軍と、正規軍対正規軍の正面戦闘を遂行したのは国民党軍だったが、その一方で共産党軍は、後背地にひそんでゲリラ戦を展開した。日本軍が占領した地域は、どこでも中国共産党軍に背後から浸透されて、大部分は「解放区」となり、残りの部分も、どっちつかずの状態となった。昼間は日本軍の支配に服し、夜は事実上の「解放区」となるところも多かった。日本軍の支配は、鉄道沿線の“点と線”を維持するのが精一杯だった。

 

 日本軍は、中国の首都(当時)南京攻略して占領したが(1937年12月)、国民党政府は、長江上流の重慶に移って抗戦をつづけた。中国側は、南京で軍民の甚大な犠牲を払った(「大虐殺」の死者数は、推定10数万~20万。上巻,p.313)にもかかわらず、各地の国民党軍も共産軍も、まったく抗戦意志を揺るがされることがなかった。首都占領という「一撃」によって中国を降伏させられると思っていた(「中国一撃論」)日本政府と軍の目論見は、わずか3か月で破綻した。

 

 長期戦となった日中戦争に対して、何の方針も戦略も持たない近衛政権は、「国民政府を相手とせず」――和平工作を打ち切って、中国政府の“殲滅”をはかる――と閣議決定して粋がる以外にはなすすべがなかった(1938年1月。「第1次近衛声明」)。しかしその“殲滅”の方法としては、南京以外の主要都市も占領して親日傀儡政権を擁立するというほかにはなかった。

 

 「声明」にしたがって陸軍は、徐州、武漢、広東を攻略した。徐州では、国民党軍は、緒戦で日本軍の先鋒部隊を包囲して壊滅させたあと、本隊が進軍してくると、さっさと退却して、居なくなってしまった。日本軍はほとんど無血占領したものの、中国軍に打撃を与えるという目的は達せられなかった。そこへ、中国側は黄河を決壊させ洪水を引き起こし、広大な面積を水没させて、人の住めない土地にしてしまった(南宋以来の焦土戦術で、「以水代兵」という)。日本軍は、徐州から先への進軍を阻まれた。黄河は、この時から、戦後に修復されるまで、河道を変えて南流し、淮河に合流した。

 

 国民党軍は、武漢、広東でも同じように、「軍事力を保存するため、地域放棄の大退避作戦をとっ」た(下巻,p.48)国民党政府を“殲滅”するという日本側の目的は達せられず、陸軍は遠距離の進軍に兵力を割かれて、華北の占領地の維持が困難になった。

 

 日本陸軍は、①国民党軍との正面戦闘、②共産軍ゲリラに対する戦闘と治安維持――という「二正面作戦」に対処しなければならなくなった。それというのも、緒戦に戦線を急速に拡大した結果として、広大な占領地をかかえこむこととなり、占領維持のために膨大な兵力を釘づけにされ、消耗したからだ。

 

 これらの作戦のために、日本の軍と政府は、戦地で毒ガス兵器を使用するとともに、国内の作家、詩人、ジャーナリスト、作詞作曲家、歌手を動員して、従軍「ペン部隊」として派遣し、軍国歌謡を作らせ、新聞雑誌を従軍記であふれさせた。いやがうえにも厭戦気分を誘いかねない空しい遠征行から兵士の眼をそらし、軍首脳の無能が招いた難局を、国民の精神主義で乗り越えようとしたのだ。国民は戦勝気分に酔う一方、長期戦に向けて「国家総動員法」が公布された(38年4月)。

 

 徐州作戦を、運転手付きの自動車で“従軍”した芥川賞作家・火野葦平は、『麦と兵隊』を書き、この小説はたちまち 120万部を超えるベストセラーとなった。陸軍省の将校は、これをポリドールに持ち込んで軍国歌謡『麦と兵隊』を作詞作曲させ、レコードをリリースさせた。こちらも 100万枚の売り上げとなった。

 

 

『歌詞は、小説「麦と兵隊」が描いた行軍兵士の姿と心理がうまくうたわれている。また小説・軍歌とも『麦と兵隊』が、戦地の兵士と国民の一体感を高め、戦意高揚につながった〔…〕

 

一、徐州、徐州と人馬は進む 徐州、居よいか 住みよいか

  洒落た文句に 振り返りゃ お国訛りの おけさ節

  髭がほほえむ 麦畑

 

