2018年アメリカ合州国で制作された慰安婦論争に関するドキュメンタリー映画。監督は、日系2世のミキ・デザキさん。米日韓3国で、論争両サイドの関係者へのインタビュー、議会質疑、裁判所での証言などを取材し、綿密に構成したものです。
監督が、上映開始後の記者会見でも語っているように、
とくに慰安婦を否定する側(「否定論者」:日本会議、新しい歴史教科書をつくる会等)へのインタビューは、途中を省略せずに、全面的に映像化して公平を期しているので、見ていて安心感があります。それでいて、“慰安婦は売春婦であって人権侵害などない”とする彼らの主張の不当さ、欺瞞性、政治的意図は、おのずから浮き彫りになっていきます。
日本とアメリカでの“慰安婦否定”の一連の動きが、安倍晋三をはじめとする一握りの人々の、組織的陰謀的なキャンペーンとして行われてきたということも、この映画で、“論争”の経過をまとめて見ると、たいへんよくわかります。
以下、感想ですが、
1 日本でこの問題がクローズアップされる少し前、アメリカでは、第2次大戦中に“敵国人”として抑留された日系人に対する補償を、連邦政府が行なっています。補償法に署名するレーガン大統領の満足そうな微笑みと、“金銭によって償えるものではないが、名誉回復にこそ重要な意味がある”という署名式での演説が印象的でした。
じつは、1991年に、韓国人慰安婦、徴用工、徴兵兵士などの問題が日本で提起されたのは、この日系人補償に刺激を受けたのが、ひとつのきっかけでした。日本人は補償を受けたけれども、自らの加害に対しては補償をしないのか? という問題意識があったのです。映画の署名式を見ていて、そのことを思い出しました。
2 “慰安婦論争”の経過の中で、最初に慰安所に連れて行かれる際の“強制性”に、関心が集中しすぎたのではないか、という印象を持ちました。
「否定論者」は、みなこの点をとらえて、“強制性”や、国と軍の関与を否定しようとして強弁する。そのためか、“告発側”も、この点に集中して、「募集」という名の詐欺であったこと、女性たちの意思に反していたこと、またしばしば、無垢の処女を慰安婦にするための輪姦が行なわれたことを論証する。加えて、騙して連行した以上、刑法上の略取誘拐罪であり、当時すでに国際条約違反であったことを指摘する。
当初この問題が、裁判を中心に提起されたこともあって、法律問題にだけ議論が集中してしまい、こういう経過になったのではないかと思うのです。
しかし、ここ数年のあいだに何度か、“慰安婦問題”をよく知らない人(非専門家)と議論してみて(機会をとらえては「対話」するようにしているのですが)、
「慰安所」制度が“性奴隷制”と言われるべき根拠は、そこではないと、そのたびに強く感じるのです。むしろ、「慰安所」での“1人5分~15分、1日20人~50人”を毎日という稼働実態、慰安婦1人に対して男性(兵士及び軍属)100人以上という異常な比率、監禁的処遇、……などの「慰安所」の“性欲処理システム”に焦点を当てなければ、“性奴隷”的性格は明らかにならないと思う。
この映画でもやはり、その点は十分に捉えられていないと思いました。“論争”のドキュメンタリーという性格上、それはやむをえないことなのですが。
3 もっとも、“連行”の強制性と公権力の関与も、それ自体は、やはり重要です。
というのは、おおぜいの無垢の少女を、詐欺であれ暴力であれ、集めたからこそ、上のような過酷な「慰安所」システムが可能になったのだ、と思われるからです。たとえば、かりに職業的売春婦を集めて連れて行ったとしたら、上のようなシステムを作れたかどうか、考えてみればよい。早晩、反抗するか逃げ出すかしてしまうでしょう。
4 「再軍備するということは、私の国(アメリカ)が始めた戦争を、日本がするということです。あなたには、その覚悟がありますか?」 という、監督の最後のナレーションが印象的でした。
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