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都民の森~御前山~湯久保尾根

 

 

 

 湯久保尾根をだらだらと歩いて下りる。急坂も岩場もなく、何の苦労もない下り尾根だが、とにかく長丁場だ。あせってもしかたがない。淡々と下るのみ。

 

 ガスって暗いのも気にしない。これは下から見ればただの雲だ。高度が下がればガスはなくなる。

 高度計は、1116メートル。緩勾配なので、なかなか高度が下がらない。↓道は奇妙な窪地のへりを走っている。

 山を歩いていると、ときどきこういう地形に出くわす。「二重山稜」と云う。尾根が2列に分かれて、あいだが凹地になっている。どこにも水の出口がないが、水は溜まらない。 池ができないのはふしぎだ。

 

 

 

 

 水が溜まらない理由は想像できる。地面の下の岩石が水を透すのだろう。地下は鍾乳洞になっているかもしれない。

 

 どうしてこんな地形ができたのか? 「二重山稜」の成因となると、私はお手上げだ。地震で亀裂ができて、地滑りが起きた‥‥うんぬんと聞いたことがあるが、よくわからなかった。読者の研究に委ねたい。
 

 

 

 

 ↑「湯久保山」付近。高度計は 1050mを指しているが、あとの分岐点の地形図確認から補正すると 1030mくらい。ここで、「小岩」へ下る支尾根が岐れる。

 

 「仏岩の頭」を巻いて過ぎたあたり↓。植林はヒノキから杉に変わる。霧もだいぶ晴れた。
 

 

 

 

 湯久保集落分岐点↓。910m圏。「仏岩の頭」の南側のタワに位置する。地形図と照合して高度計を直す。ここで下山路は二手に分かれる。
 

 

 

 

 どちらかの道へ行かないとならないが、どちらにも行く必要がある。最上部の地図に記したように、それぞれに⛩があるからだ。

 

 じつは、2日前に、湯久保尾根下部だけの事前探索をしているので、このあとの詳しいことは、10月2日の記録で、のちほど述べよう。↑この写真も、じつは 2日のものだ。

 

 きょう(4日)は、左の路―「小沢」バス停に下りる主たる登山道を行く。
 

 

 

 

 ↑標高 700m附近。こんなところに畑がある。サトイモの向こうに耕耘機も置いてある。地形図を見ると、かつては数軒の集落があって人が住んでいた。いまは麓に住んで、畑だけ作りに来るのだろう。
 

 

 

 

 ↑450m圏。「小沢」バス停のある「宮ケ谷戸(みやがやと)」集落が見えてきた。

 

 

 

 

 

タイムレコード 20201004
  - 鋸山方面分岐点1500 - 1515尾根に出る - 1531二重山稜 - 1546湯久保山付近1600 - 1622湯久保分岐(仏岩の頭南コル)1630 - 1645岩場の下 - 1655畑 - 1717伊勢清宮神社1737 - 1746小沢バス停

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここで、「湯久保尾根」下部のおおざっぱな概念を頭に入れるために、北秋川対岸・浅間嶺(せんげんみね)からの展望↑を眺めていただきたい。赤の太線が、これまでの 10月4日にたどったルート。現在の正式の(自治体が管理している)御前山登山道だ。

 

 しかし、もともとあった昔からの登山道は、ピンクの細線のほうだったらしい。ピンクの路が放棄されたのは、最近のことのようだ。ほぼ同時に、「鑾野(すずの)御前神社」付近にあった集落が離村して畑だけになり、ふもとのバス停の名前も変った。ピンクの出発点にあった「御前山登山口」停留所が改名し、近くの寺の名を採って「宝蔵寺」になった。赤の道(現在の正式の登山路)の出発点に「小沢」停留所が新設された。

 

 つまり、御前山への“正式の”登山路は、ピンクの路から赤の道に付け替えられたことになる。

 

