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      日曜の午後の「魔笛」

 きょうわたしはまちがえをしてしまった
 あさはかな望みのみちびくままに
 「魔笛」を観に行ったのだ。

 それでわたしは劇場の暗がりにすわって
 あの大好きな音色に心を奪われていた
 わたしの頬を涙が光ってながれた
 魔力にみちた美神が歓迎の会釈をしている
 それはかつて故郷
(ふるさと)だったがいまは異国だ。

 おおなんと幸せそうに天使の少年たちは歌ったことか!
 おおなんと甘くタミーノの笛の音がひびいたことか!
 これまでに至福を与えてくれた芸術のすべての震えがよみがえり
 驚愕するわたしの心をつらぬいて走った
 それらは燃えあがり、ついで荒れ狂う苦痛となった。

 悪臭と、プログラムをざわざわ捲
(めく)る騒音のなかで
 楽しげな小市民どもは満ち足りて座席に凭
(もた)
 舞台を誉めそやし、ぶらぶらと帰宅してゆく
 しかし帰るべき故郷も平安も見いだせぬわたしは
 花折れば棘に傷つけられることのみ知るわたしは
 おちつきなく闇をさまよい、憧れという名の
 すべての槍に胸を刺し貫かれつつ突進し、そこからまた
 できるだけ速く射殺されるべく逃げ出してしまう。
 とはいえ、生まれながらのディレッタントであるわたしは
 走りすぎて熱く、くたくたになってしまってから
 どこやらの赤ワインとコニャックの流れる岸辺に這いあがることだろう。


 



 『魔笛(ツァウバー・フレーテ)』は、モーツァルトが生涯の最後に完成させたオペラだそうです。ヨーロッパではたいへん有名なもので、しょっちゅう上演されてます。モーツァルトの生地ザルツブルクでは、毎年上演されてるらしい。

 とくにドイツ語圏では、青少年向けの“オペラ入門”みたいな分りやすい演目としても、好評なようです。

 もっとも、『魔笛』は、イタリアの本来のオペラとはちょっと違うんですね。「ジング・シュピール(歌芝居)」といって、ミュージカルみたいなもの。どこが違うかというと、歌の部分と、フシのないふつうのセリフの部分が交互に来る。本来のオペラは、最初から最後まで、すべてのセリフに楽譜がついています。フシのないセリフって無いんですよね、イタリア本来のオペラは。

 ところで、上の詩を見ると、ヘッセは、『魔笛』を鑑賞して音楽の世界にひたるどころか、暗澹たる気分に落ちこんでしまったようです。観終った後で、そのままうちへ帰る気にもならず、酒場へしけこんでアルコールの海に沈没してしまうと言うんですから、相当のもんですねw

 いったい、なぜ?‥……厳密に考えようとしたら難しいでしょうけれども、このあとユーチューブ動画を動員して、この“歌芝居”の細部まで、あれこれと見ていただけば、‥ああ、なるほど、そういうことかと、なんとなく納得するところまでは、ご案内できるんではないかと思います。

 『魔笛』を題材にしたヘッセの詩は、もうひとつ、かなり長いのがありますから、『魔笛』については、今回と来週の2回にわたることになります。そこで、今回1回では、どうもよく解らんと、疑問が残っても、来週が解決篇ということでご容赦願います。

 それでは、まず、『魔笛』のあらすじから‥‥




 登場人物は、「夜の女王」とその娘パミーナ、手下の侍女たち、他方、彼らが敵対する神殿(じつは太陽の神殿)に拠る神官「ザラストロ」と配下の神官たち、奴隷たち。


   第1幕(第3場まで)

 舞台はエジプト‥‥のはずなのですが、まるで中部ヨーロッパのような鬱蒼とした森と岩山が出現して、いったいどこの世界にいるのやらわからない奇妙な幕開けとなります。

 そこへ、どこの国の王子とも知れない王子タミーノが紛れこんできて、森の大蛇に襲われ、すんでのところで、「夜の女王」の侍女たちに助けられる。

 「夜の女王」は、娘パミーナの肖像画をタミーノに見せて、“悪の権化”の神官「ザラストロ」に拉致された娘を、どうか救い出してくださいと涙ながらに哀願。パミーナの絵姿に一目ぼれしたタミーノは、ご安心ください、私が必ず助け出しましょうと固い決意を歌う。