    〔…〕

 

三、腕をたたいて 遥かな空を 仰ぐ瞳に 雲が飛ぶ

  遠く祖国を 離れ来て しみじみ知った 祖国愛

  戦友(とも)よ来て見よ あの雲を

 

四、行けど進めど 麦また麦の 波の深さよ 夜(よ)の寒さ

  声を殺して 黙々と 影を落として 粛々と

  兵は徐州へ 前線へ

 

    〔…〕


 この歌には、中国軍との戦闘はおろか、中国の兵士も、住民さえ、まったく登場しない。登場するのは、中国人はみな避難して無人となった広大な麦畑の中を、行軍する日本の兵隊と、日本内地の故郷にいる家族だけなのだ。日本の兵士が経験した中国戦線は、強姦と殺戮の“楽しみ”以外は、徒労の行軍がすべてだった。それでも、この軍歌はヒットし、国民は好戦熱に浮かされたのだった。

 

火野〔…〕戦後は一転して公職追放をうけ、文芸界からも「文化的戦犯」の批判を浴びた。火野にとって一番こたえたのは、元兵士から「わしら、あんたに騙されて、戦うたようなもんじゃ」などと問い詰められることであった。〔…〕火野は 1960年1月、53歳で自死した。』

『日中戦争全史』下巻, pp.36-37. 

 

 

 1938年11月、近衛内閣は「第2次近衛声明」を発表した。ヨーロッパで、ヴェルサイユ体制を打破して「ヨーロッパ新秩序」を打ち立てると叫んでいたヒトラーにならって、「東亜新秩序建設」を標榜するものだった。アメリカ、イギリスなどの権益を排除して、欧米列強を追放することが、日本の戦争目的だというのだ。そして、「国民政府を相手とせず」との「第1次声明」から一転して、国民政府も心を入れ換えるなら「新秩序」に参加させてやると言う。

 

 これは、「第1次声明」からわずか10ヵ月で、国民党政府“殲滅”の方針が破綻したことを、自ら認めているに等しかった。中国“殲滅”が不可能と知ると、こんどは英米ほか列強全体を敵に回して、アジア全域に戦争を拡大する姿勢を示したのだ。この声明は、英米を硬化させ、両政府は、中国国民党政府への援助を強化することとなった(下巻,pp.49-51)

 

 

 

 

 

【2】 抗日「根拠地」、「百団作戦」と報復「治安戦」

 

 

 上右の図を見てほしい。日中戦争開始後、1941年12月の「アジア太平洋戦争」開戦までに、日本は、華北・華中の主要な領域を占領したかに見える。

 

 しかし、これに、中国共産党政権の支配域を示す左の図を重ねてほしい。日本軍の占領地の大部分は、共産党軍によって解放されて共産党政権の支配域となっており、じっさいに日本軍が支配しているのは、鉄道に沿った狭い帯の中だけだったことがわかる。

 

 共産党政権の支配する「根拠地」は、延安(①)のような・日本軍が入り込んでいない地域にもあり、日本軍占領地のど真ん中にもある(②③④⑤⑥)。共産党の支配が安定している「根拠地」の周囲には、共産党軍と日本軍が争奪を繰り返している「ゲリラ地区」が広がっていた。「根拠地」と「ゲリラ地区」をあわせて「解放区」と呼ぶ。「解放区」の外の日本軍占領地にも、共産党軍はしばしば出没しており、住民は心から日本軍に服従してはいなかった。日本の占領地支配は、けっして安定したものではなかったのだ。

 

 

共産党が統治した地域政権は、〔…〕一般的には「辺区政府」といわれた。共産党〔…〕抗日根拠地と略称〔…〕した。辺区政府=抗日根拠地政権=共産党政権は、国民〔党〕政府から独立した地方政治権力を築き、〔…〕食料・物資など生活の自給自足体制をとった。〔…〕衣料品や生活必需品は、軍隊と民衆による生産運動を発動し、紡績業を筆頭に生産合作社、鉱業合作社、農業においても協同組合などを組織して生産の拡大につとめた。

 

 抗日根拠地には、〔…〕共産党の政治工作員を養成する党学校がつくられ、八路軍兵士を養成・訓練する兵学校がつくられた。さらに簡単な兵器を製造したり、日本軍から捕獲した武器を修理する工場までつくられた。抗日根拠地で訓練された八路軍兵士や政治工作員は、各地に派遣されて民衆を抗日ゲリラに組織したりして、解放区を拡大するために活発な活動を展開した。〔…〕

 

 抗日ゲリラ地区は、抗日根拠地を中心にした周辺の広大な地域に形成された。そこでは住民(多くは農民)が武装して民兵(ゲリラ兵)となり、住民と結びついて遊撃戦(ゲリラ戦)を展開した。』

『日中戦争全史』下巻, pp.119-120. 

