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盛岡市・北山

 

 

 「高松の池」を横断して、そのまま東へ進む。

 

 「近郊自然歩道」という案内板があるが、「北山」の範域のそとへ行ってしまうので、そちらには行かないことにする。

 

 

 

 

 道路は、ゆるやかにアップダウンして進む。車はほとんど来ない。女の先生に引率された・おおぜいの園児たちに行き会う。運動中なのでマスクをしていない。こちらはポケットからマスクを出して付けなおす。感染の多い場所から来ている私は、すれ違うだけでも気遅れしてしまう。

 

 植林の杉と、コナラ、クリ、ホオノキなどの雑木が混じっている。廃屋が目立つ。麓に建売りの住宅地ができたので、山の中に住んでいた人はみな下りたのだろう。
 

 

 

 

 「北山散策路」という標識に出会う。

 


 

 

 いったん住宅地まで下りてみた↓。「北山二丁目16」の住居標示板がある。下から見上げると、丘の上の木立のようすがわかる。コナラが多いようだ。

 

 


 

 

 アカマツがかたまって生えているところもある。賢治の時代には、もっとアカマツが多かっただろう。『メモ』にも、

 

 

  「松森の丘、」

(『文語詩篇ノート』11頁,1914年10月欄)   

 

 とあるくらいだ。

 

 アカマツの林は、人の手が入らないと、広葉樹林に遷移してしまう。住宅地化した場所では、薪を採ったりしないから、アカマツ林は衰退する運命だ。

 

 

 
 

 

 標識のところまで戻って、「北山散策路」の標示にしたがって歩いて行くことにする。

 

 「南部家菩提所」という表示があるので、寄ってみる。

 

 

 

 

 藩主南部家の歴代当主の墓が並んでいる。ここは、北山・聖壽寺の奥に当たるようだ。常緑樹はアカマツ。落葉樹はコナラ。

 

 

 

 

 この墓所ではないだろうけれど、賢治はこの時期に、墓地の短歌を2首詠んでいる。

 

 

 鉛など とかしてふくむ 月光の 重きにひたる 墓山の木々

(『歌稿A』#52,推定1913年秋)   

 

 きら星の またゝきに降る 霜のかけら 墓石石は 月光に照り

(『歌稿A』#62,推定1913年晩秋)   

 

 


 

 

 ↑「北山散策路」に戻って、先へ進む。

 

 

 あかるかに 赤きまぼろし やぶらじと するよりたちぬ 二本のかれ木

(『歌稿A』#66,推定1913-14年冬)   

 

 

 

 

 冬となりて 梢(うれ)みな黒む 山上に 夕陽(ひ)を浴びて 白き家立てり

(『歌稿A』#4,推定1911-12年冬)   

 

 


 

 

 雑木林の道をたどってきたが、ここから視界が開けて、果樹園や畑の中の路となる。↓右の畑は、「畑貸します」という看板が立っている。たしかに日当たりがよくて、すてきな畑だ。

 

 

 

 

 ↓国道455号線北山トンネル。


 

 

 

 ↓果樹園。岩手山も見える。

 

 

 

 

 岩手山アップ

 

 


 

 岩手山の左に、もっと遠くの秋田駒周辺が見える。↓右から、小高倉山、高倉山、三角山。誤解している人が多いのだが(もしかすると、賢治も誤解して呼んでいた)、中央の三角形の山ではなく、その左の平らな山が「三角山」だ。

 

 手前の丸い形の山は「燧堀(かどほり)山」、これは岩手山より近い。

 

 

 

 

 「長嶺」交差点に到着。写真の右外に、県道とバス停がある。

 

 


 

 「北山散策路」は、県道を 200mほど南下して、県道東側の道に入る。「愛宕山」へつづく道だ。さいしょは、建売りの住宅地、しだいに家が減って、丘の上の路になる。
 

 

 ↓東側の展望が開ける。山脈の左端が「高洞(たかぼら)山」

 

 

 燃えそめし
 アークライトは
 黒雲の
 高洞山を
 むかひ立ちたり

(宮沢賢治『歌稿B』#655a656,推定1918年6月)   

 

 

 

 

 やうやくに漆赤らむ丘の辺(べ)
 奇
(あや)しき袍の人にあひけり

(宮沢賢治『歌稿B』#21,推定1911年初秋)   

 

 ひとびとは
 鳥のかたちに
 よそほひて
 ひそかに
 秋の丘を
 のぼりぬ

(宮沢賢治『歌稿B』#21a22)   

 

 

