眠りにつくとき
一日はわたしをすっかり疲れさせた
夢みる願いが星でいっぱいの
夜を、まるで疲れたこどものように
えがおで迎えようとしている
手よ、なにごともやめよ
額(ひたい)よ、なべての思考を忘れよ
わたしの官能はいまこぞって
睡(まどろ)みに沈もうと欲する
そして目覚めることなき魂は
かろやかにつばさを広げただよってゆく
魔力にみちた夜の圏域のその奥底で
昼間の千倍も生きようとして
前々回に予告してありました、リヒャルト・シュトラウスの『4つの最後の歌曲』から聴いてみたいと思います。4曲のうち3曲が、ヘッセの詩に曲を付けたもので、「眠りにつくとき(Beim Schlafengehen)」は、第3曲になります。
ヴォーカルはアメリカのプリマ・ドンナ・マグナとも言うべきジェシー・ノーマン、演奏は伝統ひとすじのドイツ・オーケストラ:ライプチヒ・ゲヴァントハウス、指揮はマズーアと、豪華この上ないキャスティングでお送りします。この音源をかけながらベットに入れば、さぞかし心地よい眠りが。。。 サワリは 3:40 から。
ヘルマン・ヘッセ「眠ろうとして」(リヒャルト・シュトラウス)
(ジェシー・ノーマン/ソプラノ,クルト・マズーア指揮,
ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団)
「魔力にみちた夜の圏域のその奥底で/昼間の千倍も生きようとして」――と歌い、起きているあいだは人間のぬけがら、夢のなかにこそ私の人生がある‥‥と言いたげなヘッセに対して、底知れぬ暗さをたたえたリヒャルト・シュトラウスの曲は、ぴったりと言うべきでしょうか。
人を超えた“巨人”を讃える二―チェの大作を交響詩にしたり、いつもどこかナチスっぽいこの作曲家、ギトンは、エルヴィスのオープニング以外は好きではないんですが、‥‥それでも何でも、名作曲家にはやはり名作曲家の風格があります。
ともかく、演奏には何も文句はありません。いぶし銀のように輝くマズーアのゲヴァントハウスの前では、カラヤンのBPOなど、金綺羅のチンドンヤに見えてしまう‥(おっと、悪い比較でしたね。チンドンヤさん、ごめんなさいw)そして、ノーマンのソプラノ。声量と言い迫力と言い、現在のクラシック界に、彼女の右に出る者はいないでしょう。
さて、↓つぎはジャズ・ソング風のヘッセですが、ノーマンの絶唱の後を受けるには、これも悪くない。原詩のめざすところを真っすぐに受けとめてたじろがないソング・ライターに、拍手を送りたいと思います。
翻訳は、「詩文集」ですでに出した拙訳の再掲です。
美しの女神(シェーンハイト)に(An die Schönheit)
あなたの軽やかな御手をぼくらに!
なじんだ母の手から引き離されて
ぼくらは暗闇の隈をめぐり
見知らぬ国をさまよう子どもたち。
ぬばたまの闇からあなたの歌う
妙なる調べ:故郷(ふるさと)の曲(うた)が聞こえてくれば
それは不安なぼくらの行く手を照らし
そっと慰めてくれるのだった。
行き先もなく路もなく
果てしなき夜をさまようぼくら;
慈悲深き女神よ導きたまえ
巨いなるあすの夜明けの迫るまで
ヘルマン・ヘッセ「美しの女神に」(ナディーネ・マリア・シュミット)
前の「眠りにつくとき」とちがって、夜通し寝ないで歩くという詩の内容ですが、ナディーネの曲づけは、詩の最後の「巨いなるあすの夜明けの迫るまで」を中心にした、明朗な解釈に立っているようです。エンディングで、最後の2行を何度もリフレインしてます。
そのせいか、“魔力”や“魔の世界”を強調するヘッセにしては、カラッとした明るい仕上がりになっています。こういうヘッセも悪くないでしょう。
ギトンなどは、ちょっと物足りない気がするのですが――ほっとしてもいるんですがw――、ドイツ語圏以外の外国では(日本もふくめて)、この顔のヘッセのほうが、受け入れやすいのかもしれません。
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