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「伊勢原」駅前にある案内地図

 

 

 「大山」から「日向薬師」へ下りる。下り道をまちがえると悲惨だから、道標をよく見て探す。↓あ、これだ。

 

 

 

 

 標高 約150mの「日向薬師」バス停まで、標高差 1100メートルあまりだが、人出はヤビツ峠と変らない。登って来る人にも出会う。

 

 中央の尾根が表参道↓。ケーブルカーと下社は、その左の谷間にある。「日向薬師」に下る尾根は、さらにその左。

 

 

 

 

 ↓ブナが多い。しかも、幹の太い古木ばかりだ。新しい樹は育っていない。絶滅を運命づけられた小氷期(天明・天保時代)のレリックなのだ。
 

 


 

 

 リョウブか、ナツツバキか、ヒメシャラか。葉のない季節には悩むところだが、ヒメシャラと見た。いずれにせよ、この付近はほぼ純林になっている。

 

 


 

 

 ↓表参道の尾根。さっき撮った写真と比べると、だいぶ下りてきたのがわかる。その先の海岸部の高まりは、大磯の高麗山(こまやま)~湘南平。

 

 


 

 

 ↓このあたりは、モミの高木が立ち並ぶ。ブナの巨樹も、まだ時々あって、混交している。この斜面は、メルヘンのような“巨樹の森”だ。

 

 


 

 

 常緑照葉樹もある↓
 

 


 

 

 葉は全縁で、長楕円形から、ずんぐりした楕円形まで。やや波うつ。アカガシのようだ。
 

 


 

 

 アカガシ。図鑑には、丘陵に生えると書いてあるが、ここの標高は 800~1000m。高山帯の樹木であるブナ、モミと混交している。ブナが照葉樹と混交するなんて、この森は、ほんとうにおもしろい。

 

 しかも、各樹種は、一様に混ざっているのではなく、あちこちで、同種がモザイク状にかたまって生えてもいる。森林生態学の教科書のような“モザイク林”だ。

 

 ↓「見晴台」という休憩場所に出る。標高は 730m圏。出発点のヤビツ峠よりも低いところに下りてきた。


 


 

 

 「見晴台」というが、まわりの樹木が成長してしまって、残念ながら展望はあまりよくない。それでも、北側の三峰山 935m が木の間越しに見える↓


 


 

 

 「見晴台」から、平坦な尾根を 10分ほど行ったあと、キャンプ場への路を分けると、「九十九曲り」のツヅラ折れの下りになる。ツヅラの幅は次第に狭まり、車道と交差して、さらに下ると、「ふれあい学習センター」の下で、登山口に降り立つ↓。ここからは車道歩きだ。


 


 

 

 この「日向(ひなた)という谷間には、古い寺や旧跡がたくさんある。日本遺産に指定されている。大山の「石尊社」を中心とする山岳仏教の名残りなのだろう。ここにも、明治の「廃仏毀釈」の爪痕は見られるが、神社がないのは、せめてもの抵抗の証しであろうか。

 

 


 

 

 ↑「石雲寺」。門前の石碑によると、壬申の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)に敗れた大友皇子が、関東に落ちのびて「日向」に隠れ住み、没後に皇子を弔うため、この寺が建立されたとの伝説を持つ。近くには、大友皇子の“墓”とされるものまである。

 

 この寺の境内にも、「雨降石」をご神体とする「石尊社」があり、大山山頂の「石尊社」を崇める「大山寺」と、正統性を争ったという。戦国時代には、小田原・北條氏の庇護を受けたが、江戸時代の初め、「大山寺」衆徒の焼き打ちに遭って、本堂を焼失している。


 


 

 

 清冽な水が流れている。「日向渓谷」という名前が付いている。

 

 


 

 

 ↑「浄発願(じょうほつがん)寺」。徳川幕府の保護を受けた“駆け込み寺”。殺人・放火以外の罪人は、ここに駆け込んで処罰を免れることが認められていたという。

 

 


 

 

 谷口から平野の風景が覗く。厚木市街。地平線は横浜のようだ。

 

 バス停に着くと、すでに「日向薬師」の閉門時間を過ぎている。バスは、発車間際だ。薬師さまは、またの日にしよう。
 

 

 

 

タイムレコード 20210101
 (1)から - 阿夫利神社本社1227 - 1303不動尻分岐1306 - 1320廃道入口 - 1417見晴台1433 - 1445キャンプ場分岐 - 1507車道交差 - 1523登山口(ふれあい学習センター) - 1603「日向薬師」バス停

 

 

 

 

 

 

 

 1月3日、元旦に行きそこねた「日向薬師」に、参拝に行く。

 

 


 

 

 入口の角に、摩滅した古い石道標と庚申碑があった。「右 やくし道/左 大山ミち」と記されているのが、どうにか読める。この道が、古い参道なのだろう。行くての杉の生えた高まりが、「日向薬師」にちがいない。

 

 


 

 

 山門↑。左右の仁王像は、天保4年の作。

 

 「日向薬師」は、江戸時代までは「日向山・霊山寺」といい、13坊に、7所権現社、東照宮を擁する広大な伽藍を誇っていた。しかし、明治初期の「廃仏毀釈」は、ここにも及び、大部分の坊舎は破壊され、この山門と、鐘楼、薬師堂(現在の本堂)をわずかに残すのみとなった(梵鐘と仏像の多くは、奇跡的に破壊を免れた)。現存するのは、霊山寺の別当であった「宝城坊」のみであり、「日向山・宝城坊」という。⇒:wiki「日向薬師」

 

 


 

 

 寺林のなかを、摩滅した石段が昇ってゆく。石材の積み上げではなく、岩盤を削って石段にしているのも珍しい。杉のほか、モミ、ケヤキ、イロハカエデ、タブノキ、ウラジロガシなどの自然樹が堂々と立ち並ぶ壮大な森だ。
 

 


 

 

 本堂(薬師堂)。ここに安置されている薬師如来像は、本尊ではなく、平安末~鎌倉初期の丈六仏(寄木造り)だが、これ自体、国の重要指定文化財だ。

 

 本尊の薬師如来像は、平安中期(10-11世紀)の鉈彫り・一本木造りで秘仏とされている。この1月3日は御開帳の日で、期待して行ったのだが、御開帳の日は、宝物殿には立入禁止! 入口に置かれたお賽銭箱の手前から覗き込むしかない。どこに手があり顔があるのかも見え分かぬ状態だった。「秘仏」とは、どうあっても一般人の眼には触れさせないしくみであるらしい。

 

 


 

 

  「さして来し 日向の山を 頼む身は
   目も明らかに  見えざらめやは」

 

 1020-24年に相模国に赴任した国司・大江公資(きみよし)の妻「相模」が、眼の病気を治すために、日向薬師に参籠して、柱に書きつけた歌(新編相模国風土記稿[1841])。

 

 日が当たって明るくなって来た日なたの山(まさに、きょうの写真のように!↑)と同じように、

 

 「日向山・霊山寺」に頼る・この身は、眼もはっきりと見えるようにならないだろうか。いや必ず見えるようになる。と、平癒の期待を記したもの。⇒:「相模の歌碑」:『天野翔のうた日記』 「相模集14」:『enonaiehon』

 

 しかし、この歌碑、「相模」の歌をちょっと変えちゃってますね。。。。