 なお、支尾根のほうにも、古い登山道があって、「湯久保山」で合流している。これを水色で記入しておいた。「尾根通(おねどおり)」集落は、“寒桜の里”として知られている(数年前に訪れた時には、寒桜は見あたらなかったが)。

 

 地形図だと、こうなる↓。
 

 

 

  地形図↑の点線に注目されたい。赤線の“正式”登山道は、まだ地形図には正確に記されていないのだ! 赤線の近くの点線路(鑾野御前神社から 703メートル標高点まで)は、現在は廃道化している。現行の地形図は、昭和44年測量のものだからだ。

 

 国土地理院地形図は、市販のすべての地図の基礎となっている。グーグル・アースも例外ではない。グーグル・アースを盲信して山を歩くなどという無謀は、ぜひやめていただきたい。

 

 さらに、この地形図でピンクの線の下のほうを見ると、尾根に沿って点線の小径があって、川を越えているのがわかる。つまり、川沿いの車道ができる前には、「鑾野御前神社」から、北秋川対岸の街道まで、完全に尾根伝いの道が延びていた。これがもともとの登山道で、「御前神社」⇒御前山への登拝路だった、そして「湯久保」は、いわばその“門前町”だったと思われるのだ。
 

 

 

 

 さて、2日の山行の出発点は、↑「宝蔵寺」。安政4年(1857年)の「二十三夜」碑がある。安政は、黒船と開国に揺れた時代だった。

 

 ↓車道の分岐点。川沿いの道路から分岐して、「湯久保」集落へ昇って行く。急勾配だが自動車の通れる道がつづく。
 

 

 

 

 車道分岐点に、「湯久保」集落の古い写真が展示してあったので、すこし見ておこう。

 

 ↓晴れた日には、「湯久保」尾根から富士山も見える。
 

 

 

 

 ↓昭和46年(1971年)の写真だ。「臼杵山」は、秋川南岸にある山。じつは、私の探索行は、「湯久保」から「臼杵山」が見えることを確かめるのが、目的のひとつだ。村の人も、「臼杵山」に格別の関心を抱いていることがわかる。

 

 このあとで確認するように、今でも「臼杵山」が見える場所はあるが、木立ちが生長したために、集落の中心部からは見えなくなってしまっている。部落の人は、それを残念に思っているのだろう。
 

 

 

 

 「湯久保」集落の墓地。部落の下のはずれ、日当たりの良いところに墓地があり、庚申碑や石仏もある。庚申碑は、天保9年。大飢饉のさなか。大塩平八郎の乱・生田万の乱の翌年だ。

 

 かつては、真正面に「臼杵山」が見えたはずだ。現在は、成長した杉のあいだに頂上だけ覗いている。
 

 

 

 

 部落の上のはずれに小さい広場がある。そこまで行くと、ようやく「臼杵山」が見えるようになる↓
 

 

 

 

 なぜ「臼杵山」が、この部落と関係があるのか? 「臼杵山」の頂上には《狼神社》がある。狛犬でもお稲荷さんの狐でもない、一対のヤマイヌ(日本狼)の石像が置かれた祠だ。現在では珍しい趣向だが、狛犬像が広まる前の古い時代には、ヤマイヌ像が神社のシンボルだったとも云われている。各地に点々と、そういう神社が残っている。

 

 そのなかでも、奥多摩のヤマイヌ像は、とくに古い特徴を残している。

 

 「湯久保」集落の奥の「鑾野御前神社」も、《狼神社》だ。そのヤマイヌ像は、「臼杵山」のヤマイヌ像と、たいへんよく似ている。古形と思われる素朴なヤマイヌ像なのだ。

 

 “上の広場”から、尾根伝いに山路を登っていく。↓シオン(らしい)が咲いている。関東では珍しい。紫色がきれいに写らないのは残念だ。
 

 

 

 

 人が通らないと見えて、キノコが路を占領している。森林作業の影響を受けて、路が消えている箇所もあった。
 

 

