小説・詩ランキング


ルイ・ステール:『Pたち』(1927)

 



       ルイ・ステール

 きれいで正確な絵を描くことを、
 きれいなソナタをそつなく弾くことを、
 春のソナタとクロイツェル・ソナタ
 かつて覚えたわたしは若かった、
 外の明るい世界へ飛びだして行った、
 わたしは若く、褒められたり愛されたりした……
 ところがあるとき窓のそとから
 葉の落ちたカラマツといっしょに笑いながら
 死神がわたしを覗き込んでいた、わたしの
 からだのなかで心臓が凍った、
 いまも凍ったままだ。わたしは逃げた、
 あっちにさ迷い、こっちにさ迷った。
 しかし彼らはわたしを捕え幽閉した、
 なん年ものあいだ。窓のそとから、
 格子のあいだから彼がじっと見詰めている、
 じっと見据えそして笑う。彼はわたしを識っている、何もかも知っている。

 わたしはときどきザラ紙に男たちを描く、
 女たちを、イエス・キリストを、
 アダムとエヴァを、ゴルゴタの丘を描く、
 正確にでなく、きれいにでなく、わたしは正しく

 インクと血で描く、真実に描く。真実は恐ろしいものだ。

 わたしは一劃(いっかく)一劃絵筆で紙片を填めてゆく、
 うすく、濃く、灰色、銀色、漆黒に、
 聖刻文字
(ヒエログリフ)の劃線をむくむくと
 苔のようにはびこらせる、
 乾いた霰
(あられ)のようにばらまく、魚の骨のように梳(す)く、
 灰色の細線の網、蜘蛛の巣、
 草叢の風、絡み合う根、装飾文字
(カリグラフィー)で蔽う、
 なめらかな線、膨らんだ線、ささくれ立った毛、
 燃えあがる羽毛、静止した、奔
(はし)ってゆく
 一万の線を一筆
(ひとふで)一筆彫りこんでゆく、
 その逆巻く渦から雪のように白い身体
(からだ)を残す、
 イエスを十字架の重みで
 大地に圧
(お)しつける。夢想の藪の向うに
 幻出する鳥の羽ばたき、枯草のしげみから
 散りぢりの花が悲しく舞い嗤
(わら)う、
 わたしは忘れているときもある、
 不安を抑えつけているときもあるが、
 時には暗い年月のかなたから、
 多くの歳月のかなたから、音楽が、
 クロイツェル・ソナタが聞こえる……それでも
 窓のそとに、わたしの後ろに
 彼
(あれ)が立っているのがわたしにはわかる、
 彼は笑う。彼はわたしを識っている、何もかも知っている。


 ※ ルイ・ステール(Louis Soutter)、画家にして音楽家、1871年生、1942年没;画家兼ヴァイオリニストとしてアカデミックな教育を受け、イザイ(Ysaje)の愛弟子であり、両方の職業を交互に行なった。重篤なチフスに罹ってから、二度と恢復しなかった。生涯最後の20年間を、施設に隔離されて過ごした。彼はそこで、野性的で天才的な多くのスケッチを描いたが、それらは彼の死のずっと後で、ローザンヌのメルモー社(Verlag Mermod)から出版された。



※印以下は、手稿の余白に、ヘッセの字で記されている。ウジェーヌ=オーギュスト・イザイ(1858-1931)は、ベルギーのヴァイオリニスト・作曲家。無伴奏ヴァイオリン・ソナタ(1-6番)が有名。なお、ルイ・ステールについては、⇒:Wiki「ルイ・ステール」参照。



   ルイ・ステール:『磔刑』(1942年)



 こんばんは。今夜の↑ヘッセの詩にある「春のソナタ」「クロイツェル・ソナタ」は、ベートーヴェン作曲のヴァイオリン・ソナタを指しています。

 そこで、じっさいにそれらを聴いてみよう――長いので第1楽章だけ――というのが、今夜の趣向です。


 

ベートーヴェン『ヴァイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調“春”』から
第1楽章 アレグロ
イツハク・パールマン/ヴァイオリン
ヴラディミール・アシュケナージ/ピアノ

 


ヴァイオリンソナタ第5番 ヘ長調 作品24

 幸福感に満ちた明るい曲想から『春』や『スプリングソナタ』という愛称で親しまれている。

 ベートーヴェン自身のヴァイオリン演奏は技術的に稚拙で、自作のヴァイオリン部を公開で弾く機会はほとんどなかった。ヴァイオリンのイディオムにも、ピアノのそれに対するほど通じてはいなかったので、ソナタの旋律リズムはピアノのものが中心になっている。」

Wiki:「ヴァイオリンソナタ第5番 (ベートーヴェン)」
 


 もっとも、“ピアノが主役でヴァイオリンは脇役”という点は、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタも同じでして、ベートーヴェンがヴァイオリンを弾くのがへただったからではないようです。

 のちほど、ウィキ・独語版を引用するように、ベートーヴェンまでの《古典派》時代には、それがふつうだったといいます。


 

ベートーヴェン『ヴァイオリン・ソナタ 第9番 イ長調“クロイツェル”』から
第1楽章 アダージョ・ソステヌート - プレスト
ナタン・ミルシテイン/ヴァイオリン
ジョルジュ・プリュデルマシェ/ピアノ

