救世主の誕生を最初に知ったのは羊飼いたちだった(ルカ福音書)
クリスマス・イヴ
暗い窓辺に立ちつくし
純白の街を見おろす
鐘の音(ね)に耳をかたむけていたが、
それもいまは鳴り止(や)んだ。
いまは冷たい冬明かりのなか静かな純な夜だけが
幻想のようにわたしを見つめている、
あおざめた月の銀盤に見護られ、
わたしの孤独に差しこんでくる。
クリスマス!―深い郷愁がわたくしの胸から
叫びだし恨みがましくあの
遠い静かな時を想う、あのころ
わたしにもクリスマスがやってきたのだった。
それ以来わたしは暗い情熱にみたされて
大地を縦横に這いずりまわった
やすみなき流離(さすらい)の旅
叡智と黄金(きん)と幸(さち)とを索(もと)めて。
いまわたしは疲れ打ち負かされて
わたしの最後の道の辺(べ)に坐りこんでいる、
そして青いいろをした遥かかなたには
故郷と若き時代が夢のようにうかぶ。
こんばんは! 退院療養中のギトンです。といってもまだ 10分以上は歩けません。
ぎりぎりセーフで、クリスマスにまにあいましたっ !!
というわけで、クリスマス特集、“ところかわれば歌変わる” “クリスマスは世に連れ歌に連れ”‥‥というわけで、クリスマス・ソングの移りゆきを、聴いてみたいと思います。
そもそも、イエス・キリストが 12月24日の夜に生れたなんていう根拠は、歴史的にも科学的にも全く無いそうですw ゲルマン人の古い年中行事がキリスト教と習合したんだそうです。盆も彼岸もインドには無いのと同じこと。だから、いまヨーロッパでは、もとのゲルマン行事の名前で「ユール」という。いまどき「メリークリスマス」なぁんて言ってるのは、遅れた東ヨーロッパとディズニーだけなんだとか。
聖書を紐解いてみれば、たしかに4つの福音書のどれにも、冬だったとか、新年の前だったとか、ぜえんぜん書いてありませんよね?ww
そこで、古いほうから始めましょう。クリスマスをしんけんに信じていた中世のクリスマス・ソングから:
「モンセラートの朱い本(カタルーニャ語:Llibre Vermell de Montserrat)は、14世紀の宗教文書の写本で、特に中世後期の歌曲の楽譜を含むことで知られている。
スペイン・バルセロナ郊外モンセラート山の、黒い聖母像で知られるモンセラート修道院に伝わっている。モンセラート修道院には、『モンセラートの聖母』の礼拝堂があり、当時の重要な巡礼地であった。
この古文書には、13世紀~14世紀頃、モンセラート修道院へ参ずる巡礼者たちによって歌い踊られた 10曲の歌謡の歌詞と楽譜が記されている。しかし、収録された歌は、いずれも作者不明である。」
⇒:wiki:「モンセラートの朱い本」
「13世紀~14世紀頃」といったら、日本では鎌倉時代ですね。そのころのクリスマス・ソング!‥聴いてみましょう:
『モンセラートの朱い本』(14世紀)から
「処女にして母なるマリアさまを(Mariam matrem virginem)」
さて、つぎは 18世紀、フランス・ブルゴーニュ地方のクリスマス・キャロルを集めた本に載っているソングのひとつ。現在でも、フランスを中心にクリスマスに唄われているナンバーだそうです。
「パタパタパン」というおかしな擬音が繰り返される、親しみやすい一曲:
ベルナール・ド・ラ・モンノエ『ブルゴーニュのクリスマス』(1721)から
「ギヨー、タンバリンをもってこい」
レヴェルズ児童合唱
「ギヨー、おまえのタンバリンをもってこい;
おまえは笛をもってこい、ロビン!
それら楽器の音にあわせ、
チュレリュレリュ、パタパタパン、
それら楽器の音にあわせ
クリスマスを陽気に唄い明かそう。
かくて、いにしえの侍どもが
王の中の王を讃えるとき
それら楽器の音聞けば
チュレリュレリュ、パタパタパン、
それら楽器の音聞けば
子供たちもじっとしちゃあいられない。
〔…〕」
歌詞は、ブルゴーニュ方言だそうです。標準フランス語もろくに知らないのに、方言なんて分かるわけがないw 英語訳を見ながら、なんとか、やっつけで訳しましたです‥↑
さて、おつぎは所変って、現代ギリシャのクリスマス・ソング。歌っているコスタ(コンスタンティノス)・コルダリス(1944-2019)は、1960年にドイツに移住したギリシャ人移民のポピュラー歌手。76年にドイツ語圏でトップテンを獲得する一方、85年のノルディック・スキー選手権にギリシャの選手として出場。2004年にはドイツのテレビのバラエティー番組で優勝したものの、若造りに整形したことが露見するなど、なにかと話題の多い人だったようです(英語版ウィキ)
「ジェネシス」
ギリシャのクリスマス讃美歌
コスタ・コルダリス/vocal
このへんで、がちなクラシックも、一曲やっておかねばなりますまい。。。 といっても、候補が多すぎて困るんですが、このさい大家中の大家で。王道の中の王道で!