 パミーナ救出に向かうタミーノに、「夜の女王」配下の奇態な半人半鳥のパパゲーノが同伴する。出発にあたって、タミーノには「魔笛」が、パパゲーノには「魔法のベル」が渡され、空から「3人の童子」が下りて来て「ザラストロ」の神殿への道を案内する。




 これはもう、王子さまが、悪者(魔法使いとか‥)に幽閉されたお姫さまを救出するという、昔からありふれた御伽話の筋書きですね。一座の座長で台本作者のシカネーダーは、一般の観客の趣向に合わせて、導入部分をこしらえているわけです。

 当時のウィーンの一般市民には、キリスト教以外の宗教の神官だというだけで、極悪人と見なすには十分だったでしょう。こうして、第1幕は、「ザラストロ」=多神教=邪教=悪者というイメージを存分に吹きこんで幕を閉じるのです。

 もちろん、作者のシカネーダーとしては、これは、第2幕で善玉と悪玉をひっくり返し、観客に抱かせた先入観を粉々に打ち砕くための仮構にほかなりません。というのは、シカネーダーはフリーメイソンで、この歌芝居も、正統キリスト教に凝り固まった人々の常識をくつがえして、フリーメイソンの宣伝をする意図で書かれているからなのです。

 そうは言っても、タミーノとハッピーエンドで結ばれるお姫さまの名前がパミーナとか‥‥、パパゲーノとつがいになる女性(めんどり?)がパパゲーナとか、‥‥この台本のこしらえは、とにかく、たわいないんです。1幕と2幕で善玉/悪玉がひっくり返るという意外さにみちた展開をもちながらも、深刻な対立はほとんどありません。

 難しいことは受け付けない一般市民にも、子供にも、楽しんでもらえるストーリーで、モーツァルトの天真爛漫な楽才にもぴったり合っていたと言えるでしょう。




   第1幕第4~6場

 「ザラストロ」のエジプト風の宮殿では、奴隷がしらのモノスタトスと手下の奴隷たちが、逃げ出そうとするパミーナを縛って連れ戻そうと大わらわ。と云っても、パミーナの捕獲に一所懸命なのは、彼女に気のあるモノスタトスひとり。手下の奴隷たちは、かしらがパミーナに手を焼くのを見て、“ざまあみろ!”と大喜び。

 そこへ、宮殿を偵察に来たパパゲーノが突然現れると、モノスタトスと奴隷たちは、その奇態な姿にびっくりして、パミーナを置いて逃げ出してしまう。

 一方、「3人の童子」に案内されてやってきたタミーノが神殿の門を開けると、そこに「ザラストロ」のスポークスマンの神官がいて、「ザラストロ」は正しい人で、「夜の女王」こそが悪者なのだと説得し、二人の長い問答がつづく。

 タミーノが「魔笛」を吹くと、聞きつけたパパゲーノとパミーナがやって来るが、遅れて、モノスタトスと奴隷たちが追いかけてくる。二人は捕まりそうになるが、パパゲーノが「魔法のベル」を演奏すると、奴隷たちは浮かれて踊りだし、どこかへ行ってしまう。

 

 そこへ、「ザラストロ」と神官たちが登場し、「ザラストロ」はパミーナに、神殿に戻るようにと、やさしく語りかける。タミーノとパミーナは、たがいを認めたとたん、初対面にもかかわらず走り寄って抱き合う。モノスタトスが二人を引き離そうとするが、「ザラストロ」に制止されたうえに、77回叩きの刑に処される。

 一同は、「ザラストロ」の裁きを讃えて大合唱となり、第1幕の幕が閉じる。




 たわいない筋書きですよねw

 パミーナが「ザラストロ」の神殿に捕らえられていたのは事実だったんですが、「ザラストロ」はちっとも悪くはないことになって、奴隷頭のモノスタトスひとりが悪者になってしまうんですね。