 

 

 日本陸軍は、1939年から、抗日「解放区」に対する「治安戦」をはじめた。「治安戦」は日本側の言い方で、中国側ではこれを「三光作戦」と呼んでいた。現代中国語で「光」という字には、「ハゲる」「不毛にする」という意味がある。「三光」とは、「焼光・殺光・搶光」(焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす)のこと。日本軍の「治安戦」の実態は、共産党か一般住民かの区別なく、作戦地域に対して無差別の放火、殺戮、略奪を徹底して行なう掃討戦だったからだ。

 

 「南京大虐殺」は、軍司令官が兵士に、そうしろと命じたわけではなく、軍は兵士の無秩序な逸脱行為を、放任し、助長し、褒賞したにとどまる。ところが、「三光作戦」は、日本陸軍の正式の作戦計画に基いて、命令によって行われたのだ。

 

 

Eugene Delacroix: The Education of Achilles, 1862.    

 

 

 しかし、「解放区」に対する「治安戦」=「三光作戦」が、本格的に行われるようになるのは、1940年八路軍の「百団大戦」によって日本軍が手痛い打撃をこうむったあと、その報復としてであった。(共産党軍は、華北・延安を中心とする「八路軍」と、華中・華南の「新四軍」[「長征」出発地にとどまった部隊。下巻,p.138]があり、解放後に統合されて「人民解放軍」に改称された。「路軍」は、国民党の「国民革命軍」の編制単位。「国共合作」で、共産党傘下の軍隊は、国民革命軍の一部として編入されたことによる。)

 

 

『1940年8月20日、八路軍は華北の主要鉄道・通信線・抗日根拠地にくいこんだ日本軍の拠点などにたいして、全勢力をあげて奇襲攻撃をくわえた。

『日中戦争全史』下巻, pp.121-122. 

 

 

 この作戦には「八路軍」所属の 115団40万人が参加したので「百団大戦」と呼ばれる。特徴的なのは、それまではもっぱらゲリラ戦による間歇的な小規模戦闘に終始していた共産党軍が、大軍団を投入した正規戦に出たことだった。日本軍は、共産軍を甘く見て、小守備隊の分散配置をとっていたために、各処で孤立して奇襲を受け、大打撃をこうむった。

 

 日本側は、114か所の線路、73か所の橋梁を破壊され、20棟の駅舎を焼失し、通信施設、電柱、電線の被害合計 2500件余り、双方に各2万名程度の戦死傷者を出した(日本側統計による日本側死傷者は、推定1万5000名程度)。共産軍側の武器・装備が著しく劣っていたことを考えるならば、物損において一方的、人損において互角の結果は、日本側の惨敗を意味した。寝首を掻かれた「北支那派遣軍」は、「皇軍の威信」失墜にいきり立った。

 

 共産党軍が「百団大戦」の攻勢に出た理由は2つあった。①40年3月、国民党の長老だった汪精衛(汪兆銘)が日本側に寝返って、南京で親日傀儡政権を立ち上げた。そのため、華北の民衆、抗日統一戦線に動揺が生じた。②武漢を占領した日本軍は、ここに航空基地を造成し、海軍航空隊が重慶を日常的に空襲爆撃するようになった。また、第2次大戦勃発後の英米は、ヨーロッパ戦線に力を奪われ、重慶国民党政府への援助物資が滞るようになった。そのため、国民党政府の抗戦意欲低下、降伏投降が憂慮された。

 

 そこで、共産党政府としては、ここで日本軍に対して目立つ戦果をあげて、国民党と中国民衆の戦意を向上させる必要に迫られたのだった。


 日本陸軍「北支那方面軍」は、40年8月31日、「百団大戦」に対する報復の「治安戦」に着手した。

 

 

『第一軍参謀長の田中少将は、「徹底的に敵根拠地を燼滅掃討し、敵をして将来生存する能はざるに至らしむ」と厳格に指示した。』

『日中戦争全史』下巻, p.123. 

