少年期が逃れ去る
憔悴した夏が頭(こうべ)を垂れ
湖面に映った黄灰色(きはいいろ)の自分の影を望む。
ぼくは疲れきって埃だらけで
並木の翳(かげ)をぶらついている。
ポプラの列を弱々しい風が抜けてゆく、
ぼくのうしろでは空がもう赤い、
前方にある夕刻の覚束なさ
――そして黄昏(たそがれ)――と死。
疲れきって埃だらけでぶらついている、ぼくのうしろで
歩くのをためらい立ち止まってしまった
ぼくの少年期、美しい頭を傾(かし)げて
もう僕といっしょに前へ進もうとはしないのだ。
リヒャルト・シュトラウス『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』から
グスタフ・ドゥダメル/指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
「オイレンシュピーゲル」は、北ドイツに伝わる民話の主人公で、14世紀の実在の人物だったという説と、15世紀に創作された架空の人物だという説があるそうです。ウィキぺディアの説明は、実在説にしたがって書かれていますが。↓
「かつて人々が口伝えに物語ってきた彼の生涯は、15世紀にドイツで民衆本『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』 にまとめられ、出版された。〔…〕ここで繰り広げられる彼のいたずら話やとんち話は、日本でいうところの一休さんのように非常に有名である。教会や権力者をからかうティルの姿勢は、日本の吉四六さんにも似通っている。」
「ティルの活躍をたんに職人のいたずら話としてのみとらえるだけでは不十分なのである。ここには社会の狭間に生きているが故にあらゆる階層の人々に対して一定の距離をとることができ、それ故に孤独ではあるが生涯をいたずらに徹して生きた一人の人間が描かれている。」
阿部謹也・訳『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』,1990,岩波文庫;「解説」,p.404.
ドイツのテレビ・ドラマ (2014年)
ロケ地:クヴェドリンブルク
オイレンシュピーゲルは、行く先々の町で、いろいろなイタズラや意地悪をして町の人びとを困らせるのですが、イタズラには、いくつかのパターンがあります。
【1】 ウンチをする
多いのは、旅籠や人の家の中でウンチをして、臭い匂いを嗅がせることです。宴会をしている広間の隣の部屋でウンチをして、壁の穴から臭気を送ったり(第77話)、
「ここは浄めの館だ」と称して客を有難がらせている銭湯に行くと、洗い場でウンチをしてしまう。銭湯の主人が怒ると、「身体の外側だけでなく、中もきれいにしてこそ浄めではないか」と答えます(第69話)。
親方に、「糞でもしやがれ!」と叱られたオイレンシュピーゲルは、部屋のなかに糞をし、驚いた親方が「早く片付けろ!誰もが嫌がるところ(誰も来ない所)に持って行け!」と言うと、食堂に運んでゆく。そこに置けば、誰もが嫌がるというわけです(第51話)。
自分が糞をするだけでなく、偉いお坊さんにまで糞をさせてしまいます。ミサの時にオナラをしたのをオイレンシュピーゲルに咎められた神父さまが、
「つまらんことを言うな。この教会はわしのものだぞ。わしは教会のどまんなかで糞を垂れることだってできるんだぞ。」
「神父さまがそんなことできるわけないでしょう。ビールを1樽賭けますかい?」とオイレンシュピーゲルにけしかけられた神父は、ほんとうに糞をしてしまいます。
ところが、オイレンシュピーゲルは、巻き尺を持って来て、両方の壁から糞までの距離を測り、「どまんなかじゃなくて、かなりこっちに寄ってますよ。」と言って、ビール1樽をせしめてしまうのです(第21話)。
民衆本の挿絵 (第69話)
【2】 お尻をむき出して見せる
中欧各地には、オイレンシュピーゲルの彫像が建てられていますが、子供のオイレンシュピーゲルが尻をむき出して見せているものや(↓下の写真)、下半身裸かで尻を突き出したオイレンシュピーゲル像があります。尻をむいて見せる話が、いくつかあるからです。
宴会の客が見ている前で、焼いている肉の上に、尻の穴からバターをたらしたり(第72話)、ズボンを下ろして尻の穴を大きくひらいて見せたりして(第66話)、相手を撃退するのに成功します。
第58話では、ワインの入った缶を、水の入った缶とすり替えて、くすねたのがばれたオイレンシュピーゲルに、縛り首の判決が下されます。しかし、オイレンシュピーゲルは、得意の“お尻見せ”によって、処刑を免れてしまうのです。
「《要 約》 処刑の日には、おおぜいの市民が見物にやってきた。