 この「奇しき袍」は、カトリックの黒い僧服だと言われている。中学校と「北山」のあいだに、カトリックの「四ツ家(よつや)天主堂」教会があり、フランス人の神父がいた。

 

  

 ↓西側~南方の展望。遠景は、紫波山塊。

 

 


 

 ↓歩いて来た路をふりかえる。西側の展望。遠景は、岩手山と、高倉山。左端に、烏泊(からすどまり)山。
 

 

 

 

 愛宕山公園に到着。↓立原道造詩碑。

 

 

 

 

    アダジオ        立原道造

 光あれとねがふとき
 光はここにあった!
 鳥はすべて私の空にかへり
 花はふたたび野にみちる
 私はなほこの気層にとどまることを好む
 空は澄み 雲は白く 風は聖らかだ

(解説⇒:中ぶんなの日記)   

  

⇒: Glenn Gould -

Beethoven: Piano Concerto No. 5: II. Adagio un poco mosso, usw.

 

 

 

 愛宕山展望台↓。これは残念なモニュメントだ。南側だけを見わたすように設計されている。つねに逆光なのだ。たしかに、麓から見上げると、丘の上でいつも日に当たっていて、かっこよく見える。見せるための展望台。展望台としては失敗だ。

 

 

 

 

 曹洞宗「報恩寺」に到着。

 

 「報恩寺」には、中学生賢治の宗教への転回をみちびいた住職「尾崎文英」がいた。“賢治彷徨の旅”の終着点とするにふさわしいスポットだ。

 

 


 

 清六氏の『兄賢治の生涯』をもう一度引用すると、つぎのように書かれている。

 

「4年生になると登山して学校を休んだり、寄宿舎の友達と一しょにいたずらをして教師を怒らせたりした。〔…〕

 寄宿舎を追放された賢治は盛岡の北山の清養院や徳玄寺に下宿し、報恩寺で尾崎文英について参禅した。また夏には浄土真宗の願教寺で島地大等の仏教講話を聞き、傍らツルゲーネフやトルストイなどのロシヤ文学を耽読して、その心境によほど変化を来したとみえて、頭を青々と剃って登校したりもした。そして進学の望みもなく、中以下の成績で中学を卒業した。」

(宮沢清六『兄のトランク』,1991,ちくま文庫,p.246.)   

 

 『年譜』によると、「報恩寺」参禅の初めは 1913年9月。住職の「尾崎文英」の講演を聞いて感銘したのがきっかけらしい。賢治の文英への崇拝は、心酔といってよかった。のちに、高等農林時代、学生仏教会で願教寺の座禅会に出かけるときも、賢治一人は途中で分かれて「報恩寺」へ行ったという。賢治のいとこの関徳也は、賢治に付き添われて文英に“人生の悩み”を告白したことを、感慨深く語っている。賢治の 1913年の「心境の変化」は、尾崎文英が原因なのだ。

 

 しかし、『歌稿』を見ると、賢治が北山の「丘、丘」を彷徨したのは、秋以降。文英から受けた影響が、むしろ林野彷徨と文学への傾倒をもたらしたと言わなければならない。

 

 尾崎文英は、当時、盛岡では有名な“破戒僧”だった。逸脱行動が多かったと言われている。具体的内容は判らないが、女色も相当だったろうし、それ以外の行状でも世間を愕かしたのだろう。賢治は、その文英に心酔したのだった。「心境の変化」とは、ワルガキが回心したというようなことではなく、むしろ“悪ガキ”の度を飛躍的に高めていった、ということではなかったか。
 

 

 ↓「報恩寺」本堂。

 

 

 

 

 

 いまはいざ
 僧堂に入らん
 あかつきの
 般若心経
 夜の普門品

(宮沢賢治『歌稿B』#319,推定1916年6月)   

 

 この「僧堂」は報恩寺だとされているが、理由は不明。

 

 


報恩寺 五百羅漢堂
マルコ・ポーロとフビライも並んでいる「五百羅漢像」だけが有名だが
内陣の諸像も天井の龍も、ここはすべてがすばらしい。


 

 

 さて、北山は、ひととおり廻ったが、都市化の進行で、100年前とは相当に違ってしまっていることは、否めない。もっと奥の「丘、丘」へ行ってみたいものだ。「北山」は廻ったが、「米内(よない)」がまだ残っている。

 次回は「米内」へ、賢治の「丘、丘」を探しにゆくとしよう。

 

 

【つづく】   
 

 

 

 

タイムレコード 20201130
 - 高松ノ池1012 - 1042北山2丁目 - 1150長嶺 - 1254愛宕山 - 1340報恩寺