 

 

 つまり、中国側の言う「三光作戦」そのままの指示が、正式の軍命令として行なわれていたのだ。

 

 

百団作戦は、北支那方面軍の八路軍に対する認識を一変させ、〔…〕主敵が国民政府軍から共産党軍に移っただけでなく、軍隊を相手にすることから、抗日民衆を相手にする戦闘に変化していったのである。〔…〕治安攪乱の主体は共産主義化した民衆であるので、〔…〕民衆を主要な敵とみなして、殺戮・掠奪・放火・強姦など戦時国際法に違反する非人道的な行為を犯してもかまわない、という本格的な三光作戦の方針が打ち出された。〔…〕抗日根拠地や抗日ゲリラ地区の軍民に対する皆殺し作戦を実行した。』

『日中戦争全史』下巻, pp.124-125. 

 

 

 こうして、村民のジェノサイド(集団殺戮)、“収容所部落”への監禁監視、無人地帯の設定と耕作禁止、毒ガスで、隠れ家から“あぶり出し”ての刺殺、細菌兵器攻撃のほか、婦女強姦も、「南京」とは違って、上官の命令下に組織的に行われた。連行・監禁して“部隊付き慰安婦”とする場合もあった。

 

 1941年対米英開戦後は、中国の通常の占領地においても、「三光作戦」に近い行為が日常化した。日本は、対米英戦を補給するために、占領地から大量の物資と労働力(奴隷的連行!)を「奪いつくす」必要があったからだ。

 

 1943年、山西省の北支那方面軍の下で「宣撫工作」に従事した村上政則は、特務機関員の厳しい督励を受けながら、農民から穀物を「収買」(事実上の供出)する役目を担当したが、割り当てられるノルマ「収買」量は重く、達成するのは難しかった。そこで、当県の割当量は過重で、強いて収買すれば飢餓をもたらすと意見を述べたところ、特務機関長の大佐は、軍刀を突き立てて、

 

『「つい先日、アッツ、キスカの両島において、〔…〕皇軍2万の兵士が玉砕したばかりだ。たかが中国人の30万人や50万人、餓死させたからといって、それがどうしたというのだ。貴様はわれわれに協力しない部落の一軒でも焼いたことがあるのか。貴様は中国人になめられてしまっているのだ」』

『日中戦争全史』下巻, p.255. 

 

 と怒鳴った。そして、「督励班」の腕章を付けたS中尉が、特務機関から派遣されて来て、

 

『「村上顧問、見せしめに一軒火をつけようじゃないか。一人や二人殺したってかまわんよ。皆の前でなぶり殺しにすると、隠している食料を全部持ち出してくるぞ。どうだ、やってみようじゃないか。割当量ぐらいすぐ集まるよ」と言った〔…〕中尉は村長をはじめとする村の有力者4人を集めて、軍刀で耳を削りながら「食糧を出せ、もっと出さないか」と脅迫したのである。村上は、耳を切り落とされかかった村長らが血まみれのタオルをかぶって苦痛にのたうち回っているのを目にした。』

『日中戦争全史』下巻, pp.255-256. 

 

 

 このエピソードで、特務機関長が「玉砕」を引き合いに出して、残虐行為を正当化していることに注意したい。「玉砕」は、それ自体において密殺を含んでいるだけでなく、その集団の外部に対して、社会的《暴力》として広汎に機能するということだ。「玉砕」は単に犯罪であるだけでなく、重大な社会的影響をもたらす凶悪犯罪である。

 

 

 

 

 

【3】 「太平洋戦争」開戦

 

 

『日本の軍部は満州を除いた中国大陸における2つの戦場に 85万の軍隊〔「北支那方面軍と南支那方面軍: 1940年初頭〕を釘づけにしたまま、勝利の展望もなく、完全に行き詰った状況に陥っていた。』

 

 ところが、軍部中央は、重大な懸案であるはずの中国戦線にはもはや関心をもたず、北は「対ソ戦」の幻影を追い、南へは、ベトナム、タイ、ビルマへの進攻が企てられた。手っ取り早く戦果をあげられる(と誤想させてくれる)ような作戦を求める「一撃主義」が、あいかわらず幅をきかせていたのだ。

 

