Venny Soldan-Brofelt (Finnish, 1863-1945)
夜
谷間で花が匂う、
子供のころ嗅いだ遠い花が、
それが夢見る者に
隠された杯をひらき
おのれの内部を、太陽の写し身を見せることはめったにない。
青い山々に
逍遥する盲いた夜、
その暗い衣装を膝の上までたくしあげ、
笑いながら、あてもなくその贈物(おくりもの)を、
夢の数々を撒きちらす。
その下では、昼間の日に焼けた
人間たちが眠りこんでいる;
彼らの眼は夢でみたされる、
呻(うめ)きながら多くの顔は
子供時代の花に向けられる、
花の匂いを夜は闇にやさしく誘い出し
昼の厳しい家長の呼び声からは
遠ざけほっと慰めてくれる。
疲れきった者のやすらぎ、
逃げ還(かえ)る母の抱擁、
夢見る者の髪を撫でるさりげない母の手。
われらは子供、太陽はすぐに疲れさせてしまうが、
目的地と聖なる未来を告げている、
そして陽が落ちるたびわれらは
幼くなって母の懐(ふところ)におち、
まわらぬ舌で幼き頃の名を呼び、
源流への径(みち)をたどろうとする。
太陽への飛翔をめざす、
孤独な探索者も
よろめく、彼もこの深夜には
おのれの遠い出自へ戻ろうとして。
そして眠る者は、恐ろしい夢にでも起こされたなら、
闇のなかにこころ惑わせ
ためらいがちな真実を覗き見るのだ:
すべての歩みは、陽(ひ)への軌道或いは夜へであろうと、
死へと導く、新たな誕生へと、
その新生の苦しみを魂は厭(いと)う。
されど皆その道を之(ゆ)く、
誰もが死に、誰もが生まれることになる、
なぜなら永遠の母は
彼らを永(とこし)えに昼の世界に返すのだから。
“チャイコフスキーの夢”といえば、まず、こんなのはどうでしょう?
小澤さんも、こういうのが好きなんですね。童心に還ったような笑顔を見てくださいな。。。
チャイコフスキー『くるみ割り人形』から
「金平糖の踊り」
小澤征爾/指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
シベリウスで“第2楽章特集”をやりましたが、チャイコフスキーの“第2楽章”も捨てがたいものが多い。
↓動画のコーディネートも、これはなかなか悪くないです。日暮れから夜へ、明け方へ、という解釈なんですね。たしかに、そんな曲の流れです。
チャイコフスキー『交響曲 第5番 ホ短調』
第2楽章 アンダンテ・カンタービレ,コン・アルク
ヘルベルト・フォン・カラヤン/指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
続いて、第3楽章↓
チャイコフスキー『交響曲 第5番 ホ短調』
第3楽章 ワルツ‐アレグロ・モデラート
ベルナルト・ハイティンク/指揮
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
↓最終楽章は『5番シンフォニー』から。チャイコのシンフォニーの最後を盛り上げるのは、なんと言っても突撃隊長スヴェトラノフ。ソ連という、ああいうとんでもない国家体制があったから、それを骨の髄から信じて育った楽団員ばかり集まったからこそ、こういう演奏もありえたんじゃないかと‥‥今後、人類は二度とこういう演奏を組織できるかどうか、わからない、‥‥なんて言ったら、大げさでしょうかね。ともかく聴いてみてください:
チャイコフスキー『交響曲 第4番 ヘ短調』
第4楽章 アレグロ・コン・フォコ
イェヴゲーニィ・スヴェトラノフ/指揮
ソビエト国立交響楽団
祭りの晩
これこそが幸福だ;祭りの晩に疲れて
ベンチに座り広がりに耳を澄ますと、
夕陽の山の瑞(は)は燃えつきて
遠くのせせらぎがかれらの安らぎを奏でている。
夢見つつ往(い)にしえの時へと
おまえの静まりかえった願いがおどおどと遡行する
とっくに燃えつきた夢の数々、幸せ、苦しみ
そして若き日の希望の数々……それこそが幸福だった。
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