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モスクワ 赤の広場


 


       朝

 もう愛欲の夜はわたしを惹きつけはしない
 なみなみと湛えた杯
(さかづき)にしても。
 わたしは夜の有象無象
(うぞうむぞう)から
 憤りの朝に起き上がる。

 紅蓮
(ぐれん)の炬火が燃え上がり、
 朝は真正面からわたしを見つめている。
 住みなれた祖国は
 もはやわたしの故郷
(ふるさと)ではない。

 人びとの話し声が
 地底に沈んだ町々からのように響く;
 かれらが居るということ、また彼らのふるまいは、もはや
 わたしの世界ではない。

 痛みと快楽の鈍い大波から
 わたしの意識は冷たく純に析出する。
 きのうは無定形な戯れであったものが、
 きょうは形と規律と結晶をつくるのだ。




 これまた、ヘッセの感覚は並みのものではないという好例ですね。“朝”といったら、すがすがしい、さわやか、‥‥と感じるのがふつうなのに、「ぐれんの炬火が燃え上が」る「憤りの朝」……そこから、「形と規律と結晶」が浮かびあがってゆく。。。  想像するのも難しい。目が覚めてみたら、彼はベットから出て、窓の外をじっと眺めている‥ 焔が燃えさかるのが見えてるのかしらん... なんてのしか思い浮かびません。  これにあった音楽を探すとなると、もう至難のわざ。↓こんなのは、どうでしょ?

 

ムソルグスキー:組曲『展覧会の絵』から
「ババ・ヤーガの小屋」~「キエフの大門」
グスタフ・ドゥダメル/指揮
シモン・ボリヴァル交響楽団

 


 ムソルグスキーといえば、『禿山の一夜』のエンディングは朝だっけ。でも、「ぐれんの炬火」なんかじゃない、ごくふつうの朝でした。もっとも、この朝らしい朝は、ムソルグスキーのオリジナル版には無くて、リムスキー=コルサコフのカバーなんですね。ムソルグスキーも、ちょっとおかしい人だから、「紅蓮の焔」の朝をイメージしたのかも。でも音楽にはならなかった。。。 

 

 ↓“朝”は、7:07~

 

ムソルグスキー『禿山の一夜』
リムスキー=コルサコフ編曲版
レオナード・バーンスタイン/指揮

 

 



 

 


 さて、“ムソルグスキーの朝”を、もう一曲。これも、「炬火」にはほど遠いですが、「結晶」になっていくような感じはする?‥

 

ムソルグスキー:歌劇『ホヴァーンシチナ』から
前奏曲「モスクワ川の夜明け」
リムスキー=コルサコフ編曲版
エウゲニー・スヴェトラノフ/指揮
USSR交響楽団

 


 さいごに、前回聴いた『ガヤーネ』から、「剣の舞い」についで有名な曲。ハチャトゥリヤン本人の指揮です。踊ってる人たちは、どこのダンサーかわからないけど、みごとですね。ボリショイ・バレエでしょうかね? 途中で、男のメインのダンサーが、相方の女のダンサーに何か言ってるんですよね。わかりますか? こういうのが録画されるのは、ほんとに珍しい。

 

ハチャトゥリヤン:バレエ『ガヤーネ』から
「レズギンガ」
アラム・ハチャトゥリヤン/指揮


 


      夜々

 なまぬるい風があてもなくさまよう
 湿原のそらで夜の鳥が
 がさがさと飛び回っている
 遠くの村で漁師が唄をうたう。

 存在したことのない時代から
 くぐもった声が伝説
(サーガ)を歌いだす
 永久
(とわ)なる苦悩の嘆きを歌う;
 その声を夜聴く者に災いあれかし!

 嘆きの風、さわぐ森、ねえ君
 ぼくらのまわりの世界は苦悩で重い。
 鳥の羽ばたきに耳を傾けよう
 そして村から聞こえてくる唄にもね。



 

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