『支那派遣軍参謀〔…〕堀場一雄中佐は〔…〕「中央に於ては支那事変は〔…〕次等の問題に堕しあり」と記し、日中戦争が〔…〕二の次の問題とされ、日中戦争の解決を真剣に考える態度が国内でも弱まったことを嘆いた。さらに「世界情勢の進展に幻惑され、中央が不羈奔放の世界政策に出て、〔…〕多岐にわたる新目標を抱懐しある」〔…〕日本の政府と軍部は、〔…〕日中戦争を処理・解決する人材と意志を欠如したまま、ドイツの進撃に幻惑されて、〔…〕北進政策と南進政策の強行によって、あたかも日中戦争の膠着状態も打開できるかのような誘惑にかられていった〔…〕

 

 1941年6月22日、ドイツ軍が独ソ不可侵条約を一方的に破ってソ連に侵攻、独ソ戦が開始されると、日本の軍部・政府ともにアジア太平洋戦争突入にむけて国策を急転回させた。

 

 〔…〕日本の陸軍指導者層には、〔…〕妄信が固定していて、独ソ戦についても、〔…〕あたかもドイツとともに日本が大戦勝を獲得することがまちがいない状況にあるかのごとき気分が流れていた』

『日中戦争全史』下巻, pp.169-170. 

 

 

 しかし、この6-7月の段階では、「北進」「南進」双方の主張が争っていて、対米英開戦(=「南進」)の方向が決定していたわけではない。近衛内閣、松岡外相、陸軍参謀本部がまず狙ったのは「北進」、つまり対ソ連戦争の開始であった。

 

 1941年7月13日、陸軍は兵員70万、軍馬14万、飛行機600機を動員して、満洲北部の対ソ連国境に集結させた。1万人の朝鮮人慰安婦も搔き集められた。「関東軍特種演習(関特演)」という名目でカムフラージュしていたが、8月10日開戦決定、29日作戦開始とされた。

 

 日本の軍と政府は、ドイツの攻勢を受けて極東のソ連軍は西送されて戦力のスキができると見ていた。ドイツ軍の電撃侵攻で、ソ連国家そのものが直ちに崩壊すると思っていた。ところが、極東のソ連軍はいっこうに減らず、西方のソ連軍は体勢を立て直して、独ソ戦は長期戦の様相を呈した。8月9日、陸軍は「作戦要綱」を改訂して、対ソ戦開戦を断念した。

 

 そこで、がぜん息を吹き返したのが、海軍を中心とする「南進」論だった。そこに、陸軍の作戦課長服部卓四郎中佐と参謀辻正信少佐が合流した。この2名はノモンハン戦争(1939年。日本・関東軍とソ連の国境紛争)でソ連の反撃を受けて惨敗した経験から、「南進」論に転向していたのだ。

 

 

 

 

 これに先立って、海軍は、41年7月「南部仏印進駐」を敢行した。当時フランスはナチスドイツに占領されて傀儡政権(ヴィシー政府)が支配しており、日本の侵略に協力的だったので、日本軍はベトナム全土を平和裡に占領することができた。そこで、英米も進駐を容認するだろうと、日本海軍は思っていた。

 

 しかし、日本軍がサイゴン(現・ホーチミン市)を手に入れれば、航空基地を造って、英領マレーシアを爆撃することができる(じっさいに、占領後の日本は、そうした)。さらに、タイへ、ビルマへと、日本軍の「南進」には歯止めがなくなる。南ベトナムは、英米が敷いたレッドラインだったのだ。日本の「南進」の主要な意図は、インドネシア(現)に侵攻して油田を手に入れることだったが、英米オランダはそれも読んでいた。

 

 「南部仏印進駐」に対して、英米ほか列強諸国は、矢継ぎ早に経済制裁を実施した。進駐開始の翌日(7月23日)、ルーズヴェルト大統領は駐米日本大使を呼んで、蘭印の油田に侵攻すれば、英米蘭と戦うことになる、と警告した。アメリカは、25日には在米日本資産の凍結を発令、8月1日には対日石油輸出の全面禁止を発動した。イギリスも、7月26日、日英通商条約を廃棄、これにならってインド、ビルマも日本との通商条約を廃棄した。28日には、オランダが日蘭石油協定を廃棄した。英・米・中は、7月25-26日に重慶の中国国民政府で「軍事合作協議」を開き、米中航空隊の軍事協力が決められた(下巻,p.182)

 

