ガヴォット
枯れ園(その)でうたうヴァイオリンは
コントラバスよりも低く唸る
老夫婦が拍子にあわせて跳びあがる
疲れて冷えきった笑顔。
互いに相手の考えていることがわかってしまうのだ
二十年前は、なんとちがっていたことか
この古い踊りのすったもんだを熱烈に
まるで急(せ)くようにひとつになって踊ったのに。
↑タイトルの「雅舞音」は「がぶぉと(ガヴォット)」と読んでください。
ガヴォットは、ヨーロッパに古くからある舞曲の形式ですが、たぶんいちばん有名な曲は、↓この「ゴセックのガヴォット」でしょう:
ゴセック「ガヴォット ニ長調」
ミッチェル・パーロフ/フルート
ウォレン・ジョーンズ/ピアノ
誰にでも親しまれる、愛らしい小曲ですが、この曲の歴史を調べてみると、意外に激しい時代の波に揉まれてきたことがわかるのです。
フランソワ=ジョゼフ・ゴセック(1734-1829)は、大革命時代のフランスの作曲家で、いまでは、この「ガヴォット」以外の曲はすべて忘れ去られています。しかし、その生きた時代には、“交響曲の父”とまで称せられ、30曲近い交響曲のほか、革命歌や革命賛美の歌劇も書いています。
革命期には国民衛兵軍の音楽隊を指揮し、共和政時代にはパリ音楽院監査官として、レジョン・ドヌール勲章を授与され、名声をほしいままにしたゴセックでしたが、ナポレオンがワーテルローで敗北するとともに引退を余儀なくされ、まもなくハイドン、ベートーヴェンの陰に隠れて忘れられてしまったようです。
“ガヴォット”という舞曲じたいが、このゴセックの時代を最後に、作曲家のレパートリーから姿を消していったようです。宮廷の貴族社会と運命をともにしたと言えるかもしれません。
ウィキペディア(独語版)には、↓こう説明されています:
「18世紀半ばから、ガヴォットはだんだんと時代遅れになってきた。もっとも、フランスのオペラでは、ラモーのような作曲家がガヴォットをレギュラーの舞台舞踏として登場させていたし、モーツァルトは、歌劇『イドメネオ』のためにガヴォットのバレー曲を作曲した。
〔…〕
19, 20世紀の作曲家たちも、ガヴォットをたまに作曲しているが、それらは、かつてのバロック舞曲(であったガヴォット)とは、かなり異なったものである。」
ヘッセの↑上の詩で、「この古い踊り」と言っているのは、そうした背景があるのかもしれません。この詩が書かれたのは 1898年ですが、この 19世紀末には、ガヴォットは、古めかしい、時代遅れのダンスになってしまっていたのでしょう。
ところが、20世紀に入ると、ガヴォットは、現代作曲家によって、ふたたび、少しずつですが、取り上げられるようになるのです。演奏界でのバロック音楽再発掘の動きと関連しているのかもしれません。
フォーレ、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフなどの現代作家が、ガヴォットを作曲しています。ゴセック、バッハや、それ以前のガヴォットも、バロックの他の曲とともに、演奏会で演奏されるようになりました。そればかりか、デューク・エリントンなどのジャズ・ミュージシャンも、しばしばガヴォットのセッションを繰りひろげるようになったのです。
そこで今夜は、ガヴォットの最盛期だったバロック時代から 20世紀まで、3世紀あまりにわたるこの舞曲の歴史を、駆け足で追いかけてみたいと思います。
ガヴォットという舞曲の、音楽としての特長は、「アウフタクト」というリズムにあるとされます。
ご存知のように、西洋音楽のふつうの曲は、各小節の1拍目にアクセントがあります。3拍子なら、「強・弱・弱」、4拍子なら、「強・弱・やや強・弱」というリズムです。
しかし、まれにですが、弱拍から始まる曲もあります。たとえば‥‥誰でも知ってる曲で言うと、
「ハッピバースデー トゥー ユー
ハッピバースデー トゥー ユー〔…〕」
3拍子なんですね。強い1拍目の前に、出だしの弱拍が1拍あります。
フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」も同じです。こちらは約1拍半の弱拍が先行して、4拍子:
「アロン ザンファン ドゥ ラ パトリーウ
ル ジュ ドゥ グロヮレー タリヴェ〔…〕」
こういうのを「アウフタクト」、和訳で「弱起」と言います。この「アウフタクト」が、バロックの舞曲には、たいへん多いんです。その場合、↑「ハッピバースデー」と同じように、「アウフタクト」の弱拍は、たいてい1拍です。
ところが、“ガヴォット”は、1拍目の強拍の前に、2拍の「アウフタクト」があります。ずいぶん変ったリズムだと思うかもしれませんが、バロック・ガヴォットをじっさいに踊っているところ↓を、いちど見てください。ゆったりとした優雅な感じになります:
リュリ作曲 歌劇《アティス》(1676年)
から「ガヴォット」
ジェニファー・フェル/ダンサー
カタリナ・フェリー/ダンサー
何度も飛び跳ねて踊っているのに、たいへん優雅で愛らしい感じになるのは、2拍の「アウフタクト」があるリズムのせいでしょう。
ジャン=バティスト・リュリ(1632-1687)は、ルイ14世時代のフランスの宮廷楽長で、ブルボン王朝の最盛期の貴族社会で、権勢をほしいままにしたと言われています。そのリュリが、ガヴォットの舞曲形式を愛好したので、彼の弟子たちからヨーロッパじゅうの作曲家に“ガヴォット”が広まり、たいへん流行したそうです。
