こちらの抄録⇒:本と奇妙な煙『マルクスとフランス革命』 がよくできているので、私の簡単なレヴューを見たあとは、↑抄録で内容見本を確かめたうえで、購入(または不購入)に進まれるのがよいと思います。
著者は「フランス革命史の大家」とのことで、かのマルクスの時代と比べたら、もぉ格段に進歩している現代のフランス革命史研究の水準で批評すれば、19世紀の田舎ッぺのフランス革命論なんか、鼻くそにもなりませぬw
いやいや、そう言うのはまだマルちゃんの肩を持ちすぎ‥‥と言われかねないのは、著者は、マルクスを、ギゾー、トックヴィル、スタール夫人といった同時代の歴史家との比較でも、こき下ろしているからです。著者によれば、マルクスのフランス革命認識は、「遅れたドイツ」の自虐史観と、「唯物史観」の公式にばかり頼ろうとして、矛盾だらけ。まして、師ヘーゲルから見れば、。。。(←要約するのが面倒なので、あとは本を見てください)
マルクスが認識していたフランス革命と、現代の研究水準で見たフランス革命と、どこが違うのかというと‥‥、
もぅごく大ざっぱに言ってしまうと、「フランス革命 1789-1799」というのは、ひとつの革命ではなくて、「貴族の革命」「ブルジョワジーの革命」「サンキュロット(都市民衆)の革命」「農民の革命」といったいくつもの「革命」が互いに争いながら、主導権を握ったり奪われたり、同時進行している(これは、一昔前のジョルジュ・ルフェーブルによる「複合革命論」という歴史認識)。それに対外戦争も加わって、最終的には(当初目指していた民主政ではなく)ナポレオン帝政に行き着くのです。
ところが、マルクスは、“フランス革命はブルジョワジーが絶対王政を倒した偉大な革命だった”という公式に固執するもんだから(←ゲスな言い方ですなw)、彼の論述には、いろいろな矛盾が起きてしまう。
しかも、著者の場合には、その「複合革命論」よりもさらに進んで、そもそも、そうした“階級矛盾が革命を引き起こす”という見方では、フランス革命は解けない、「国家」の政治過程は、階級のような社会関係に完全に照応しているわけではなくて、政治は政治で自立的な動きをするんだ、という史観なのです。じっさい、そう考えなくては、ロベスピエールの独裁・恐怖政治とか、けっきょく最後にはナポレオンが皇帝になってしまうとか、説明がつかないわけです。
著者の見るところでは、マルクスという人は、青年時代から、“近代市民社会における平等”ということが、ほとんど「強迫観念になって」脳裡にあった。ブルジョワジーは「自由」と「平等」をかかげて封建貴族と闘い、「公民権の平等」という価値を認めさせたのだけれども、ブルジョワジーの「自由」な経済活動は格差を生み出し、封建社会以上に不平等で、しかも「今だけ、カネだけ、自分だけ」の世知辛い社会ににしてしまった。ブルジョワジーのイデオローグたちが言う「人権」も「自由」も「平等」も「三権分立」も、みんな幻想だ!‥という“極論”に固執するわけです。
マルクスの意見は、当時の一方の批判としてはたいへん重要で、20世紀になると、その影響もあって「人権」体系も修正されていくわけですが、こと歴史叙述ということになると、それにばかり固執していたのでは歪められるし、説明のつかないことばかりになってしまうわけです。
それでも、青年時代のマルクスは、ヘーゲル派の先輩フォイエルバッハから学んだ《疎外》という考え方で、「市民社会」(社会経済界)と「国家」(政治の世界)との矛盾を、何とか説明しようとしていた。ところが、『共産党宣言』を書いて、「1948年革命」の敗北を経た 1950年ころ以降は、《疎外》論を捨てて ≪私はそうは思わないのですが、フランスではアルチュセール以来、後期マルクスは《疎外》論を捨てた、というのが通説になっているようです≫ 経済学批判の研究に逃げ込んでしまったので、いよいよフランス革命史は、彼にとって「大きなナゾ」となって残った。
しかし、1850年以後も、マルクスは何度かフランスの革命について考える必要に迫られた(たとえば、1870年の「パリ・コミューンの乱」勃発)。そこで彼は、部分的には自分の立てた「唯物史観」の公式に反して“国家と政治過程の自立性”を認めたりしているものの、けっきょくいつも最後は、すべてを「階級利害」で説明する無理な歴史把握に陥ってしまっているのです。
そこで、1850年以後のマルクスは、この2つの考え方の間を行ったり来たりすることになります。たとえば、ルイ・ナポレオンの「第二帝政」は、ある時には、支配階級ブルジョワジーの利益に奉仕する政権だと言ったり、そうかと思うと逆に、ブルジョワジーに反感を持つ農民大衆の願望に応える政権だと言ったり、はたまた、そうした社会的な利害関係からは自立した、絶対王政以来の伝統に基づく中央集権的行政国家だと言ったり。しかも、その中央集権的行政国家を生み出したのは、支配階級でも「国家」自身でもなく、資本主義的「市場」なのだ、“政治の世界”は“経済社会の動向”で決定されているのだ、‥などとコジツケを言って、お得意の「公式」を繰り返したり。
「マルクスの矛盾の多くは、帝政国家を、ブルジョワの利害に奉仕する純然たるブルジョワ支配の産物として分析すると同時に、社会から完全に自立した、独自の現実と歴史をもつ存在としても分析するところから生じている。〔…〕マルクスは、〔…〕それらを交互に利用するのである。一方で、市民社会は歴史の唯一の現実であり、ブルジョワジーは近代世界の機械仕掛けの神である。他方で、このブルジョワジーは市場をその特権的な活動領域にしており、社会的なものと政治的なものとを決定的に分離したのは、国家でも支配階級でも統治階級でもなくまさにこの市場なのである。〔…〕マルクスは、この二つの分析の道筋をいちども論理的に整合させることなく、一方のあとに他方を利用することになる。矛盾はそこから生じているのである。