 ところが、これらの経済制裁は、日本の「南進」(対米英開戦)を抑えるどころか、かえって日本軍部の「南進」論者に決定的な論拠を与えることになってしまった。「石油の禁輸が発動された! 早く開戦して、国内に石油の備蓄があるうちに、インドネシアを占領してしまわなければならない」――と言うのだ。「窮鼠猫を噛む」と言うが、バカな鼠は、ネズミ捕りに向かって突進するのだ。経済制裁も、相手を見て発動しないとならない、という教訓を、アメリカは得たにちがいないww。中国も北朝鮮もイランもロシアも、日本ほどの粗暴馬鹿ではない。

 

 (戦後の日本では、一時期、「太平洋戦争はアメリカのせいだ。アメリカが石油を禁輸したから、日本は開戦せざるを得なくなった。」との俗説がもてはやされた。左翼がインターナショナルを唄いながら、そんな御託を吹聴しまくった。「対米従属」がどーしたこーした、何でもアメさんのせいにする甘ったれ根性の極みであった。まったく、馬鹿は死滅するまで馬鹿なのである。)

 

 1941年9月6日、大本営御前会議は、対米英蘭開戦の「帝国国策遂行要領」を決定した。10月上旬までに要求〔制裁解除〕の貫徹が見込めなければ、「開戦を決意す」と記された。日本側からは何の譲歩もなく、たった1ヵ月でアメリカ側が制裁を撤回することはありえなかったから〔たとえば、アメリカは、中国からの日本軍の撤兵を要求していたが、東条陸相は、「陸軍の生命だ。絶対に譲れない。」と断言した。pp.197,198〕、これは事実上の開戦決定だった。

 

 それでは、ほんとうに、「早く開戦」すれば、インドネシアの油田を奪い取って、対米英蘭戦争を有利に展開できる可能性はあったのか? 総力戦遂行に必要な資源は石油だけではない――という一事をとっても、可能性がないことは明らかだった。開戦論の中心であった海軍首脳は、どう考えていたのか? 本心では「不可能」と知っていた。にもかかわらず、開戦を主張し、準備を進めた

 

 連合艦隊司令長官山本五十六は、「御前会議」の決定にしたがって開戦準備出動を発令しながら、非公式の個人的会話では、相手次第で言うことが変った。近衛首相に対しては、「初め半年か1年のあいだは、随分暴れて御覧に入れるが、2年3年となれば確信は持てぬ。」と言った。海軍次官に対しては、9月26日ころ、

 

『「長官としての意見と、一大将としての意見は違う。長官としては〔…〕これでもやれぬことはない。一大将として言わせるなら、日本は戦ってはならぬ。結局は国力戦になって負ける。」』

『日中戦争全史』下巻, pp.208. 

 

 と言い、同席した第1~第4艦隊の各長官も、山本と同意見であった。

 

 ところが、海軍首脳は、海軍の外では、決してこのようなことは言わず、対米英開戦を強力に主張しつづけた

 

 対ソ連開戦を断念したあと対米英開戦に転換した陸軍も、「御前会議」決定以後になると、海軍の“本心”に疑念を抱きはじめた。

 

 

 

 

 

 最終的な開戦決定の期限とされた10月に入ると、海軍大臣は、「首相に一任する。」としか言わないようになった。そして、海軍省軍務局長から内閣書記官長あてに、

 

『「海軍は〔…〕戦争をできるだけ回避したい。しかし海軍としては表面に出して之を言うことはできない。〔…〕海軍大臣から和戦の決は首相に一任するということを述べる筈になっているから、そのお含みで願いたい」』

『日中戦争全史』下巻, pp.198. 

 

 と伝えさせた。「一任する」と言われた近衛首相は、いま開戦しなければ「戦機を逸する」と主張する東条陸相を説得できず、かといって、自分が開戦の責任を負いたくはなかったので(「大東亜共栄圏」をぶちあげて対米開戦を煽動してきたのは、近衛文麿その人であったにもかかわらず!)、総辞職してしまった。

 

 陸軍省軍務局長武藤章は、

 

『内閣書記官長のところに来て、「〔…〕海軍が本当に戦争を欲しないのならば陸軍も考えなければならない。〔…〕海軍が『この際戦争を欲せず』ということを陸軍のほうに言ってくるならば、陸軍としては部下を抑えるにも抑えやすい。何とか海軍のほうからそういう風に言うてくるように仕向けて貰えまいか」と言ってきたのである。』

『日中戦争全史』下巻, pp.198-199. 

