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小田急線から見える大山(右)と丹沢・二の塔(左)

 

 

 初詣はしたいが、密は避けたい。山のてっぺんにある神社なら人が少ないのでは? しかし日帰りのできるところでないと。。。 というわけで、神奈川県の大山(おおやま)阿夫利(あふり)神社へ行くことにした。

 

 相模・大山は、名前は大きいが、丹沢連峰の端っこに付いている小さな山だ。中腹の阿夫利神社・下社まで麓からケーブルカーがあるが、密を避けるために、そっちには行かない。ヤビツ峠→山頂→日向(ひなた)薬師に下りる。それでも、ポピュラーなコースなので、山にしては人出が多かった。

 

 

 

 

 出発点はヤビツ峠 760m。↑バス停の上の広場。奥の看板が登山口。

 

 ここから 1252mの山頂までの垂直距離は 500メートル足らず、楽勝の標高差だが、1時間程度の尾根登りで一気に上がるので、けっこうな勾配だ。
 

 

 

 

 木の間越し、江の島が見える↑。

 

 


 

 

 ↑植生は、基本的に表丹沢(おもてたんざわ)と同じだ。ここも丹沢の一部だと知れる。イロハカエデ、シデ、コナラ、エンコウカエデ、それにヒノキの植林。

 

 


 

 

 ↑富士が現れた。雲が少し引っかかっている。富士の左は愛鷹山。ヤビツ峠から表丹沢(おもてたんざわ)へ登って行く尾根が手前に見える。正面の緑色が二ノ塔・三ノ塔、奥・右端の高い頂きが塔ノ岳 1491m。

 

 

 
 

 

 ケーブル「阿夫利神社」駅(下社)から来る路と合流↑。鳥居をくぐる↓。

 

  

 

 

 大山(おおやま)山頂に到着↓。地図を見ると、大山には標高が2つ書いてある。このマイクロウェーブがあるほうには三角点があって 1248m。ところが、すぐ隣りにもっと高い場所があって 1252m。そちらは、大山阿夫利(あふり)神社の境域になっている。

 

 丹沢側の展望は、もっぱらこちらから。

 

 

 

 


 1248mの三角点標石↓。なぜ低いところにあるのか? 明治・大正時代に、神社が測量士の入境を拒否したか? 「神様の棲み処(すみか)の高さを測るなど、不敬千万 !!」とでも?

 

 


 

 

 富士にかかっている雲が、だいぶ晴れた。冠雪はまだ少ない。宝永山の上にも黒いところがある。

 

 

 

 

 表丹沢全景↓。中央の頂きが丹沢山 1567m。その左肩に覗いているのは、丹沢最高峰の蛭ヶ岳(ひるがたけ) 1673mか。左に黒く塔ノ岳 1491m

 

 


 

 

 右端に3つ並んだ峰が気になるのでアップ↓。左から、太礼(たれい)頭、円山木ノ頭、本間(ほんま)

 

 

 

 

 神社のある高まりのほうへ行ってみる。有刺鉄線を跨ぐ。なんと‥驚いたことに、ブナのほぼ純林だ。…さすがは丹沢の末端。神社の神域で、伐採を免れた極相のブナ林が残っているのだ。


 

 

 

 およよ‥鹿がいた。まだ若いが牡鹿だ。ツノを立てた凛々しい姿。大権現のお使いか? それとも私と同じく有刺鉄線を跨いだクチか?

 

 

  

 

 はい、チーズ! カメラを向けても、逃げようともしない。かえって、こちらを向いてポーズをとってくれる。人馴れしているのだろうか。

 

 


 

 きみと遊んでいたいのはやまやまだけど、そうもいかない。山頂でやらないとならないことは、まだまだたくさんある。ぼくは忙しいんだよ。

 

 神社のほうへ行ってみよう。

 

 ↓この建物が「前社」らしい。なぜか、シャッターが閉まっている←

 

 

 

 

 例によって、寄進の石燈籠がならぶ。ここだけは、ふつうの神社だ。

 

 

 

 

 ↓ここが「大山阿夫利神社」の「本社」

 

 

 

 

 神さまのおうちの玄関 ?? 引き戸をガラガラと開ける「本社」拝殿‥というのも珍しい。気に入ったので、お賽銭を奮発した

 

