さいごの硝子珠競手(グラース・ペルレン・シュピーラー)
その競技の器具、いろとりどりの粒を握って
腰をかがめる彼のまわりに、戦争と疫病にみまわれた
国土が広がっている;廃墟に木蔦(きづた)が
はびこり、木蔦に蜜蜂が群がる。
倦んだ平和が、古い鈍感な詩篇の唄が
世界をみたしている、老いきった静かな老人。
老人が彼の彩やかな粒をかぞえ
こちらで青い粒、白い粒をつまみ上げ
あちらで大粒の珠、小粒の球を拾い上げ
それらを競技のために円く並べる。
老人はかつて数々のシンボルとともに
偉大な競手にして数々の技芸と言語の匠(マイスター)であった
世界を識る者、諸国を旅せし者、
その名声は両極にまでも聞こえ
つねに多くの弟子と学友に囲まれていた。
いまや彼は余計者、老いて擦り切れ孤独になった
彼に祝福を求める信奉者は見あたらず
彼に論争を挑む学士はもはやいない;
彼らは逝ってしまった、神殿も図書館も
カスタリアの学院も今はなく。老人は
廃墟の野原に、珠を握りしめて独り立つ、
その粒(ペルレン)は、かつてエジプトの絵文字のように
多くを語ったが、いまは色のついたガラス屑にすぎぬ
それらは年とった手のひらから零(こぼ)れると、音もなく
砂粒に吸いこまれて消えるのだ……
カスタリアは、ギリシャのデルフォイ神殿のそばにある泉で、詩人に霊感を与える力があるとされる。ヘルマン・ヘッセの小説『ガラス玉遊戯』(1943年発表)では、知的エリートの研究・芸術制作および教育のために設けられたユートピア的な領邦が、「カスタリア国(カスターリエン)」と呼ばれる。「薔薇十字団」のような男だけの結社(オルデン)らしいんですね。「ガラス玉遊戯(グラース・ペルレン・シュピール)」とは、カスタリア国で行われる、科学と芸術を総合する競技。
ところで、↑上の詩が書かれた 1937年9月とは、世界的に、どんな時期だったのか?
2ヶ月前の 7月に、日本と中華民国の間で起きた《盧溝橋事件》は、日中全面戦争に拡大し、中国で《第1次国共合作》が成立、東アジアは風雲急を告げていました。
しかし、ヨーロッパでは、1933年ナチス党がドイツで政権を握り、翌年ヒトラーが総統に就任したあと、1939年に第2次大戦が開始されるまでのあいだは、つかのまの――ぶきみな――平和が支配している時期でした。
スペインでは、フランコ独裁政権が、自由主義者~共産主義者の人民戦線を容赦なく弾圧していましたが、日・独・伊はもとより、ヨーロッパ各国政府もフランコ政権を事実上支持し、大戦へと歩むファシズムの台頭を、なすすべもなく静観している状況だったのです。
ヘッセの上の詩も、そうした時代のふんいきを反映しているのかもしれません。
この時代の音楽といえば、なんといってもアメリカを中心とするジャズの隆盛ですが、今夜は目先を変えて、ロシアを見てみたいと思います。
ロシアの作曲家プロコフィエフは、ロシア革命後、日本を経由してアメリカに亡命し、アメリカ合州国とフランスを拠点として、作曲家、ピアニストとして活動していました。その後、1930年代にはソビエト・ロシアに帰国・定住し、映画音楽やバレーのための音楽を中心とする作曲活動を開始しています。「ロミオとジュリエット」「エウゲニ・オネーギン」「イワン雷帝」「戦争と平和」など、プロコフィエフを世界的に有名にした曲群は、みな映画とバレーの大作のために書かれたものです。
↓こちらは、プロコフィエフが、ロシア映画『キジェー中尉』(1933年)のために作曲した映画音楽。⇒:wiki:“Lieutenant Kijé” wiki:“Lieutenant Kijé (Prokofiev)”
【あらすじ】
18世紀のツァーリ(ロシア皇帝)パーヴェル1世の宮廷で起きた珍事件。ツァーリの就寝中に、廷臣たちがふざけあっていて、奇声を発してしまった。目を覚ましたツァーリは、いま騒いだ犯人を連れて来い、さもなくば全員を終身流刑にする、と激怒の剣幕。その時、たまたまツァーリが見ていた兵役勤務名簿に、書記の書き間違えがあって、
「まさに、……少尉らを、中尉に任官せしむ。」
とすべきところを
「キジェ少尉および……を、中尉に任官せしむ。」
と書いてあった。原文でいうと:
「プラポルシチキ(少尉[複数]) ジェ 誰々」
が、ほんのちょっとの筆の滑りで、
「プラポルシチク(少尉[単数]) キジェ 誰々」
になってしまった。「ジェ」は、「まさに」という程度の意味です。これも、書き間違えがツァーリに見つかれば、一人や二人の首が飛ぶ重大事。
ツァーリに、
「このキジェー中尉というのは誰かね? 聞きなれない名前なんだが…」
と尋ねられた廷臣は、とっさに、2つの“大罪”を組み合わせて両方とも免責にしてしまう手を思いついた!