 

 そこで、書記官長はこれを海軍省に伝えたが、海軍の回答は、「戦争を欲しないということは、どうしても正式には言えない。」ということだった。

 

 10月18日、総辞職した近衛内閣に代って、東条英機内閣が成立し、11月5日、あらためて「帝国国策遂行要領」を決定したが、こんどは、12月1日午前零時までに日米交渉が妥結しなければ、開戦するというのであった。妥結不可能なことは、誰の眼にも明らかであった。

 

 

『全面戦時編制への移行は、陸軍からみれば、戦争決意を伴わずにはできないことなのに、海軍は「決意せざるまま」アジア太平洋戦争開戦へ向けて「出師準備」に拍車をかけて、そのまま12月8日〔開戦〕に突入していった〔…〕

 

 山本五十六〔…〕ら海軍首脳は、本心では「日本はアメリカと戦ってはならぬ」と思いながら「やむをえず」対米開戦に入ったということになるが、その「やむをえず」という理由として、〔…〕陸軍の対米英開戦論者から追及されれば、〔…〕海軍の既得権益を守るためには反論できなかった〔…〕

 

 「〝戦えない〟というようなことを言ったことがですね、陸軍の耳に入ると、〔…〕海軍は今まで、その、軍備拡張のためにずいぶん予算を使ったじゃないかと、それでおりながら戦えないというならば〝予算を削っちまえ〟と〔…〕〝陸軍によこせ〟と〔…〕そういうふうになっちゃ困るからというんでですね、〔「戦えない」「戦いたくない」とは〕一切言わないと。」(海軍軍令部作戦課員三代一就の証言)

 

 海軍のセクショナリズムからくる「身内の論理」が、日本国家と日本国民の命運よりも優先されたのである。

 

 海軍省軍務局第一課長だった高田利種が戦後の証言で

 

 「海軍の心理状態は〔…〕戦争しないで片づけたい。しかし、海軍が意気地がないとかなんとか言われるようなことはしたくない、ということですね。ぶちあけたところを言えば。」と述べている。』

『日中戦争全史』下巻, pp.206-209. 

 

『1939年に第2次世界大戦が勃発して以後 40年までは、アメリカがナチスドイツのヨーロッパ制覇を阻止するために、対独作戦を最重要視し、日本に対して宥和政策をとったことに乗じて、海軍は〔…〕北部仏印進駐をはかり、しだいに東南アジア進駐をめざした南進政策を進めた。アメリカに屑鉄・石油などの軍需物資を依存しながら、対米戦争に勝利するための軍需拡大・増強をはかり、アメリカの植民地であるフィリピンをふくめた東南アジア進出を企図したのである〔…〕

 

 ドイツ軍のいきおいに陰りが見えた段階で、アメリカが 41年7月の南部仏印進駐をきっかけに対日石油全面禁輸にふみきったのは当然のなりゆきであった。

 

 いっぽうで〔…〕南進論に転換した陸軍統帥部と、大東亜共栄圏構想を打ち上げた近衛内閣とそれに扇動された国論の高まりにより、今さら「アメリカと戦争したくない」「戦争をしてはならぬ」などと公言できない立場に追いこまれたのが海軍首脳だったのである。』

『日中戦争全史』下巻, p.211. 

 

 まして、

 

『これまで、対米決戦にそなえて猛烈な訓練を重ねてきた海軍各部隊の将兵たちの戦意は非常な高まりを見せ、その勢いは、〔…〕海軍首脳にはもはや制御不可能になっていた。』

『日中戦争全史』下巻, p.203. 

 

 

 なお、敗戦後、連合軍によって戦争犯罪人を裁くための「極東軍事法廷」が開かれるや否や、生き残った海軍幹部たちは集まって、↑上のような経緯を伏せたうえで、開戦の責任を、挙げて陸軍と近衛文麿になすりつけるべく、「海軍善玉論」――海軍は「太平洋戦争」開戦に反対だった、との神話を作り上げた。こうして、海軍からは一人の死刑も出さずにすんだほどの成果を上げたのだった。

 

 どんな場合にでも、いちばんの悪玉は処罰をすり抜け、かえって世間から同情されたり、もてはやされるのである。

 

 

 

 

 

 

 


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黄河の河口、海水との潮目