市参事会員らに、オイレンシュピーゲルは、ミサも追悼も葬儀も、費用のかかることは何ひとつ望まないので、お金をかけないでできることを一つだけお願いしたい、と言う。市参事会員は、市民たちが見ているので、無下に断わるわけにも行かず、『まったく費用がかからないことなら、聞き届けよう。』
『では、私の願いをかなえてくださる方は、挙手宣誓してください。』
参事会員は、みな手をあげて誓いを立てた。
『私が吊るされてから3日間、毎朝刑場に来て、訴えたワイン・ケラーの主人から死刑執行人まで順番に、私の尻に、おごそかにキスしてほしいんでさ。』
参事会員は、そんなことをさせるわけには行かず、かといって、おおぜいの市民の前で立てた誓いを破ることもできないので、処刑を中止してオイレンシュピーゲルを釈放してしまった。」
ステファン・ホロタ製作
ベルリン、ヴァイセン湖
【3】 親方の言いつけを、言葉どおりに実行する
たいへん多いのは、比喩的な言い回しを、わざと言葉通りに実行して、言われたのとは反対の結果にしてしまうイタズラです。
岩波文庫の訳者・阿部謹也氏によると、当時の同職組合(ギルド)では、親方の地位が上昇し、職人の上に立って支配するようになったので、ことさらに勿体ぶった言い方や、もって回った言い回しをしたり、職人を乱暴な言い方で罵倒する親方が多かったのだそうです。
そこで、靴屋の親方が、
『大きい靴と小さい靴を、つぎつぎに縫うんだぞ。』
と命じると、オイレンシュピーゲルは、大きい靴を小さい靴に縫いつけ、それをまた大きい靴に、それをまた小さい靴に縫いつけて、何十個もの靴を一列につなげたものを作ってしまいます(第43話)。
仕立て屋の親方が、
『袖を上着にぶっつけてから寝ろよ。』
と言って、先に寝てしまうと、オイレンシュピーゲルは、壁のハンガーにかけた上着に、袖を投げつけては拾い、投げつけては拾いします。朝、親方が起きてきた時も、投げ続けながら、
『あっしゃ、ゆうべから何百回ぶっつけたかわからないのに、袖のやつ、いっこうにくっつかないんでさあ。』
と言うのです。もちろん、親方が言ったのは、上着に袖を縫いつけろということです(第48話)。
パン屋の親方からパンを焼くように言われたオイレンシュピーゲルが、「でもいったい何を焼いたら、いいんですかい?」と尋ねると、親方は、いらいらして、
『てめえはパン職人のくせに、何を焼いたらよいかなどと、よくも聞けたもんだな。フクロウでもオナガザルでも焼いてみろや!』
と怒鳴って出かけてしまいます。残ったオイレンシュピーゲルは、フクロウとオナガザルの形のパンをたくさん造って、仕事場にあった小麦粉を残らず使ってしまいました。
帰って来た親方は、カンカンになり、「こんなパンは誰も買わねえ!」と言って、小麦粉の値段を弁償させてオイレンシュピーゲルを追い出しました。
ところが、オイレンシュピーゲルが、そのフクロウとオナガザルの形のパンを、縁日の教会堂の前で並べて売ったところ、人びとは、おもしろがって買ったので、親方に弁償した金額の倍儲かった。親方は悔しがって、薪代とパン焼き窯の使用料を請求しようとしたが、オイレンシュピーゲルは、もう他の町へ逃げたあとだった(第19話)。
『オイレンシュピーゲル』の原作がおもしろいわりには、上で聴いたリヒャルトシュトラウスの交響詩は、いまいちな感じが‥‥ぼくは、してしまうんですね。
そこで、もう2、3曲、“諧謔な音楽”を探してみたいと思います。
まず、プロコフィエフは、“諧謔”“風刺”の資格十分だと思います。組曲『三つのオレンジへの恋』から:
プロコフィエフ『三つのオレンジへの恋』から
マーチ
フィラデルフィア管弦楽団
プロコフィエフ『三つのオレンジへの恋』から
スケルツォ
ミハイル・ユロフスキー/指揮
モスクワ市立交響楽団“ロシア・フィルハーモニク”
同じ時代、同じソビエト・ロシアのハチャトゥリヤンのバレー音楽にも、似たふんいきのものがあります。『ガヤーネ』は、「剣の舞」が有名ですが、↓これは、コルホーズ(集団農場)の納屋が、不心得者に放火されて炎上する場面。めらめらと焔が燃え広がったり、火の粉が散ったりするようすが、眼に見えるようです:
ハチャトゥリヤン:組曲『ガヤーネ』から
「火事」
ズデニェク・ハラバラ/指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
それでもぼくは心に希望をもつ
ろくでもないことをずいぶんたくさん書き散らした
ろくでもないことをしてきた、それでもぼくの心は
調子のよい時にはしばしば希望をもっている、
ぼくを愛してくれる人だっているんだと。
かれらがぼくを愛するのは、ぼくが心のなかに
少年の自画像を抱いているから、
そしてかれら自身の遠い日々と
さいきんの罪とを思い出すからなのだが。
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