 


ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調 作品47

 ヴァイオリニストのロドルフ・クロイツェル(クレゼール)に捧げられたために『クロイツェル』の愛称で親しまれているが、ベートーヴェン自身のつけた題は、『ほとんど協奏曲のように、相競って演奏されるヴァイオリン助奏つきのピアノソナタ』である。

 モーツァルトとベートーヴェンの全ヴァイオリン・ソナタと同様に、このソナタも“ピアノフォルテ〔ピアノの前身楽器〕とヴァイオリン”のために〔つまり、ピアノフォルテが主役で、ヴァイオリンは助け役〕書かれている。このヴァイオリンとピアノの関係が逆転するのは、のちのロマン派時代になってからである。」

Wiki:「ヴァイオリンソナタ第9番 (ベートーヴェン)」 Wiki(deu):「Violinsonate Nr.9(Beethoven)」
 

 


 
ルイ・ステール:『干しスモモ、ひと切れ、葉』 
 



 「春」「クロイツェル」のような愛称は付いていませんが、「7番」ソナタも、なかなかいいと思います。ベートーヴェンのヴァイオリンといえば一度は聞いておきたい・クレーメルの演奏で:

 

ベートーヴェン『ヴァイオリン・ソナタ 第7番 ハ短調』から
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ
キドン・クレーメル/ヴァイオリン
マルタ・アルゲリッチ/ピアノ

 


 
  ルイ・ステール:『月たちと変質した月たち』


 さて、今夜の締めですが、このさいヴァイオリン協奏曲のフィナーレを聴いてしまいたいと思います。ベートーヴェンヴァイオリン協奏曲は1つしかありませんが、この1つが、“ヴァイオリン協奏曲の王者”とまで言われるくらい評価が高いのは、さすがベートーヴェン。

 ↓下のウィキも触れていますが、この作品を書いた時期のベートーヴェンは、この人には珍しく、綺麗な歌うような作品ばかりを書いています。しかし、よく知られているのは、このヴァイオリン協奏曲だけで、「第4交響曲」も「ピアノ協奏曲第4番」もあまり有名にならないのは、ベートーヴェンらしい“激震”のない・楽しさ溢れる作品だからかもしれません。



ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品61

 この作品は同時期の交響曲第4番やピアノ協奏曲第4番にも通ずる叙情豊かな作品で伸びやかな表情が印象的であるが、これにはヨゼフィーネ・フォン・ダイム伯爵未亡人との恋愛が影響しているとも言われる。

 第3楽章 ロンド アレグロ ニ長調

 ロンド形式。いきなり独奏ヴァイオリンがロンド主題〔0:00-〕を提示して始まり、オーケストラがこれを繰り返す〔0:30-〕。次に独奏ヴァイオリンが朗らかな第1副主題〔1:04-〕を演奏する。この後独奏ヴァイオリンは細かい経過句を経てロンド主題を再現〔2:12-〕する。オーケストラがロンド主題を繰り返すと独奏ヴァイオリンがこれを変奏し始め、やがて感傷的な第2副主題〔3:03-〕となる。これをファゴット〔3:14-〕が引き取り、独奏ヴァイオリンは装飾音から次いでロンド主題〔4:10-〕を再帰させる。オーケストラの繰り返し、独奏ヴァイオリンによる第1副主題とロンドの型通りに曲は進行し、カデンツァ〔6:35-〕となる。独奏ヴァイオリンによるロンド主題の再現もかねて、オーケストラと共に輝かしいクライマックスを築いて、力強く全曲の幕を閉じる。演奏時間は約10分。」

Wiki:「ヴァイオリン協奏曲(ベートーヴェン)」
 


 6:35- からがカデンツァです。ジャズのアドリブみたいな独奏だと思ってください。といっても、ふつうは即興ではなく、名のあるヴァイオリニストが作曲した楽譜から選んで弾きます。ここでは、クライスラー作曲の楽譜が使われています。

 

ベートーヴェン『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調』から
第3楽章 ロンド,アレグロ
カデンツァ:クライスラー版
ダニエル・ロザコヴィチ/ヴァイオリン
ヴァレリー・ゲルギエフ/指揮
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

 


 この終楽章のカナメは‥、私は「第2副主題」だと思います。「ロンド」形式は、A-B-A-C-A-B-A でして、C にあたるのが「第2副主題」。つまり、他の主題は何度も現われるのに、「第2副主題」は、1回しか出てきません。しかし、この1回しか出てこないCが、もしなかったとしたら‥‥、いかにこの楽章全体が、ハリのない凡庸なものになってしまうかを思えば、Cこそカナメ――と私の言う意味が分かっていただけるのではないでしょうか? そのCを、ヴァイオリンとともに競って奏でるファゴットは、ヴァイオリンに次ぐ“脇役中の主役”と言うべきでしょう。




    散 歩

 赤い枝をした松
(フェーレ)
 銀色の美しい樺の樹
(き)
 押し黙った橅
(ぶな)
 言え、おまえたちにも悩みはあるのか?

 そして蜜蜂の唸
(うな)りの歌のなかで
 息づく花々よ、おまえたちの
 生とてもこんなに
 暗く重いものなのか?



 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらは自撮り写真帖⇒:
ギトンの Galerie de Tableau