というわけで、大バッハの『クリスマス・オラトリオ』から。
バッハ『クリスマス・オラトリオ』(BWV 248)から
「神よ、あなたに栄誉が歌われよ(Ehre sei dir, Gott, gesungen)」
ジョン・エリオット・ガーディナー/指揮
モンテヴェルディ合唱団
イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
「 合唱
神よ、あなたに栄誉が歌われよ、
あなたに賞讃と感謝が用意されよ。
全世界はあなたを持ち上げる、
なぜなら、あなたの思し召しは我らの繁栄、
ただいま我らの願いはすべて聞き届けられた。
なぜなら、あなたの祝福は我らを輝かしく喜ばせるから。
叙唱(エヴァンゲリスト)
イエスはユダヤ国ベツレヘムにて、ヘロデ王の御代にお生まれになったので、見よ、その時賢者たちが東方の国から来て告げた:(マタイ 2:1)
賢者の合唱と叙唱
新たにお生まれになったユダヤの王は何処ですか?
私の胸中が彼を索めます、
彼はここに居る、私と彼にとって歓しいことに!
私たちは東方の国で彼の星を見てやってきました、彼を礼拝するために。
この光を見た汝らに幸いあれ、
それは汝らの救いのために生じたのだから!
我が救い主よ、汝、汝は光である、
異教徒どもにさえも現われる光である、
彼らは、彼らは汝を未だ識らぬ、
汝を崇めんと欲するよりも。
なんと明るく、なんと清らかに
愛するイエス、あなたは耀くではありませんか!(マタイ 2:2)
合唱
あなたの光輝はすべての闇を喰いつくした、
陰鬱な夜が光に転じた。
我らをあなたの道すじに導きたまえ、
あなたのお顔と
壮麗なる光とを
我らは永久に視つづけるように!
〔…〕」
さすがに格調高いですね。でも襟を正して聴かないとならないような‥、なんだか急にむつかしくなったような‥。福音書では2行程度のことを、よくまあこれだけ大げさに延々と弁じたてられるもんだと。。。 南ヨーロッパの軽妙さが、なつかしくなります。
では、“お国がら”、もっと北へ行ってみましょう。フィンランドのクリスマス・ソング!
シベリウス『5つのクリスマス・ソング』(1895-1913)から
「力も栄光も私は求めない(En Etsi Valtaa, Loistoa)」
すみません。。。 ユーチューブのクレジットも説明もフィンランド語なもんで、音源の演奏者などはいっさいわかりません(読めません)です。でも、歌詞の英語訳は見つけ出しました。↓最初と最後の部分だけ、日本語にしてお目にかけます。
「 力も栄光も私は求めない (エン・エツィ・ヴァルター・ロイストア)
力も栄光も私は索めない
黄金にあこがれることもない
天上の光だけを私は求め
地上には平和だけを希う。
クリスマスは私たちに喜びをもたらし
私たちの心を神の高みへと持ちあげる
権力も要らぬ、いや黄金さえ無くてよい
ただ平和のみが地上にあるように。
〔…〕
富者よりも貧者にこそ
すばらしきクリスマスは来たれ
この世の暗黒の中へ
天上の光をもたらしたまえ。
私はあなたを渇望し、あなたを待ち望む
地上と天上の主なるお方
富者よりも貧者にこそ
あなたの甘美なクリスマスを贈れ。」
⇒:《Lyrics Translate》
たしか、「エン」は否定の助動詞だったな。。。 「ヴァルター・ロイストア」は分格目的語だ。否定文の目的語は分格(ロシア語なら生格)だからな。。。 と生かじりが蘇るんですが‥ そんなことより、
どうです? 訳してみてよかったですね。こんなすごい歌詞だなんて‥
フィンランドの教会は、ドイツと同じルター派プロテスタントなんですが…、それにしては、なにか、真逆を向いているような感じさえします。
力も栄光も私は索めない
黄金にあこがれることもない
富者よりも貧者にこそ
すばらしきクリスマスは来たれ
クリスマスに、こんな歌を歌う国が、ほかにあるでしょうか? なんといっても、シベリウス唯一のフィンランド語のクリスマス・キャロルですから(ほかの4曲はスウェーデン語)、この唄は、じっさいに今でも盛んに歌われるそうです。
さて、“お国がら”の最後は‥‥:
↓「ウィンター・ワンダーランド」は、北アメリカでは、クリスマス・ソングの識られたナンバー。歌詞はクリスマスとは関係ないのですが、冬の歌ということで、クリスマスによく歌われるとのこと。基本的にアメリカ文化には疎い(てか、食わず嫌いの耳ふさぎ?)ギトンですから、このメロディーも、くだらないディズニーの歌の一種だと思ってました←
クリスマスのお国がら、アメリカ篇‥‥ということで、ルイ・アームストロングに唄ってもらいましょう。特集の締めにはピッタリです。
「ウィンター・ワンダーランド」
フェリックス・バーナード/作曲
リチャード・スミス/作詞
ルイ・アームストロング/vocal
ザ・オールスターズ・リズム・セクション
雪の中の旅人
夜半を打つ谷間の時計台、
冷たく剥き出しの月がそらを渡る
雪と月のひかりのなかを途(みち) すがら
わたしは自分の影を伴に独り歩いている。
いくたりの春の芽吹きのみちをわたしは歩いたことか、
夏の太陽が照りつけるのを幾たび見たことか!
わたしの歩みは疲れきって髪は白くなった;
もう昔のわたしの姿を知る者はない。
疲れきってわたしの瘠せこけた影が立ち止まる―
どんな旅もいつかは終るのだ。
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