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      『魔笛』のチケットをふところに

 またもういちど、ぼくはおまえを聴きに来たよ
 大好きなオペラよ、輝かしき神殿の聖化、
 神官たちの合唱、そして愛らしい
 魔笛のうたに誘われて。

 ぼくはこれまでの長いあいだに何度も
 この劇を観るのが楽しみでしかたなかった
 観るたびに奇跡を経験した
 そして心ひそやかに誓いを新たにした
 ぼくをあなたがたの鎖につなぐ従者の誓いを、
 太古の盟に属する東方の旅人たちよ、
 この円い大地のどこにもあなたがたは故郷
(ふるさと)をもたないが
 いつも新たな秘密の従者を見いだしている。

 このたび、タミーノ、あなたとの再会は
 ぼくをつらい気持ちにさせている。この疲れ果てた耳、
 老いてしまった心は、童子の声たちよ、神官の合唱よ

 あなたがたを昔のように理解できるだろうか――
 ぼくはあなたがたの試練にたえるだろうか?

 永遠の若さに生きる幸福な精霊たちよ、
 われらの世の震動に触れられることなく
 あなたがたはいつもわれらの兄弟、みちびき手、師でありつづける
 われらのたいまつがいつか燃え尽きる日まで。

 いつかあなたがたに晴れやかな召命の時が来て
 もはやあなたがたを知る者さえいなくなったとしても
 天に掲げられた新たなしるしがあなたがたのあとを追う
 なぜならどんないのちも若々しい生気を渇望しているのだから。





 前回の「日曜の午後の魔笛」は 1926年、↑これは 1938年の作です。前回は、まるで、苦い味の妙薬を口にふくんだように、顔を苦痛にゆがめていたヘッセでしたが、この間に苦痛を乗り越え、新たな境地に踏みこんできたように思われます。

   「3人の童子」の歌声とタミーノの魔笛の音を奇跡と感じ、そこに強く惹かれる気持ちは、前回と同じですが、今回は、“神官たちの合唱”にも深い感銘を受けています。そして、


「太古の盟に属する東方の旅人たち」

 つまりフリーメイソンに対して、こころ秘かに

「ぼくをあなたがたの鎖につなぐ従者の誓いを」

 新たにすると言うのです。

 フリーメイソンでは、イニシエーションの試練に合格してメンバーとなった者を「従者(Diener)」と言うらしいです。その「試練」に、自分は耐えられるだろうかと言っています。

 もっとも、ここでヘッセが書いている、フリーメイソンに入る誓いは、比喩として読んでよいと思います。ヘッセがほんとうにフリーメイソンに入信したと思う必要はありません。

 むしろ、ヘッセが比喩として述べているのは、「3人の童子」の歌声やタミーノの魔笛の音
(ね)が象徴する「永遠の若さ」――みずみずしい感性と、何ものにもとらわれない純な心性‥‥そういったものでしょう。もっと限定して言えば、前回聴いた、「3人の童子」の最初のアリアにあった“3つの徳”:ゆるがぬ心と忍耐、そして沈思黙考によって自己との対話を重ねること、そうした努力によって、純な心性を失わぬよう保持してゆくこと――そう言ってよいのかもしれません。


 そういうわけで、きょうは最初に、第2幕の初めに歌われる「ザラストロ」のアリア「おおイシス、そしてオシリスよ」を聴いておきたいと思います。ザラストロが、タミーノとパミーナを、神々によって定められた運命のカップルとして祝福し、神官たちの同意を得て、タミーノに入門の試練を受けさせることを決める場面です。

 神官たちの賛成の挙手によって決定がなされたあと、ザラストロが歌います↓

 この場面も、さまざまな演出があって、日本のお坊さんのようなザラストロが出て来て、拝火教さながらの火の儀式(護摩焚き?!)をするのもありますw しかしここでは、英国ロイヤル・オペラの現代的な演出で観たいと思います。「ザラストロ」は、知識と権威のいっぱい詰まった西洋の老哲学者風。学者の書斎か、ケンブリッジ大学の学寮のような舞台。このようすは、歴史上のじっさいのフリーメイソンに近いかもしれません。


 

モーツァルト作曲『魔笛』
ザラストロと神官たちのアリア「おおイシス、そしてオシリスよ」
マッティ・サルミネン/バス


 


 日本語訳を掲げましょう:


ザラストロ

 『おお、イシス、そしてオシリスよ

  旅人の歩みをみちびく叡智の精神を

  新しいカップルに与えたまえ!