 タミーノは、一目ぼれしたパミーナと出会うことができ、抱き合ったことで、もう自分の目的を達したようなもの。パミーナは、まだ神殿にいるように「ザラストロ」に説得されて、もう“お姫さま救出劇”は、どこかへ行ってしまいます。

 もっとも、「ザラストロ」の神殿には神殿の(フリーメイソンの?)掟てがあるようで、タミーノとパパゲーノは、「ザラストロ」の“入門の試練”を受けることになります―――それが第2幕。タミーノは、イニシエーションを通過してフリーメイソンの一員にならないと、神殿でこのままパミーナと結ばれてゆくことはできない‥‥そういうしくみなのでしょう。


 ところで、ヘッセの上の詩にちょっと戻りますが、ヘッセは、


「おおなんと幸せそうに天使の少年たちは歌ったことか!
 おおなんと甘くタミーノの笛の音がひびいたことか!」


 と書いていました。「天使の少年たち」とは、空から下りて来てタミーノをザラストロの宮殿に道案内する「3人の童子」のこと。「タミーノの笛」は、もちろんタミーノに渡された魔笛です。

 しかし、


「それらは燃えあがり、ついで荒れ狂う苦痛となった。」

 とは、どういうことなのでしょうか?‥ともかく、ヘッセが『魔笛』の観劇で注目した主要ポイントらしいので、これらの出てくる場面を中心に、舞台を見てゆくことにしましょう。


 最初にご覧いただくのは、「3人の童子」がタミーノを「ザラストロ」の神殿に案内してゆく場面。道すがら歌われる童子たちとタミーノのアリア: 「この道があなたを目的にみちびく」


 

モーツァルト作曲『魔笛』
3人の童子のアリア「この道があなたを目的にみちびく」
ハンブルク国立交響楽団
ホルスト・シュタイン/指揮

 


 ↑これは 1971年の上演で、わりあい伝統的な演出のようです。「3人の童子」は、天から下りて来て、そのまま宙を漂っている。中近東風の、あるいは天使のような、白っぽいふわふわした服装です。

 まずは日本語訳を掲げましょう:




 3人の童子がタミーノの案内をして入場。童子はそれぞれ銀の椰子の枝を手に持っている。

3人の童子

 『この道があなたを目的にみちびきます。
 しかし、若者よ!あなたは男らしく勝利しなければならない。
 そのために、私たちの教えに耳を傾けなさい:
 確固として、忍耐強く、そして寡黙であれ!』

タミーノ
『愛らしい小さな人たちよ、教えてほしい、
 私はパミーナを救うことができるのかどうか』

3人の童子
『それをお知らせすることは、私たちの役目ではありません―
 確固として、忍耐強く、そして寡黙であれ!
 これをよく考えることです:短く言えば、男であれ、ということ。
 そうすれば、若者よ、あなたは男らしく勝利するであろう』(退場)

タミーノ

 『あの少年たちの叡智の教えを

  永久に私の胸に刻むとしよう』




 「3人の童子」がタミーノにする忠告は3つ:

 「確固として、忍耐強く、そして寡黙であれ」

 「3」という数は、フリーメイソンでは重要な意味のある数なのだそうです。そして、この3つの銘のうち、最後の「寡黙」ということが重要そうです。第2幕で、タミーノが神殿の“試練”を受ける際にも、“沈黙をまもること”が「第2の試練」として要求されます。

 おそらく、“沈黙”は、周囲に対する軽はずみな賛同や、思いこみによる批判を避け、自己との対話を通じて、分別と責任のある判断に達するために、必要とされるのではないでしょうか?

