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樹々の迷宮 白神・高倉森のブナ林


 





      ぼくは知る、きみが歩いてゆくのを

 夜おそく通りを歩いているとき、不安のあまり
 眼をおとして足を速めるのはいつものことだ
 唐突に眼の前に、きみがおし黙って立ちすくんでいる
 かもしれない:きみの悲しみのすべてをぼくは見るだろう
 きみの死に絶えた幸せをぼくから求めようとしているのを。

 毎晩きみが戸外
(そと)を歩いているのを
 ぼくは知っている;おどおどした足どりで、けばけばしい厚化粧
 金を求めて歩くきみは惨めそのものだ!
 靴には汚れがこびりつき
 横柄な風がきみの絢爛な髪の毛を乱れさす――
 行けども行けどもきみは家に帰る道さえ見いだせぬ。






 最初読んだ時は、夜の街頭で客をキャッチしようと待ち構えるコールガールか?‥コールゲイ(??)か‥と思いましたが、描写は象徴的です。けばけばしい衣装と厚化粧をして、稼ぎを求めて夜の町をさまよう姿は、私たちの誰にでもあてはまるような気がします。

 しかし、いまは一歩下がって、私たち自身のなりわいを遠処から眺めてみましょう。

 文明、社会、貨幣経済、‥そういった衣装を剥ぎ取って見たら、その“情慾渦巻く世界”は、それ自体が生命の横溢であり、“豊饒の海”そのものではないのでしょうか?

 もちろん、そう言ったからといって、それで私たちの悩みが解決するわけではありません。こういうことを、気休めで言うのは大きな間違えです。悩みは悩む価値があるのです。まして、社会問題に何かの足しになるわけではない。――ただ、こういう見方もあるのだ‥というだけのことですw


 そういうわけで、今回も『地の糧』のつづきです。じつは今回が最終回です:




「君は言った。僕らは、春には、互いに相手のものになるだろう。僕の知っているあの木の枝の下で、あの木陰の苔むすところで。それは昼の何時ごろだろう、空気はこんな具合に肌にやさしいだろう、そして去年そこで鳴いていた鳥が鳴くだろう、と。――ところが、今年は春が遅く来た。冷たすぎる空気が別の歓びを提供した。

      
〔…〕

 日が経ち、また別の日が経った。朝があり、夕べがあった。

 
〔…〕――おお、灰色の秋の朝よ! 〔…〕――明日になったら、私は、寒さに震えているこの田園を去る。草は霜に覆われているではないか。私は知っているのだ。パンと骨とを空腹に備えてこっそり土の中に埋めておいた犬のように、とっておいた官能の歓びをどこに見つけられるか、私は知っている。暖かい空気が川の曲がる窪みのところに少しは残っているのを、林を塞ぐ柵の上にまだ完全には葉の落ちていない黄金色の菩提樹のあるのを、学校に行く鍛冶屋の坊やにちょっとほほえんで撫でてやることのできるのを、知っている。〔…〕

 いや、たしかに、出かけていくのは、他のものを見ようというよりは、自分にとって不可欠ではない一切のものから離れるためなのだ。ああ! ナタナエルよ、私たちはどれだけ多くのものをなしに済ませることだろう! 魂は、決して十分に身軽になっていない。そうしてこそ初めて十分に愛を容れることができるのに――愛、期待、希望、これこそが私たちにとって真の所有なのだ。

 ああ! そこで生活することもできたであろうにと思われる、かくも多くの場所よ! 幸福が豊富に溢れ出るような場所。骨身惜しまぬ農場、褒め言葉もないような畑仕事、疲労、睡眠のもたらす広大な静謐……

 出かけよう! 止まるところなどは、行き当たりばったりに限る!」

『地の糧』「第五の書 一」より;二宮正之・訳.