 


 

 ↓「奥社」。だが、「奥の院」と書いてある。神社よりも寺院の呼び方だ。これにはわけがある。
 

 

 

 

 この大山阿夫利神社、じつは近世まで、不動明王を本地・本尊とする山岳仏教の寺院だった。明治初期の「廃仏毀釈」で神社に変えられたのだ。幕末まで、現在の祭神・大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)は、「石尊大権現」と呼ばれていた。頂上本社には、不動明王の化身である「石尊大権現」が、奥社には「大天狗」、前社には「小天狗」が祀られた。現在の「下社」の地は、大山寺(おおやまでら)不動堂だった。

 

 

 

 

「古代から、大山の山岳信仰に基づく阿夫利神社があったが、

 中世に神仏習合が盛んになると、修験道が隆盛を迎え、不動明王像を本尊とする大山寺が建立され、石尊社(阿夫利神社)の別当寺とされた。大山そのものへの信仰と『石尊大権現』への信仰とが一体化していった。

 修験道に基づいて、大山頂部の岩石を、不動明王を本地とする『石尊権現』として信仰し石尊社となり、頂上本社の石尊権現以外にも、奥宮には大天狗、前社には小天狗も祀られ信仰された。現在の大山阿夫利神社の下社がある地には、神宮寺(別当)の大山寺があった。

 近世初頭、徳川家康は大山寺の改革を断行。保護を与える一方で、修験者や妻帯僧を下山させ、清僧(妻帯しない僧)のみを山上に住持させるなど、修験道を抑圧して仏教寺院として純化させた。

 江戸時代中期(18世紀後半)以降、豊作や商売繁盛などの現世利益を祈念する人々による『大山詣で』が盛んになり、関東各地に『大山講』が組織され、大山参詣へ向かう『大山道』が整備された。家康の改革で下山した修験者らは『御師』として参詣者の先導役を務め、山麓の伊勢原や秦野には参詣者向けの宿坊が軒を連ね、門前町として栄えた。

 『大山詣で』が盛んになるにつれ、宿坊が建ち並び、『大山詣で』を案内をする御師が活躍した。その規模は八大院、坊舎十八院、御師百五十余宇に至るほど隆盛した。各地の大山講は、総講数1万5700、総檀家数約70万軒にも達した。

 明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づく『石尊権現』は廃された。明治元年(1868年)頂上の石尊社ならびに大山寺は、各々大山阿夫利神社の頂上本社(ならびに奥社・前社)と下社に改組された。大山中腹にあった不動堂は破却されて、現在の大山阿夫利神社下社となった。多くの寺宝は破壊された。

 雨降山大山寺が再興されたのは、半世紀ちかく後のことだった。まず不動堂の再建が着手され、明治18年(1885年)、現在の大山ケーブル・大山寺駅近くに、明王院という寺名で再興された。大正4年(1915年)、明王院は観音寺と合併し、ようやく『大山寺』の旧寺号が復活した。

 戦後、大山阿夫利神社は、神社本庁には属さず、阿夫利神社本庁として単独で運営されてきたが、近年、神社本庁の傘下に入った(阿夫利神社本庁も存続)。」

(wiki「大山寺(伊勢原市)」 「大山阿夫利神社」 「石尊権現」より編集)  

 

 

 天皇専制確立をめざす明治政府のもとで、「廃仏毀釈」による弾圧・破壊をこうむったあとも、山岳仏教者の抵抗は続いていたように思える。頂上三角点の設置を拒否したのも、その現われか。戦後、「神社本庁」の統制下に入るのを避けてきたのも、今に続く抵抗なのかもしれない。

 

 

 

 

 神社の下からは、東~南の平野部の展望が開ける。↑横浜。

 

 

 

 

 三浦半島と江の島↑。

 

 

 

 

 ↑伊豆大島。

 

 

 

 

 曽我丘陵、小田原と伊豆半島↑。

 

【つづく】   
 

 

 

 

タイムレコード 20200101
 ヤビツ峠1000 - 1023小休止(866m)1028 - 1110下社・ケーブル駅分岐
1116 - 1128大山山頂(マイクロウェーブ)1135 - 1137阿夫利神社本社1227 - (2)に続く。