「キジェー中尉」なる架空の貴族をでっちあげて、昨夜騒いで、ツァーリの安眠を妨げたのは、まさにこの男でございます、と。そして、ただちに、「キジェー中尉」は、官位剥奪・むち打ちの上、シベリア送りと相成ったのでした。
ところが、その後、夜中の奇声の犯人が発覚してしまい、そのころにはツァーリの怒りも収まっていたので、シベリア送りにはならずに済んだが、濡れ衣でシベリアに送られた「キジェー」を呼び戻して復権させよ、ということになった。ツァーリは、すまないことをしたという反省の気持ちからか、「キジェー」を大佐に昇格させ、ことあるごとに「キジェー」のことを気にかけて、廷臣にあれこれと御下問されたまう。これに応じて、廷臣も、「キジェー」の生まれから、生い立ち、恋愛に至るまで捏造し、果てはガガーリナ皇女との婚約をツァーリにご報告。喜んだツァーリは、「キジェー」を将軍に任じ、多額の持参金と領地を与えるよう命じる。
何もかも、ツァーリのご命令のままに執り行われているかのような書類が捏造され、うやうやしく積み上げられて行きます。その実、「キジェー」なんて人は最初からいないんですから、冷や汗ものですが、廷臣たちは、こんなことには馴れたもの。「キジェー将軍」に下賜された多額の持参金も、山分けして着服してしまいます。
ところが、皇女の婚約相手に一度も会ったことがないのに気づいたツァーリは、
「朕はキジェー将軍に会いたい。ただちに謁見させよ。」 と‥‥。
困りきった廷臣たちは、キジェー将軍が急死いたしました、と涙ながらにご報告。盛大な葬儀を営むのでした。。。
この映画、革命前のツァーリの専制政治が、いかにひどかったかという風刺として、ソビエト国家に公認され、プロコフィエフの音楽が良いこともあって、国内外でたいへんな人気を博しました。この映画の成功は、亡命していたプロコフィエフが、故国に迎えられるきっかけにもなったのでした。
しかし、見ようによっては、現時下のスターリン独裁体制を皮肉った映画とも、とれなくはありません。ロシアの人びとが、じっさい、どちらの解釈で見ていたのかは、わからないのですw
プロコフィエフ『交響組曲 キジェー中尉』から
第2曲「ロマンス」
アンドレアス・シュミット/バリトン
小澤征爾/指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
プロコフィエフ『交響組曲 キジェー中尉』から
第4曲「トロイカ」
アンドレ・プレヴィン/指揮
ロンドン交響楽団
↓こちらは、エイゼンシュテイン監督/プロコフィエフ作曲からなる 1938年公開の映画『アレクサンドル・ネフスキー』(最近の再制作版)。
独ソ戦の勃発を目前にして、スターリンの肝いりで作られたこの映画は、13世紀ロシアに侵入したドイツ騎士団を、ノヴゴロド公国のアレクサンダー1世が撃退した歴史的決戦を描いています。戦いの分け目は、氷結したチュド湖の上で両軍が衝突した「氷上の決戦」。重い甲冑に身を固めたドイツ騎士団は、その重量のために氷が割れ、あえなく水中に落ちて溺れてしまったという筋書きです。日本の“蒙古襲来”に似てますね。