  危機においては辛抱強く彼らを鍛えたまえ』

神官たち

 『危機においては辛抱強く彼らを鍛えたまえ』

ザラストロ

 『彼らが試練の成果を見られますよう。

  されどもしも彼らが死すべきときは

  その気高い勇敢な行為に報い

 神々の住まいに拾い上げたまえ』

神官たち

 『神々の住まいに拾い上げたまえ』



 それでは、前回以後のあらすじを見ていきましょう。


      第2幕(第4場~フィナーレ)

 タミーノとパパゲーノに課された「第2の試練」は“沈黙の行
(ぎょう)”。パパゲーノは、がまんできなくなって頻りとタミーノに話しかけ、制止される。そこへ、パパゲーノの試練のために差し向けられたパパゲーナがフードをかぶって登場し、待ってましたとばかり話しかけるパパゲーノを翻弄したあげく、雷鳴とともに消えてしまう。

 「3人の童子」が、差し入れの食べ物を持って現れ、“沈黙の行”に従わないパパゲーノをたしなめる。パパゲーノは食事にかぶりつき、タミーノも「魔笛」を演奏して一休み。笛の音に誘われて、パミーナがやって来るが、タミーノは話しかけられても答えることができない。

 パミーナは、タミーノが心変わりしたものと思いこみ、悲嘆に暮れて去ってゆく。

 黎明となり、「3人の童子」が“夜明けのアリア”を歌っていると、パミーナが登場して、ザラストロ殺害のために母親に渡された短剣で、自分の胸を刺して自害しようとしているのが眼に入る。タミーノに捨てられたと思いこんでいるのだ。

 「3人の童子」は、パミーナに、タミーノの愛を信じよと説得し、タミーノが答えない理由は言えないが、私たちといっしょにタミーノのところへ行こうと誘う。パミーナは自害を思いとどまり、少年たちとともに退場する。

 “第2の試練”の“沈黙の行”に、タミーノはみごと合格し、パパゲーノは落第した。そこで、最後の“第3の試練”――火の試練と水の試練――に、タミーノは、一人で立ち向かうこととなる。

 そこへ、パミーナが現れ、タミーノに同行することを申し出る。神官たちも、タミーノとパミーナが口をきくことを許し、パミーナの同伴を許可する。パミーナはタミーノに、“火と水の試練”には、「魔笛」を吹いて立ち向かうのがよいと忠告する。彼女は、亡き父(「夜の女王」の亡き夫)が鍛え上げた「魔笛」の力を知っているのだ。

 二人は、タミーノの吹く「魔笛」の音に助けられ、楽しく手を携えて“試練”を通過する。

 他方、“第2の試練”に落第したパパゲーノは首を吊ろうとしているところへ「3人の童子」が現れ、「魔法のベル」を鳴らすように忠告する。パパゲーノが演奏すると、パパゲーナが現れて、二人はめおとの契りを結ぶ。

 イシスとオシリスの“試練”を乗り越えて聖化されたタミーノとパミーナを神官たちが祝福し、そこへ夫婦として結ばれたパパゲーノ、パパゲーナも加わり、「夜の女王」と「3人の侍女」は敗北を認め、大団円の合唱のなかで幕が下りる。




   さて、「3人の童子」の“第2の登場”のアリア。“沈黙の行”をしているタミーノとパパゲーノのところに現れて、差し入れの食べ物を渡します。

 

モーツァルト作曲『魔笛』
3人の童子のアリア「私たちを二度目にお迎えください」
ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場管弦楽団
ジェイムズ・レヴィン/指揮


 


 「3人の童子」は、はじめの頃の舞台では、成人女性が演じていたそうですが、現在に近づくにしたがって、ボーイ・ソプラノの少年歌手が多くなっています。モーツァルト自身はといえば、‥‥ボーイ・ソプラノに演じさせる意図で書いたと思うのです。というのは、「3人の童子」のアリアはみな、成人歌手のような大きい声量や迫力を必要としない、静かで優美なメロディーで書かれているからです。

 もっとも、ボーイ・ソプラノと言っても、声変わり前とは限りません。声変わり後の男性であっても、特殊な歌唱法を訓練すれば、ソプラノ~アルトの音域で歌うことができるのです。むろん、去勢男性ではありません。詳しくは、↓こちらで説明しています。


 ➡➡【ギトンの秘密部屋】声とはどんなものかしら?