 

 

 「鑾野御前神社」に到着↓。高度計で 785m。地形図(上記)には神社の記号は無いが、730-760mが岩場になっている。そこが神社の位置だとわかる。
 

 

 

 

 鳥居をくぐって進むと、祠は巨岩の下にある。この巨岩がご神体なのだろう。
 

 

 

 

 ↓祠の近写。一対のヤマイヌ像が向かい合って鎮座する。下にも小さなヤマイヌ像がある。下のほうのヤマイヌは、壊れかけているが、写実的で、より新しいもの(おそらく昭和)だろう。10~20年前には、下のヤマイヌはもっとたくさんあって、子供のヤマイヌもあったらしい(登山家の本に写真が出ている)。
 

 

 

 

 「臼杵神社」のヤマイヌ像は、こちらに出したので、関心のある方は見てほしい。ともかく、これら奥多摩の古形・ヤマイヌは、《狼神社》といえば有名な秩父・三峰山の狼・山犬像よりも年代が古い(⇒大岳神社のヤマイヌ像)。

 

 とすると、《狼神社》の発祥は三峰山ではない。では、どこから来たのか? 私はそれが知りたくて、山梨県、長野県の《狼神社》を訪ねている。

 

 発祥は飛騨ではないかと思っている。飛騨には、ヤマイヌを飼いならす「犬飼い族」がいたという。近世・近代人の持つ「オオカミ」イメージとは懸け離れた古形・ヤマイヌの可愛い姿は、ヤマイヌを飼いならし愛玩した人々のものだろう。

 

 「犬飼い族」は、紀州から飛騨に移って来たとも云う。とすると、おおもとは熊野か?

 

 「鑾野御前神社」から、巨岩群の下をトラバース気味に登って、御前山からの“正式”登山道に出会う↓。

 

 

 

 

 「分岐点」からは、“正式”登山道を「小沢」バス停へ下る。

 

 途中、「御前神社」とほぼ同じ標高で、ちょっとした岩場を通過する↓。上に出した地形図を見ると、点線の古い登路は、岩場の下で水平に向きを変え、「御前神社」で、「湯久保」集落からの登路と合わさっていたことがわかる。

 

 そこに私は、昔の人の《神すなわち自然》への畏怖を感じる。畏敬と言ってもよい。ここは難しい岩場ではない。岩場を貫通して尾根通しの道にしたほうが合理的だ。その点で、最近拓かれた“正式”登山道のほうがすぐれている。

 

 しかし、昔の人の考えは、そうではなかった。彼らにとって、この岩場はご神体――「神の身土(みつち)」なのだ。神の身土に踏み込むべきではない。岩場の下部に沿って道が刻まれた理由はそこにある。なんと奥ゆかしい考え方だろう。

 「鑾野御前神社」は、今でこそ忘れられているが、かつては、御前山に向かう者がかならず通過すべき玄関口だったのだ。

 

 

 

 

 ↓「伊勢清宮神社」。こちらはヤマイヌ像もなく、狼とは関係ないようだ。里に近いせいか、社殿と燈籠があり、「鑾野御前神社」より整っている。
 

 

 

 

 「宮ケ谷戸」集落に到着。2階屋がめだつ。谷あいで平らな土地が少ないためだろう。
 

 

 

 

 「小沢」バス停のわきに、石仏・石碑が集められていた。

 

 「二十三夜」碑は、宝蔵寺門前のものと同じ安政4年丁巳(1857年)。文化10年(1813年)、元治元年(1864年)の寒念仏碑もある。

 

 

 

 

 

 

タイムレコード 20201002
 宝蔵寺1233 - 1338湯久保集落(墓地)1344 - 1430鑾野御前神社 - 1500御前山登山道分岐(仏岩の頭南コル)1505 - 1525岩場(上部)1547 -- 1555岩場(下部) - 1650小沢バス停