〔…〕彼は実際、社会の歴史から独立した国家の歴史が存在するということ、また、第二帝政がその帰結にすぎないということを示唆している。〔…〕この国家がその前任者〔絶対王政〕の仕事を完成するのは、国内市場の条件を生み出すことによってであり、その点ではたしかにブルジョワ社会の要求に従っている。だがこの国家は、みずからの権威の中心性やみずからの権限の拡大を通じて、また、軍隊や官僚機構を従えることによって、ブルジョワ社会にのしかかり支配するのである。
〔…〕中央集権化された行政国家は、〔…〕絶対主義が開始したものを、『フランス革命という巨大な箒の一掃き』が仕上げたのである。また、このひと掃きによって、近代国家の建設という第一帝政の仕事に必要な社会的条件が生み出された。〔…ところが〕マルクスにおいてこうしたプロセスの鍵をにぎっているのは、〔当時の歴史家たちが注目した〕『民主主義』ではなく、ブルジョワ社会の発展なのである。
同様に、19世紀における国家の発展も、〔マルクスによれば〕このブルジョワ社会の必要と一体不可分である。すなわち、分業によって規定された経済的・社会的必要と、労働者に対する抑圧と結びついた政治的必要である。しかしながら、この発展は最終的に社会から自立した巨大な実体を生み出すことになり、この実体は 1851年12月2日〔ルイ・ナポレオンのクーデター。その1年後には国民投票によって皇帝に就任する。〕に社会に対してみずからの法を押しつけることに成功する〔。つまり、マルクスの論理は、彼自身を裏切って、「公式」に反する結論を導いてしまう〕。」(pp.126-128.)
というわけで、本書はマルクスに対しては、かなり辛辣な評価を下しています。本の宣伝や紹介には、なぜか、そのことが書かれていないんですが。。。
「マルクスは神様です! マルクスが批判されるなんて、耐えられないっ!!」
という人が、もしもいたら(いるわけないか。。。)、同じフランスの著者でも、
『フランス革命とマルクスの思想形成』 ←こちらのほうがいいかもしれませぬ‥
ともあれ、本書で赤裸々にあばかれたマルクスの“矛盾にみちた”歴史認識は、むしろ、日本の《明治維新》のような、革命だか何だかわからない、資本主義だか古代復帰だかわからない、わけわからんものを理解しようとする際には、おおいに参考にできるかもしれませんな。。。
著者について↓
「フランソワ・フュレ(François Furet、1927 - 1997)はフランスの歴史学者。政治思想史、フランス革命史およびフランス革命の研究史(史学史)を専門とし、恐怖政治を『革命からの逸脱』として論争を巻き起こした研究書『革命』、革命の『脱神話化』を目指す著書『フランス革命を考える』、革命を『現象』として捉えた『フランス革命事典』などを著した。1989年の東欧革命以降は、共産主義の『幻想』の歴史を読み解き、共産主義とファシズムを20世紀における2つの全体主義として、両者の闘争の軌跡を描いた『幻想の過去 - 20世紀の全体主義』を発表した。
第二次大戦中、フュレは対独レジスタンスに参加した。1949年に共産党に入党し、同時に、第二次大戦中に共産党主導の対独レジスタンスに参加した共産主義者、キリスト教徒、自由思想家らによって1948年に結成された『平和運動』に参加した。彼は1956年のハンガリー動乱に対するソ連軍の介入を機に共産党を離れた。サルトルら『レ・タン・モデルヌ』誌の知識人が結成した『左派クラブ』と接触を持ったことで、共産党の監視委員会に出頭を命じられた。1982年には、非共産主義の立場から左派の思想的基盤を作り直すと同時に、自由主義の観点から時事問題に取り組むための大学教員、政治家、財界人の話し合いの場として歴史学者・社会学者のピエール・ロザンヴァロンとともに『サン=シモン財団』を創設し、会長を務めた。
歴史学者としてのフュレは、アナール学派として出発したが、1980年代に入って『アナール学派の外で』フランス革命について研究を始めた。これは、アナール学派的な多様性が他方において歴史の細分化につながり、『歴史がパン屑のように散らばってしまった』と考えたからである。
フュレは後にソルジェニーツィンに言及し、ジャコバンはボリシェヴィキを想起させる、強制収容所グラグは恐怖政治を想起させる、同じ目的で作られた機構だからだと批判に応えている。『フランス革命を考える』はフランス革命の記述ではなく、フランス革命が歴史学者によってどのように記述されてきたかをたどる、フランス革命の研究史(史学史)であり、過去の歴史学者によって「歪められた」革命像を批判的に検証し、トクヴィルとオーギュスタン・コシャンの研究に基づいて革命の『脱神話化』を目指すものである。
1995年に『幻想の過去 - 20世紀の全体主義』を発表した。『フランス革命を考える』においてフランス革命の神話化を指摘したのと同様に、20世紀の共産主義についても『非常に強いカ・セクシス(備給。フロイトの用語。[心的エネルギーが特定の対象に向かい、そこに貯留されること])』が働いていたとし、これをソ連の歴史や共産主義の歴史ではなく、宗教的な幻想と同様の『共産主義の幻想の歴史』として読み解き、共産主義とファシズムを20世紀における2つの全体主義として、両者の闘争の軌跡を描いている。」(Wiki「フランソワ・フュレ」)
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