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ヤン・ステーン「居酒屋でお祭り騒ぎ」1674



↓こちらにレビューを書いてみました。


【必読書150】デカルト『方法序説』(2)―――
―――“考える私”とは何者か?

 

 

 

デカルトの思考実験。

 

「当時わたしは、……ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。

 こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定した。

     …………

 最後に、わたしたちが目覚めているときに持つ思考は、すべてそのまま眠っているときにも現われ、しかもその場合にであるものは一つもないことを考えて、わたしは、自分の精神が考えたことすべては、夢の幻想と同じくではないと仮定することに決めた。

 

 

こうしてデカルトは、見るもの、聞くもの、すべて無いこととし、

自分で考えたことも感じたことも、すべて妄想として否定し去った。

自分という人間の身体があることも、他人がいることも、

この世界があることも、「ここ」がオランダであることも棄却した。

そうしてすべてを《疑い》つくした果てに、

「わたしが《疑っている》というそのことだけは、疑いえない」

ということを発見した! とデカルトは言う。

 

デカルトは、なぜそこで立ち止まったのか?

もしも、「わたしが《疑っている》ということ」までも疑ったら

いったい、何が起きるのか?

今回は、デカルトが立ち止まった地点から先へ、

その虚無の深淵へ、諸君をご案内したいと思う。

 

後半では、ふたたび虚無から這い上がって、

デカルトとともに、彼の宇宙論《地動説》太陽系の誕生から

化学(錬金術)心臓生理学までを通覧する。

デカルトが、この自然学体系を執筆していた時、イタリアで

ガリレイ裁判の判決があった。そのためデカルトは原稿の出版を

断念した。しかしその内容を見るとき、私たちは

眼を見はらないではいられない。デカルトは、

コペルニクスよりも、ガリレイよりも、

2歩も3歩も先を歩いていたのだ。

 

 

 

  
     Michel Gourlier