不 安
消えようとする炬火(たいまつ)のおきび
苔むす階(きざはし)と壁――
わたしの夢は慄(おのの)きながら家じゅうを
歩き回り、ふるえる腕を高く
上げてたいまつの火を消した。
髪に萎(しお)れた花冠を
圧(お)し込んで眼にはいまだ煌(きら)めく宴(うたげ)の
賑(にぎわ)いを見つつ、わたしは窮屈に 後味悪く踊り飽きて
ひとり亡霊のように広間に立ちつくす。
夢がわたしのそばを通りすぎた、
わたしと同じくらい蒼白だった、――
その陰鬱な歩みが広間を忍びゆくのが
聞こえるかのようだった。
わたしはぞっと戦(おのの)いた。
夢は立ち止まりわたしに手を
差し出した。その手は冷たく重かった、
わたしが右手で握り返したとき、
彼は鋭く叫び、驚き、消え、
その姿はもうなかった。
広間がこだました。わたしは髪に
まだ花冠をつけていたが、
眼に見えていた宴はひとすじの
煌めきを残して消えた。
わたしはぞっとした――真暗な夜だった!
そしてやわらかな母のような手で
眠りの扉がそっと開かれた。
アルヴォ・ペルト『鏡の中の鏡』
タスミン・リトル/ヴァイオリン
フィリップ・グラス↓は、↑アルヴォ・ペルトと同じ《ミニマル・ミュージック》の代表として挙げられることがあります。グラス自身は、《ミニマル・ミュージック》と呼ばれることを好まないようですが、たしかに、単純なメロディーの繰り返しや、単純な和声の組み合わせだけで構成される音楽は、ペルトとは違う意味で、私たちを非日常の世界へと没入させてゆくようです。
映画『めぐりあう時間たち』主題曲
フィリップ・グラス/作曲
「『めぐりあう時間たち』(英: The Hours)は、2002年アメリカ映画。スティーブン・ダルドリー監督。マイケル・カニンガム原作。女性作家ヴァージニア・ウルフの小説『ダロウェイ夫人』にかかわる2人の女性と作者―――まったく異なる時代に生きた3人を描く。」
⇒:ウィキ
「フィリップ・グラス(Philip Glass, 1937年1月31日 - )は、アメリカ合州国の作曲家である。その音楽はしばしばミニマル・ミュージックと呼ばれるが、グラス自身はこの呼び名を歓迎していない。
グラスはメリーランド州ボルチモアのリトアニア系ユダヤ系一家に生まれ、子供の頃からピーボディ音楽院でフルートを習った。ジュリアード音楽院に進み、そこで鍵盤楽器を主に弾くようになった。
卒業後、フランスでナディア・ブーランジェに師事し、ラヴィ・シャンカール(インド・ヴァーラーナシー[ベナレス]生まれのシタール奏者)とともに働いた後、グラスは主に宗教的な動機から北インドへ旅行し、そこでチベット難民と出会った。1972年、グラスは仏教徒となり、ダライ・ラマ14世に面会した。グラスはチベット問題に強い関心を持ち、チベット難民を強力に支援している。
グラスの作品は禁欲的な構成から、次第に複雑なものになっていった。そしてグラス自身の見解ではまったくミニマル・ミュージックとはいえないものになっていった。
グラスは、オペラのほか、舞台演劇のための音楽や、多くの映画音楽を書いている。」
⇒:ウィキ
映画『めぐりあう時間たち』から
「モーニング・パッセージズ」
フィリップ・グラス/作曲
私たちは時間の中で生きていますが、私たちと時間との関係を逆さにして、時間のほうから私たちを見たら、どうなるのか?
“いま”、“さっき”、“むかし”、“未来”、‥‥そんなものが、はたして存在するのだろうか? それらはみな、私たちの思い過ごしなのではないだろうか?
生涯が数時間しかない生物にとっては、時間はおそろしくゆっくりと流れるにちがいない。私たちの眼には、まったく動かないように見える草花や樹木にとっては、一日はあっというまに過ぎてゆくことでしょう。数日~数週間が、ひと呼吸の合い間なのかもしれません。
毎日、毎日、同じ明暗をくり返しているように見える大地。毎年、毎年、同じ季節を交替させているように見える・この世界。しかし、繰り返されるさまざまな現象も、さまざまの生も、ふたつとして同じものは無い。永い生も、短い生も、永劫の運行も、刹那、刹那に明滅する現象も、すべてが固有でかけがえのない一度限りのものなのです。
私たちは、それぞれの生から一歩下がって眺めれば、そうした世界の全体を見わたすこともできるのに、ふだん、あまりにも眼の前を過ぎてゆくものだけを、見てはいないでしょうか? あまりにも狭い世界に、生きてはいないでしょうか?
映画『トルーマン・ショー』から
「トルーマン眠る」
フィリップ・グラス/作曲
ブルクハルト・ダルヴィッツ/音楽制作
「『トゥルーマン・ショー』(The Truman Show)は、1998年アメリカ映画。
離島・シーヘブンで、保険会社に勤めるトゥルーマン・バーバンクは、生まれてから1度も島から出たことがなかった。
ある日、彼がいつものように新聞を買ったあと、雑踏の中ひとりのホームレスの老人とすれ違う。それは幼い頃、海に沈み亡くなったはずの父親だった。しかしその直後、老人は瞬く間に何者かに連れ去られてしまう。彼はこの出来事をきっかけに、自分の周囲を不審に感じ始める。
実は、トゥルーマンは生まれたときから人生の全てを24時間撮影されていた。彼はアメリカ合州国民ですらなく、彼の人生は全てそのままリアリティ番組『トゥルーマン・ショー』として世界220か国に放送されていた。彼の住む街は万里の長城に匹敵するドーム内に作られた巨大なセットで、太陽や月、星々も機械仕掛けの照明装置に過ぎず、雨や雷鳴などの気象も人為的なものであり、そして何よりトゥルーマン以外の人物は全て俳優なのであった。もちろん死んでしまったという父も本当の父ではなく俳優である。
この番組ではCMは入らず、番組中で商品の宣伝が行われている。トゥルーマン以外の人物はみな、缶ビールをカメラに向けて飲んだり、草刈り機や万能ナイフを使ったりして、さまざまな商品の宣伝をしているのである。宣伝のために、彼らが言う言葉は、日常会話としては非常に不自然で話がかみ合っていない。これらを聞いたトゥルーマンは、周囲への疑いをさらに深めていく。
トゥルーマンは島からの脱出を考え、フィジー島へ行こうとするが、不可解なトラブルが続発して島の外に出ることができない。。。」
⇒:ウィキ
みごとと言うほかはない“つくりもの”の世界。
しかし、私たちもまた、ある意味で、この映画とあまり変わらない“つくりもの”の舞台装置と、自分が俳優であることにさえ気づかない人びとの演技に囲まれて、それらが“ほんもの”だと思いこんで、生きているのではないでしょうか?
宴(うたげ)のあと
卓にはワインが零(こぼ)れ、
蝋燭はいよいよ暗くゆらめく、
またわたしはひとりになってしまったんだもの、
またひとつの宴が終ったのさ。
ひとつまたひとつわたしは蝋燭を吹き消してゆく
ひっそりとしずまった部屋べやを回って、
庭の風だけが不安そうに
黒ずんだ樹々たちと語り合う。
ああ、疲れた眼(まなこ)を閉じてしまうという
この慰めがあってこそ……!
いつかまた目を覚まそうという
意欲さえわたしは感じない。
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