 「魂」が「身軽にな」るとは、どういうことでしょうか? 「そうしてこそ初めて十分に愛を容れることができるのに」。

 よけいな所有物をいっさい持たないという物質的な「身軽」さだけでなく、精神的にも「身軽」ということなのでしょう。知識、習慣、常識‥‥、そういったものを棄てることを言っているのだと思います。私たちは、都会や文明社会の生活では、それらがないと生きていけないと思っている。しかし、住み慣れた土地を離れてみれば、絶対不可欠だと思っていた多くの観念が、じつはまったく必要のないものであったことに気づくのです。

 「愛、期待、希望、これこそが私たちにとって真の所有なのだ。」私たちが失ってはならないものは、この3つ以外には無いというのです。

 



「ナタナエル、寝場所について何を語ろうか。

 私は藁塚の上で眠った。麦畑の畝の間で眠った。草の中で、陽に曝されて眠った。秣
(まぐさ)小屋で夜を過ごした。〔…〕遊び女が待ち構えている寝床も度々あったし、また、私の方が少年の来るのを待つ寝床も何度かあった。あるベッドにはいかにも柔らかい布が敷いてあって、私の体同様、すっかり色事と調和しているようだった。〔…〕

 開け放した窓に向かって、直接空の下にいるような感じで眠る習慣を身につけた。七月の暑すぎる夜には、月に照らされて素裸で眠った。早暁から鶫(つぐみ) の歌に目が覚めた。〔…〕

『地の糧』「第六の書」より;二宮正之・訳.





「――そしてまた、私は、お前、シーラーズの小さな茶屋を夢見る。ハーフィズが称えたあの茶屋だ。酌人の注ぐ酒と愛とに酔いしれ、薔薇がそこまで伸びてくるテラスの上にいる無言のハーフィズ、眠り込んでしまった酌人の脇で詩を作りながら夜通し日の出を待っているハーフィズが称えたところ。

      
〔…〕

      *

 ナタナエルよ、私たちはまだ草木の葉を一緒に眺めなかったね。葉という葉のすべての曲線を……

 樹木の葉の繁
(しげみ)。いくつも出口の開いている緑の洞窟。その奥底はそよ風にも場所をかえる。可動性。形の動揺。千々に砕かれた内壁、枝でできた弾力のある骨組み、丸みを帯びた往復運動、薄片小体と小孔質体……」

『地の糧』「第六の書」より;二宮正之・訳.





 ハーフィズ(現代ペルシャ語音で「ハーフェズ」)は、中世ペルシャの詩人。ウィキによると:


「詩の主題は『愛』で、俗世の愛とも神への愛とも解釈可能な抒情詩を500近くも残している。」 「恋と酒と自然の美などを主題とした作品が多く、民衆に広く愛され、現代でも『コーランなくとも各家庭にはハーフェズ詩集あり』とまで言われている。」
 


 ハーフィズは 14世紀の人で、オマル・ハイヤームよりのちの時代の人らしいです。

 上のジッドの文章で、ハーフィズといっしょに出てくる「酌人(サーキ―)」は、若い男性です。イスラム教では戒律が厳しかったため、飲み屋で女性に酌をさせることは禁じられていました。そこで、ホストが客の接待をしていたわけです。

 ハイヤームの『ルバイヤート』に出てくる「酌人」は、よく読んでみると作者の同性愛の伴侶(つまり特定の愛人)としか思えない。↓こちらで、そのことを書きました。

 【関連記事】⇒:《あ~いえばこーゆー記》ルバイヤート――中世ペルシャのBL詩 ルバイヤートの東漸 ルバイヤートと宮沢賢治(5) ルバイヤートと宮沢賢治(6)


 ハーフィズは読んだことがないのでわかりませんが、もしかしたらハーフィズも‥‥ と関心が湧いてきました。



 その次の段落には、樹木の葉のふしぎな形について書いていますが、1枚の葉だけでなく、「いくつも出口の開いている緑の洞窟」は、密集した深い森林を思わせます。

 葉や枝がたがいに絡み合って、しかも常に動いて、変化してゆく森のようすは、愛や情欲や感覚の快楽によって絡み合う人間と世界、世界のなかの人間どうし、万象の“無秩序そのもののような秩序”を思わせます。