 現代の舞台では、10代後半以後の、パミーナよりも背の高い若者が「3人の童子」を演じているのを、しばしば見かけます。




 

 

モーツァルト作曲『魔笛』
3人の童子のアリア「まもなく太陽が朝を告げようとして」1
童子/テルツァー少年合唱団員
イヴァン・フィッシャー/指揮
2000年,パリ・オペラ座

 



童子たち
『まもなく黄金の軌道に
 太陽が輝いて朝を告げる。
 やがて迷信は姿を消すべく
 賢い男が勝利する!
 おお美しき静寂よ、天より降りて
 人の心に還れ;
 そのとき地上は天の国となり
 死すべき者らは神々と等しくなる。』
第1の童子
『しかし見よ、パミーナが絶望にうちひしがれている。』
第2,第3の童子
『パミーナが、どこにいるんだ?』
第1の童子
『ぼくの心に見える!』
童子たち
『彼女は愛を撥ねつけられて苦しんでいる。
 なぐさめてあげよう、用意はいいか?
 ほんとうに彼女の運命はぼくらの心を痛める
 おおタミーノがここにいてくれたなら!
 彼女が来る、わきに退
(の)いて
 彼女のすることを見ていよう。』
(パミーナ、短剣を手に、半狂乱で登場)




 「3人の童子」の3回目の登場場面。タミーノが“沈黙の行”をやっているとは知らずに話しかけて、無視されたパミーナは、タミーノが心変わりしてしまったと思いこんで、自害しようとしています。そのようすを見ていた「3人の童子」がパミーナを引き止め、タミーノのところへ連れて行きます。やや長い場面で、動画は2本になっています。

 それでは、後半を!


 

モーツァルト作曲『魔笛』
3人の童子のアリア「まもなく太陽が朝を告げようとして」2
童子/テルツァー少年合唱団員
パミーナ/ドロテア・レシュマン
イヴァン・フィッシャー/指揮
2000年,パリ・オペラ座


 


(パミーナ、短剣を手に、半狂乱で登場)
パミーナ
『おまえ(短剣)が私の花婿だ
 おまえによって私は悲痛を遂げよう!』
童子たち
『なんと暗い言葉を吐いたことか!
 パミーナは発狂しそうになっている!』
パミーナ
『もう少しの辛抱よ、私のいとしい短剣、私はおまえのもの、

 もうすぐおまえと夫婦になるのだわ!』
童子たち
『狂気が彼女の脳で荒れくるう
 自刹が彼女の額に立っている!
(パミーナに)
 美しい少女、こちらを見なさい!』
パミーナ
『私が死のうとしているのは、
 私は決して彼を恨むことができないのに
 彼は、いとしい私を捨てて行くことができるから!
(短剣を指して)
 これは私の母がくれたもの』
童子たち
『自刹に対して、神は罰を下される!』
パミーナ
『愛の悲痛のために破滅するよりは
 この小鉄で死んだほうがよい。
 お母さま!あなたの凶器で私は苦しみ
 あなたの呪いが私を死に追いやるのです!』
童子たち
『少女よ、ぼくらといっしょに行きませんか?』
パミーナ
『ああ!私の悲しみはこれが限度!
 不実な若者よ、さようなら!
 見よ、パミーナはあなたのせいで死ぬ!
(自分の胸を刺そうとする)
 この小鉄が私を殺せ!』
童子たち(パミーナの腕をつかむ)
『ああ!不幸な女
(ひと)、やめてください!
 あなたの彼がこれを見たら
 悲痛のあまり死ぬでしょう。
 彼はあなたひとりを愛しているのだから。』
パミーナ
『何ですって?彼もわたしを愛していると?
 なのに、その気持ちを私に隠して
 私から顔をそむけたと言うの?
 私と言葉を交さないのは、どういうわけ?』
童子たち
『それは、お知らせできません
 でも、私たちは彼の姿をあなたに見せましょう
 彼があなたに心を捧げ
 あなたのためとあらば死をもいとわないのを見て
 あなたは驚かれるでしょう!
 いらっしゃい、ぼくたちは彼のところへ行きます。』
パミーナ
『連れて行って。彼に会いたいと思います。』
パミーナと童子たち
『人間がいかに無力であろうとも、
 愛に燃える二つの心を引き離すことなどできはしない。
 敵どものたくらみは破綻した
 神々がみずからお救いになる。』(退場)




 同じ場面を、もう1本見ておきましょう。上のパリ公演と同じく、テルツァー少年合唱団員が童子を演じています。

 ↓はじめのがベルリン公演で、「3人の童子」の“3回目の登場”――パミーナの自害を引き止める場面です。童子たちは、背中に天使の羽根を付けています。

 そのあとがハンブルク公演の録画で、「3人の童子」の4回の出番を順に収録しています。「童子」を工事作業員にした演出がおもしろい。年齢の設定も子供ではなさそうで、トビ職、大工、電気工事士の若者です。 