 つまり、“叡智”に達するためには、“沈黙”が重要なのです。


 さて、もうひとつ、↓今度は現代的な演出の舞台を見ておきましょう。

 「3人の童子」が、ふつうの子供の服装をしているのが、かえって眼を惹きます。しかも、一時代前の子供の服装というのがおもしろい。

 タミーノを“案内する”どころか、ダダっと走って現れたと思ったら、どこかへ消えてしまう。タミーノを翻弄するかのように、すぐ近くを走り抜ける。近づこうとすると、逃げてゆく。つかまえようがない‥ まるで亡霊のような少年たち



 

モーツァルト作曲『魔笛』
3人の童子のアリア「この道があなたを目的にみちびく」
2003年 ロンドン・ロイヤル・オペラ
コリン・デイヴィス/指揮

 


 どうやら、モーツァルトやシカネーダーの時代とは違って、現代に生きる人間には、“迷うこと”が不可避のようです。現代では、あまりにも世の中の動きが速く、また、たくさんの雑多な情報が与えられすぎるせいなのかもしれません。

 古い時代のように、天から、恵みの雨がふりそそぐように真理が与えられることなどは、ありえないのでしょう。真理は、風のように人のそばを吹きすぎる。うっかりしていれば、まったく気づくこともない。吹きすぎる真理の一端を、かろうじて、つかんだかに思えたとしても、もうその時には、本体はどこかへ消えてしまったあとなのです。。。

 おそらく、「3人の童子」とタミーノに対してヘッセが抱いた、痛みをともなう複雑な気持ちも、そういうことと関係があるのではないでしょうか?


 

 

 




 

 


      第2幕第1~3場

 第2幕は、舞台からして第1幕の森とは様変わりして、エジプト風。しげっている椰子の幹は銀色で、黄金色の葉を垂らしている。14座のピラミッドと椰子の葉を敷いた玉座。

 神官たちが入場し、彼らの前で「ザラストロ」が、パミーナは、王子タミーノの許婚者
(いいなづけ)となるべく、神々によって運命づけられているのだ、と宣言する。だからこそ私は、彼女を、母親である「夜の女王」のもとから引き離したのだと。

 「夜の女王」は、「迷信で民の眼をふさぎ、われわれの神殿を破壊しようとたくらんでいる」が、そうはさせない。タミーノもわれわれに協力してくれる。タミーノは、いまや、この「大いなる光の聖所」に入って行こうとしている。エジプトの神々:イシス、オシリスの聖化を受けて神官となろうとしている彼を、われわれは援助してやろうではないか、と。

 タミーノが、われわれ聖なる神官の列に加わるならば、「民をたぶらかして、神殿を破壊しようとたくらむ“予断・偏見”」に対して、われわれの「叡智と理性」は大きな勝利を得ることになるだろう、と「ザラストロ」は言う。

 二人にイニシエーションの試練を受けさせるという「ザラストロ」の神官たちの説明に、タミーノは納得して「死をも恐れぬ」決心を表明し、パパゲーノはしぶしぶ承知する。

 そこへ「夜の女王」の3人の侍女が、タミーノのようすを見に来て、すっかり「ザラストロ」に取り込まれているのに驚き、翻意を促すが、タミーノは取り合わない。怒った「夜の女王」は、娘のパミーナに短剣を渡して、「ザラストロ」に復讐するよう命じる。「夜の女王」の亡き夫は、太陽を支配する力を自分に継がせず、「ザラストロ」の神々に捧げてしまった。それを取り戻すと言うのだ。

 しかし、この暗殺計画は、パミーナに夜這いをかけようとしてひそんでいたモノスタトスに盗み聞きされてしまい、「ザラストロ」の耳に入ってしまう。パミーナは「ザラストロ」に許しを乞うが、「ザラストロ」は、「この神聖な殿堂では、人は復讐ということを知らない」と歌って、争いそのものを否定し、彼女をなぐさめる。




 まあ、ずいぶんとたわいない筋書きと言うか‥… 第1幕では、娘を拉致された「夜の女王」の依頼で、タミーノが「ザラストロ」の神殿に向ったはずだったのに...