 

 

 




 


 ↓下の文章の「アトマン」は、山羊の番をする少年のようで、ジッドの年若い友人のようです。または、そういう設定の架空の少年でしょう。愛人の間柄を思わせます。

 いつかまた会えば、何もかも忘れていっしょに歩ける――そういう仲もいいですね。愛を堕落させないでおきたいと思ったら、よけいな重荷をしょわせないことです。愛にしょわせてよいのは情欲だけです。



ビスクラの庭   


 アトマン、お前は書いてきたね。『あなたを待っている椰子の木の下で僕は山羊の群れの番をしています。また来てくださいね。春は枝に宿っているでしょう。一緒に散歩をして、何も考えたりしないことにしましょう……』

 ――アトマン、山羊の番人よ、もう椰子の木の下に行って私を待つことはない。そして、春は来ないのではないかなどと見守ることもない。私は来た。春は枝に宿った。私たちは散歩をし、頭にはもう何もない。


      
〔…〕

 ……ある夏の雨を思い出す。――しかし、あれでもまだ雨だったのだろうか――どっと降りかかってきたあの生温かい水滴は。それは、あまりにもたっぷりとしていて、手ごたえがあり、実に重たかったので、緑と薔薇色の光に満ち椰子の生えた庭に降り注ぐと、それを受けた葉や花や枝は、愛を込めて贈られた花飾りの輪が大量に解きほぐされたように、水の上を転がっていた。細い流れが花粉を運んで、遠くまで肥沃にしようというのだった。その水は濁っていて黄色だった。泉水では魚が恍惚としていた。水面で鯉が口を開く音が聞こえた。

      
〔…〕

 誰も歩いていない公園に入った。白いウールの服を着た子供が二人、私を案内していった。とても細長い庭で、奥に門がある。〔…〕生まれつつある細流。樹木の糧。重々しく恍惚とした受精。移動してゆく芳香。

 覆いのある小川。(葉や花も混じっている)運河。――ここでは水の流れが遅いので『セギア』と呼ぶ。

      
〔…〕

 (アラブ人の風習で白いウールの服をまとっているとても美しい子は、アズースという名で、最愛の者という意味だ。もう一人はウアルディという名で、これは薔薇の季節に生まれたという意味である)

 ――そして空気と同じく生温かい水、
 私たちはそこに唇をひたした……


 暗い水――月がそれを銀色にするまでは、夜の底で見分けがつかなかった。それは木の葉の間から生まれ出るようだった。そこを夜の生き物がうごめいていた。」

『地の糧』「第七の書」より;二宮正之・訳.





 「セギア」は、チュニジア・ガフサに特有の灌漑水路で、フィリピンの棚田、イランのカナートなどとともに、国連食糧農業機関(FAO)の「世界重要農業遺産システム」のひとつ。

 砂漠の中でも、水のあるところには生命があり、「黄色」い「生温かい水」「暗い水」の中で、花粉と芳香が流れ、「恍惚と」して受精し、「夜の生き物がうごめいてい」ます。


 


「――もっと荒原の話がしたい。

      
〔…〕

 石の荒原はかさかさだ。〔…〕

 粘土の荒原。ここなら、少し水が流れさえすれば。何でも生きることができそうだ。雨が降るとすぐに、すべてのものが緑になる。乾きすぎた土地はほほえむ習慣を失ったようではあるが、ここでは、他所よりも、草がもっと柔らかく、もっとよい香りを放つようだ。種を結ぶ前に太陽に焼かれて萎れてしまうのを心配して、他所でより、急いで花を開き、急いで芳香を放つのだ。その愛は急かされている。太陽が戻ってくると、土はひび割れ、ぼろぼろに崩れ、到るところから水が流れ去ってしまう。〔…〕

 砂漠――生命はそこから閉め出されている。そこには風の脈動と暑さしかない。砂は陰では微妙にビロード状になる。夕方には燃え上がり、朝には灰のようになる。砂丘の間に真っ白な谷がある。私たちは馬で通っていった。〔…〕

 私はお前を熱愛したであろう、沙漠よ。ああ! お前のもっとも小さな砂粒が、それ自体の場において宇宙全体を再表現してくれるように! ――砂塵よ、いかなる生をお前は思い出すのか。いかなる愛が解体してこうなったのか。――砂塵は讃えてもらいたいのだ。」

『地の糧』「第七の書」より;二宮正之・訳.




