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リヴォルノ,イタリア fotolivorno.net


 




      オデュセウス

リヴォルノ付近    



 視界のはずれで夕陽にかがやいて
 黒いマストの船が水平線を往く
 その強い魔力はわたしのまなざしを
 視えない世界の縁
(ふち)に固定させる。

 ――わたしは想う、船の舵を握るのは
 神のごときオデュセウス、名づけようもない
 郷愁が、海また海の脅威を越えて
 彼の遠い故国へと誘
(いざな)
 彼は運命
(さだめ)に屈することなく夜もすがら
 鋭き眼差しもて空の星を測る
 百たび押し流され脅されてもなお
 希
(のぞ)みをすてず不安と死とをかいくぐり
 嵐にみまわれ先のみえない航海に
 目的地と成就の時をきっと見据えている。

 いま船はわたしの視界をはずれ
 蒼く暗い海へ消えてゆく:彼の運命
(さだめ)
 わたしの想いはいっぱいになり、かぼそい問いかけとともに
 彼の夢ものがたりは空の青に沈んでゆく
 運命に堪える者の船の往くてには
 わたしの希求する幸せがあるのか?
 ――たぶんね!――では、そこへ連れて行ってくれるのはどの船だ?
 ――心よ、とりあえず錯誤するがよい、そして苦難に堪えよ!



 



 リヴォルノは、地中海に面したイタリア中部の港町で、ルネサンスのメディチ家時代にはトスカナ大公国の主要港として繁栄しました。また近代では、ファットーリ、モディリアーニ(絵画)、マスカーニ(作曲)ら多くの芸術家を輩出しました。

 フィレンツェに近いこの港町に、ヘッセが特別な想いをもっていたことはたしかでしょう。でも、どうしてオデュデウスが出てくるのか?

 芸術家以外に、リヴォルノを含むトスカナ地方は、イタリアの中では労働運動、左翼運動のさかんな土地だったそうです。リヴォルノでイタリア共産党が結成されたのは、ずっとのちの話ですが、この詩が書かれた 1901年の時点でも、社会党の重要な地盤だったと言えます。ヘッセがそれを意識しているかどうかは、わかりません。しかし、その関連があるとしても、「運命に堪える者の船の往くてには/わたしの希求する幸せがあるのか?」とヘッセは問いかけ、“正しい船を選べば、幸福な未来へ連れて行ってくれる”という安易な期待に疑問を投げかけています。

 

 ヘッセは、労働運動や革命運動を、頭から否定してはいないのです。しかし、活動家が約束する未来を無批判に信じて、“団結”という名の思考停止をすることに対しては、根本的な不信を向けているのだと思います。じっさい、この時点でイタリア社会党の幹部だったムッソリーニは、まもなくファシスト党を結成して、ドイツのヒトラーと並ぶ独裁政権を成立させているのですから。

  【付記】ちなみに、最近のイタリアの情勢は、私たちにも暗い影を投げかけているようです。欧州ゲイサイトの新着によると、北イタリアでホモセクシュアルの排除を呼びかけるポスターが拡散しているとか... いわく:「自然を守ろう!」――環境保護のためにホモを無くせと!! なにせサイトがフランス語なので、よく読めなくてごめんなさいw もっとわかったら続報します。



 オデュセウスは、トロイア戦争のあと、ギリシャの故郷に向かって船出しますが、途中嵐や、怪しげな精霊の誘惑や、さまざまな困難に逢着して、ほとんど漂流状態になってしまいます。それでも故郷に向かうことをあきらめず、航海を続けるのです。

 ある時、船が漂着した島には、この世のものとは思えない美味な蓮の実がたくさんあって、船人たちは、そのあまりのおいしさに、もうこの島から離れる気を失くしてしまいます。ハスの実――中華の月餅にも入っている食材で、たしかにおいしいですが、航海をやめてしまうほどとは思えませんねw しかし、西洋では珍しい植物で、西洋の人は、なにかこの世のものではないような想像をしてしまうらしいです。

 そこでオデュセウスはどうしたかというと、ハスの実をむさぼっている船員たちをつかまえて、無理やり暴力的に船に戻して、船出するのです。彼にこのような行動をとらせたのは、“故郷に帰る”という目標があるからにほかなりません。目標があるからこそ、星の位置を観測して正確な航路を求め、船員たちを強制してまで航海を続けるのです。それは、たしかに目的意識につらぬかれた合理的な行動です。

 しかし、その目標そのものの合理性はというと、はっきり言って疑わしいのです。じっさい、迷走航海のあと故郷のイタカ島にたどり着いてみると、妻ペネロペは、おおぜいの男たちにかこまれて、言い寄られている真最中。オデュセウスは、男たち全員を殺戮し、男たちを屋敷に入れた侍女たちも全員殺戮して、ようやく安心することができるのです。彼が、片時も手放さなかった目標――幸福な故郷とは、皆殺しをすることだったのか?!



 「運命に堪える者の船の往くてには/わたしの希求する幸せがあるのか?」――ヘッセには、オデュデウスの往くてに幸せがあるような気がするのです。目的が正しいかどうか問う前に、オデュデウスの不屈の目的意識と合理的な行動が、そう信じさせるのです。

 しかし、オデュデウスは答えます。どの船に乗るか自体が試行錯誤だ。まちがった船を選んで、まちがったほうへ行ってしまう可能性がむしろ大きい。それでも、きみは船に乗るがよい。苦難に堪える航海をするために!!


 




 


 ヘッセにとって“ふるさと(ハイマート)”とは何なのか? “ふるさと”という言葉が、ヘッセの詩にはしばしば出てくるのですが、それが何を意味しているのか、もうひとつ解るようで解りません。ずっと注視しているのですが。。。

 失われた幼年時代、なつかしい幸福な生活――といったイメージも無いことはないかもしれませんが、それ以上に、めざす未来、めざしている幸福の地、‥といったイメージが大きいように思います。

 人はいつも“ふるさと”に向かって歩いている。流れる時間そのものが、“ふるさと”をめざしている。しかし、それがどこにあるのかは、誰も知らない。時間じたいが、目的地を知らずに流れてゆく、蛇行してゆく‥‥

 ↓下の短い詩に、そういうヘッセの“ふるさと”観が、まとめて表されています:





      巡 礼

 そして日々は歩きつづけ
 あっというまに老いてしまう
 彼らの最後の者が来るのもまもなくだ
 わたしが立ちどまって問いをたてているあいだに。

 彼らとわたしは手と手をたずさえて
 兄弟のように歩いて来た
 わたしたちを国から国へと駆りたてたのは
 いつも変らぬ故郷
(ふるさと)への渇き。



 

 

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