 

 なぜ工事作業員? ‥‥考えてみたのですが、いまのドイツでは、もう工事作業員は、中東からの移民ばかりなんじゃないでしょうか? しばらく行ってないので、ギトンは実情を知らないのですが、もしそうだとすると、この演出は、建築現場で底辺から社会を支えている人たちの声の中にこそ、真理がある。ドイツ人よ、謙虚になって彼らの声に耳を傾けよ―――という含みがあるんじゃないかと想像します。非ヨーロッパの信仰への寛容を説いた原作の意図を、現代の社会に当てはめた脚色と言えるのではないだろうか?

 

モーツァルト作曲『魔笛』
童子/テルツァー少年合唱団員
3人の童子のアリア「まもなく太陽が朝を告げようとして」
2011年,ベルリン;
3人の童子のアリア(全) 2012年,ハンブルク


 


 「3人の童子」に気をとられてしまって、魔笛の出てくる場面を拾っていませんでしたが、最後のクライマックス―――↓“火と水の試練”の場面で、タミーノの魔笛が威力を発揮します。

 この場面も含めて、たしかに分かりやすいし、誰でも楽しめるように作られている劇なんですが、デキ過ぎた筋書きなのは否めません。ほんとうに心の底から感動するかというと……、いまいちかもしれませんねw 前回の詩で、ヘッセが、うっかり『魔笛』を見てしまったばっかりに苦痛を味わった、と書いていたのも、わかる気がします。

 「3人の童子」は清らかすぎるし、タミーノはいつも“優等生”で勇敢で、欠点も性格もないマリオネットに見えてしまいます。自分は、とてもこうは生きられないよ、と、ヘッセでなくても思ってしまいます。

 それでも、今回の2度目の詩のヘッセは、それは人間ならば誰でも、いつかは求めてゆくものなのだ、と、それらの“精霊”たちによって掲げられた理想の価値、“愛”の価値を認めるのです:


「永遠の若さに生きる幸福な精霊たちよ、
 われらの世の震動に触れられることなく
 あなたがたはいつもわれらの兄弟、みちびき手、師でありつづける
 われらのたいまつがいつか燃え尽きる日まで。

 いつかあなたがたに晴れやかな召命の時が来て
 もはやあなたがたを知る者さえいなくなったとしても
 天に掲げられた新たなしるしがあなたがたのあとを追う
 なぜならどんないのちも若々しい生気を渇望しているのだから。」


 とヘッセは書いていました。


 

モーツァルト作曲『魔笛』
「苦難に満ちたこの道を往く者は」
パミーナ/ドロテア・レシュマン
イヴァン・フィッシャー/指揮
パリ・オペラ座

 


 ちょっと長い場面なので、↓日本語訳は、サワリの部分だけ掲げます。5:32-8:02


タミーノ
『これが恐怖の扉だ
 苦しみと死が私をおののかせる。』
パミーナ
『どこへいらっしゃるときも
 私はいつもお傍におります。
 私はあなたの道案内となり;
 愛が私を導きます!
(タミーノの手をとる)
 愛は道に薔薇の花を敷きつめます
 なぜなら棘あるところには薔薇も咲いているのだから。
 あなたは魔笛を吹いてください;
 笛の音が道々私たちを護りましょう;
 それは父が魔の刻
(とき)において
 千年の楢の樹
(き)の最も深い底から
 稲妻と雷鳴、嵐と轟音のなかで彫り上げたのです。』
タミーノ、パミーナ
『さあ行こう、笛を奏でよう。』
2人の神官;〔タミーノ、パミーナ〕
『灰色の進路の上で、魔笛が汝ら〔われら〕をみちびく。
 笛の音の力によって、汝ら〔われら〕は
 死の闇夜を通り抜ける。』



 「棘あるところには薔薇も咲いている」というパミーナのセリフがおもしろいと思います。“きれいなバラには棘がある”と言うのがふつうなのですが、シカネーダーの台本はそれをひっくり返して、“イバラの道には、トゲもあるが、美しいバラの花もある”と言うのです。

 理想を追求するとは、本来そういうものでなくてはいけないでしょうね。ことさらに苦難や苦しみを強調するのでなく、むしろ苦難は“楽しく”乗り越えてこそ、理想の方向へ向うことができる。―――そう考えたいと思うのですw



 

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