 砂漠は、永劫のむかしから砂漠だったわけではありません。数万年前には、草木の生い繁る平原だったり、何億年か前には生命の海であったりしたのです。“死の世界”のような砂漠で、砂嵐が激しく舞うのは、愛と生命が渦巻いていた豊饒の時代の記憶を反復させているのではないでしょうか。。。

 砂漠よりも少しだけ湿り気のある「粘土の荒原」では、気まぐれな雨が落ちるたびに、「急かされ」た愛が、短い命の芳香を放つのです。

 地球上どこにでも愛は入りこんで行こうとします。いつも、見えないところで、うごめいているのです。



眠られぬ夜   


 待ち焦がれ、待ち焦がれ、熱に浮かされ、往きて帰らぬ青春の季節(とき)、宗教上の罪と呼ばれるもの一切への熱烈な渇き。


      
〔…〕

 私は往きて帰らぬ時を思い出す。石の床に裸足で立ち、額をバルコンの濡れた鉄柵に押し当てていた。月影に、私の肉体の輝きは、十分に熟したすばらしい果物のようだった。待て待てだって! それは私たちをしおれさせるだけだった。……爛熟した果実よ! 渇きがあまりにもひどくなり、焼きつく喉に耐えられなくなった時、そうなってやっと私たちはお前を噛んだ。傷んでしまった果物よ! お前たちは私たちの口を、毒を含んだ味気なさで満たし、私の魂を深く動揺させた。――若いうちに果物のまだ歯ごたえのある肉を噛み、愛の香り高い果汁をすすった者よ、君たちは幸せだ。無駄に待たず……果実を味わったら生き生きと路上を走り出すのだ。――私たちはそこで辛い日々を終えるであろうに。

      
〔…〕

 今朝、私はいかなる墓から逃れ出たのか――(海鳥が何羽も水を浴び、羽を広げる)そして、ああ! ナタナエルよ、私にとって生のイメージは、欲求に満ちた唇に押し当てられる風味に満ちた果物なのだ。

      
〔…〕

 ……飲むにつれて、渇きは刻々に激しくなった。ついにはあまりに強烈になり、欲求不満で泣きたいほどだった。

 ……感覚は消耗しつくして透明になってしまった。朝、町に出て行った時、空の紺青が私の中に入った。


      
〔…〕

 ……今、彼方では、日が暮れた……

 ……おお、もし時がその源に遡りうるものなら! そして、もし過去が戻って来られるものなら! ナタナエルよ、君を私の青春の恋に満ちた時期に連れて行きたい。その頃、生は私のうちを蜜のように流れていた。――あんなにも多くの幸福を味わったことに、魂はいつか慰められるのだろうか。なぜならそこに私はいたのだ、あそこに、あの庭に、この私がいたので、他の誰でもない。私があの葦の歌を聞いたのだ。私はあれらの花の香りを吸い込み、あの子を眺め、その子に触れた。――そして、春がやって来るたびにこのような楽しみを伴っていたことは事実なのだ。――だが、かつて私であった者、あの他者に、ああ! どうしたら戻ることができるのだろう。
〔…〕

『地の糧』「第八の書」より;二宮正之・訳.






      夜ふけに街の通りで

 道路の濡れた敷石に
 夜どおし街灯のあかりが映る――
 こんな遅い時間に起きているのは
 困苦と悪習だけだ。

 目覚めている者、苦悩に沈む者、

 わたしからのあいさつを受けよ、
 涙ぐんで哂
(わら)う者たち、すべて
 わたしの兄弟たち、あいさつを受けよ!



 

 

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