↓下の曲も、現在では「リュリのガヴォット」と呼ばれている曲ですが、作曲したのは、リュリの弟子のマラン・マレーというヴィオラ・ダ・ガンバ(バロック時代のチェロ)奏者だそうです(⇒:Who Wrote “Lully’s” Gavotte?)。下の演奏は、マレーの曲を、1904年にヴィリー・ブルメスターが現代風にアレンジしたもので、バロック舞曲の原曲とは、だいぶふんいきが違います。でも、「アウフタクト」はそのままで、1拍目の前のゆるやかな出だしが、効果的に生かされています:
「リュリのガヴォット」
ミーシャ・マイスキー/チェロ
パーヴェル・ギリロフ/ピアノ
次の時代のバッハも、組曲の楽章のひとつとして、しばしば“ガヴォット”を取り入れています。バッハのガヴォットは、どこかで聞いたことのある親しみやすいメロディーが多く、みな2拍の「アウフタクト」で始まります。
聴いてほしい曲ばかりなので、どれがいいか迷うのですが、2曲だけ選んでみました。
バッハ《パルティータ第3番》BWV1006
から「ロンド形式によるガヴォット」
ギドン・クレーメル/ヴァイオリン
バッハ《管弦楽組曲第3番》BWV1068
から「ガヴォット」
トン・コープマン/指揮,チェンバロ
アムステルダム・バロック・オーケストラ
↑この下のほうのコープマンのオーケストラは、バロック時代の古楽器を集めて編成されています。管楽器の形が、いまのものとはだいぶ違いますよね? 音も古めかしいです。ヴァイオリンも、たぶんみなバロック・ヴァイオリンだと思います。
それにしても、古い楽器がこんなに残っていて、編成がそろうって、すごいですよね。
バッハの次に来るのが、↑上で最初に聴いていただいたゴセックの時代ですが... じつは、さきほど言わなかったんですが、ゴセックのガヴォットは「アウフタクト」ではないんですよね。1拍目の強拍から始まっています。ゴセックの時代になると、ガヴォットの形が崩れてきているのかもしれません。
しかし、ゴセックと同じ時代のモーツァルトは、「アウフタクト」のガヴォットをたくさん書いています。モーツァルトのガヴォットも、取捨選択に苦労するんですが、いかにもモーツァルトらしい曲を選んで聴いていただきます。
ラジオの音楽番組で、「モーツァルトの音楽は、回転しながら上昇する螺旋運動だ。」と言ってる解説者がいて、なるほどと思いました。どの曲も、遊園地のカルーセルのように、ぐるぐる回ってる感じがします。
ガヴォットも、モーツァルトが作曲すると、バロック舞曲でなくなって、アマデウス節になってしまうんですね。ちゃんと、2拍の「アウフタクト」は踏んでるんですがね。
バレエ音楽《レ・プティ・リアン》
から第3曲「ガヴォット アレグロ」
ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト/作曲
ヤーノシュ・ロラ/指揮
フランツ・リスト室内管弦楽団
ゴセック、モーツァルト以後のロマン派時代には、ガヴォットは廃れてしまいます。しかし、ベートーヴェンにも「ガヴォット」が1曲だけあるんですよw 興味のある方は、ユーチューブで探してみてください。
そこで、100年ほど飛ばして、フォーレを聴いていただきます。このへんになると、もう舞曲というより、交響詩のふんいきですね:
ガブリエル・フォーレ
舞台音楽《マスクとベルガマスク》(1919年)
から第7曲「ガヴォット」
サー・ネヴィル・マリーナ/指揮
アカデミー・オヴ・セイント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
最後は、プロコフィエフ。ソ連の作曲家ですが、ハリウッドで修業しただけあって、いつもどこかお道化たメロディーが魅力です。
仮面舞踏会にまぎれこんだロミオが、客たちとともに退場してゆく場面。このすぐあとが、例のバルコニーのシーンです。舞踏中に見初めたジュリエットの寝室に、これから夜這いしようと企んでいるロミオの心中をほのめかすように、いたずらっぽいふんいきのガヴォットを、うまく使っています。
ちなみに、“2拍のアウフタクト”も、ちゃんとありますよw 聞き取れますでしょうか?
セルゲイ・プロコフィエフ作曲
バレエ音楽《ロミオとジュリエット》から
第1幕第2場「ガヴォット」
ゲンナディー・ロジェストヴェンスキー/指揮
ボリショイ劇場管弦楽団
コンサート
ヴァイオリンの唸りは高くなよやかに
ホルンは深淵から啜(すす)り泣く
色彩豊かにまたたく淑女
煌(きら)めく光が上から照らす。
わたしはしずかに眼を閉じて
雪のなかの樹木を見る:
孤り立つ樹木、彼にはのぞむものがある
彼自身の幸福、彼自身の悲しみ。
わたしは沈んでホールをあとにする
わたしのうしろで楽しげなまた苦しげな
喧騒が退(ひ)き――しかしわたしの耳には
それは鬱陶しく響きつづけた。
雪のなかでわたしの樹(き)を探す
わたしは彼の持つものが欲しい
わたし自身の幸福と、わたし自身の悲しみ
それが魂の渇きを癒(いや)すのだ。
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