この映画、もちろん、ドイツ軍の侵入を予想して、愛国心を鼓舞する目的で作られたもの。スターリン自ら、映画の制作過程に介入して検閲し、くちうるさく注文を付けたとか。これには、エイゼンシュテインもプロコフィエフも、たいへんに悩まされたことが、ソ連崩壊後に公表された資料で明らかになっています。
↓ご覧いただくのは、氷上での戦闘が開始されるまでのシーン。ドイツ騎士が溺れるところまで見たい人は、ユーチューブで、映画のフルビデオを探してくださいねw
映画『アレクサンドル・ネフスキー』から
氷上の戦い
セルゲイ・エイゼンシュテイン/監督
セルゲイ・プロコフィエフ/作曲
ユーリー・テルミカノフ/指揮
サンクト・ペテルスブルク・フィルハーモニー管弦楽団
さて、今夜のヘッセの詩(いちばん上↑)は、彼の最後の長編小説『ガラス玉遊戯』の執筆中に書かれたもので、小説の内容とも関係がありそうなのですが、‥ここで、へたな解説を捏ねるのはやめておきましょう。
そういうわけで、↓これまた、ヘッセには遠く及ばない腐れた自作詩ですが、わたくしなりのレヴューとして、掲げておくことにします。
★ さいごの硝子玉遊者(グラース・ペルレン・シュピーラー)たち
インド洋に面した真夏の草原
真緑(まみどり)の天鵞絨(ビロード)の卓を裸の少年たちが囲む
瘠せた頬と眼が光る;透きとおった小さな硝子玉(グラース・ペルレン)の戯れ
少年たちの指先よりも小さな青白い珠(たま)、
さそりの紅い眼玉、ぬばたまの深菫色(すみれいろ)、
ひとりの少年が屈(かが)んで珠を撃つ
天井に光の浪がゆれビロードの上を珠が流れる
そらのどこかでカタッと響く音
草原をみたす銀の細流
傾くことのない白い日が
コロナの照りかえしを浴びている。
珠と珠とはぶつかり、また遠ざかり
また近づいて、共振する
珠と珠がふるえあう
少年たちの精液
触れる指先のしずく
紅みをはらんだ胸(むな)先の小さな粒と舌の先
舌先のしずく、珠と珠とはぶつかり。
人びとが愛について語る真昼の浜辺
その声は遠く聞こえ、ぼくたちは関心をもたない
浪のおとは遠く、風のうなりは高く
砂けぶりは、太古の海底に棲む生きものの破砕物
ぼくたちのくちびるは迦葉仏(かしょうぶつ)の世を生きる;
汀(みぎわ)を歩む人は、水彩で描かれた幽霊のよう
横臥(よこたわ)ってもつれる裸体に、やさしい人びとは気づかない
かぐわしい汗、中天の熱い泉、あなたがたはきっと
ぼくたちをいつか誇りに思って迎えることだろう。
そらのどこかでカタッと音がして
硝子の粒たちが流れる
伸びきった皮の先で雫(しずく)がひかる
陽の落ちた浜辺をそぞろ歩む人びとは
見えない垣根をめぐらして愛を語る
自らの眼をもふさいで愛を語る
愛とはなにものでもないのに
誰にも妨げられぬ愛などないのに:
青い天鵞絨(ビロード)の上で戯れる
硝子珠遊者(グラース・ペルレン・シュピーラー)たち
ぼくたちにとってその遊戯(シュピール)は
愛である前に確信であり
確信である前に真理なのだった
鏡のなかのきみはぼく
鏡のなかのぼくはきみ
時間のない鏡の空間(ラウム)にたたずむ少年たち
手をとりあう少年たち
かれらは一人
ひとつの鏡映とふたつのこころ
こちら側できみとぼくが一人であるのとおなじように――
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