 そのタミーノが「ザラストロ」の側に付いてしまうと、……タミーノはもともとパミーナと結ばれるべく運命づけられていたから、私(ザラストロ)は、そのパミーナを悪い母親から引き離して、タミーノがやって来るまで保護していたのだ、もちろんタミーノは、光と正義のわが神殿の一員となるのがふさわしい立派な男だ。―――ということになって、「ザラストロ」の側の光を当てて見れば、すべてはひっくり返しになってしまうのです。

 ‥教祖さまのご都合次第で、どうにでもなる論理……のようにも見えてしまいますが、

 しかしそれを、オペラの舞台で、威厳にみちた「ザラストロ」のバスで堂々と歌われると、人のよい観客は納得してしまう―――そこに、フリーメイソン劇としての作者の意図があったのかもしれません。

 しかし、人間どうしが“予断と偏見”によって傷つけあうことは、本来誰も望まないことです。“予断と偏見”を嫌い、“叡智と理性”の光を求めようとするのは、人間だれしもそうありたいと願う心情です。

 「ザラストロ」の呼びかけは、時代を超え、思想信条の違いを越えて私たちの胸に響いてきます。おそらく、フリーメイソンというたいへん特殊な宗派の教義に基いていながら、この“歌芝居”が 21世紀のこんにちに至るまで上演され続けているのは、そうした心情の普遍性によるのではないでしょうか。

 じっさい、この劇は、私たちマイノリティの胸にもしっかりと響いてくるのです。

 (ちなみに、日本語字幕では、そのへんのザラストロの発言が省略されてしまっていて、分らないのですが、↑上のあらすじのザラストロの部分は、ドイツ語台本で確かめましたから、まちがえありません。)


 ところで、この場面で有名なのは、「夜の女王」が復讐を誓って歌うアリア:「地獄の復讐が、私の心臓で煮えたぎる」です。おそらく、『魔笛』でいちばん有名なのが、この歌。

 しかし、歌手にとっては、この歌は並大抵ではないそうです。力量のあるソプラノ歌手でも、これを歌いこなせるのは、声帯が若々しく柔軟で、声量がたっぷりある若年の一時期に限られると言われます。

 映画『アマデウス』では、モーツァルトは、サリエリの愛弟子だった天才的な少女ソプラノ歌手のために、彼女にしか歌えないアリアを作曲したというストーリーになっていました。サリエリは『魔笛』を観劇して、それを知り、腹の中で、モーツァルトに対して「夜の女王」にもまさる激しい復讐の焔をかきたてた―――そういう場面でした。



 

モーツァルト作曲『魔笛』
夜の女王のアリア「地獄の復讐が、私の心臓で煮え滾る」
ディアナ・ダムラウ/ソプラノ

 


パミーナ
『でも、お母さま!』

夜の女王
『お黙り!』

夜の女王(アリア)
『地獄の復讐が私の心臓で煮えたぎる。
 死と絶望が燃えあがる。
 もし、おまえによってザラストロが死の苦痛を感じなかったら
 おまえはもう私の娘ではな~ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ、あ~ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ、あ~ あ・あ・あ・あ あ・あ・あ・あ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あい!

 おまえは永遠に追放され、捨て去られ、
 すべての親子のきずなは粉々に砕け散る~~のだあ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ、
 もし、おまえによってザラストロが死体とならなかったら!

 神々よ聴け!この母の復讐の呪いを聴きとどけよ!』(床下に沈んで退場)




 ここで、日本語字幕の付いた『魔笛』↓を貼りつけておきたいと思います。ただ、残念ながら画面が暗すぎて、よく見えません。また、字幕は、決して正確な翻訳ではないとご承知ください。ドイツ語台本と照らし合わせてみると、たいへん省略の多いのがわかります。あくまでも、劇の進行の流れを知るための手がかりにすぎません。

 『魔笛』の序曲から最後まで、約2時間40分かかります。全部通して見ようとは、しないほうがよいでしょう。ギトンも、全部流して見てはいません。



 

モーツァルト作曲『魔笛』
ベルリン国立歌劇場管弦楽団
ダニエル・バレンボイム/指揮
1997年 東京文化会館大ホール




      笛の奏(かな)

 木立ちと繁みのむこうから
 一軒の窓が光っていた
 その見えないへやにひとり立ち
 奏者がフルートを吹いていた。

 むかし馴染みの唄のふし
 なつかしく夜のしじまに流れゆく
 あたかも国として故郷ならざるなく
 道として全うされざるはなきがごと。

 その笛の息吹きのうちに
 世界の秘められた意味は啓示され
 心はすすんでみずからをひらく
 あらゆる時が現在となった。




 

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