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スマトラの森林


 





      スマトラへの途上

 毎晩のように、夢に浮かされたわたしの眼のまえに
 故郷
(ふるさと)がまぢかに立つ
 それはまだわたしのものであるかのように。
 しかしまだ、わたしは旅をつづけなければならない
 辺鄙
(へんぴ)な離れ島の烈日の下で
 わたしの心臓を休ませなければならない
 きかない赤ん坊を揺らして、うたを唄って
 やすらかに寝かしつけるように:
 しかしわたしの心臓はすぐにまた不機嫌になって
 寝かしつけるのは容易でない
 まるで子供のように荒く弱々しい。



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      原始の森を辞す

 浜に出てトランクの上に腰かける
 下のほうでは汽船にむらがる
 インド人、中国人、マライ人
 大声で笑い、きんきらのがらくたを商う。

 すぐうしろには熱をおびた夜と昼、
 灼けつく森の生活がある、その思い出をわたしはすでに
 まだ原始の森の流れがかかとを浸しているうちに
 たいせつな宝物のように奥深くしまい込んでしまった。

 まだ多くの国々、多くの町をわたしはいつか訪ねるだろう
 しかし原始の森の夜、ぶくぶくと澱
(おり)を醸(かも)
 あの太古の森の庭、あの華美絢爛がわたしを引き寄せ
 驚かすことは二度とないだろう。

 この果てしなくかがやく野生のただなかで
 いままでになくわたしは人の世を忘れた――
 おおこれほどにも近くまた偽りなく
 おのれの魂の鏡像を覗いたことはなかったのだ。






 ヘッセの“アジアの旅”は、スリランカからマライ半島、スマトラ島へと向かいますが、体調を崩していたようです。おそらく、スリランカの不衛生な水と酷暑で弱りきった内臓が、船酔いに耐えられなくなったのでしょう。伝記によれば、赤痢にもかかっています。

 健康状態のせいか、道中に書いた詩は、インドネシア方面ではシンガポールの夜祭りぐらいが、めだったできばえで、ほかにはたいしたものがありません。

 そして、ふたたびスリランカ・コロンボを経由してヨーロッパへ帰って行きます。

 ↑おそらくコロンボ港での作品と思われますが、「原始の森の夜、ぶくぶくと澱を醸す/あの太古の森の庭、あの華美絢爛がわたしを引き寄せ/驚かすことは二度とないだろう。」と、まるで熱帯の風景に“訣別”を告げているかのような調子です。

 “もう二度と来るもんか!!”と言っているように聞こえますw

 ヨーロッパでは、あてどなくさまよう旅も、野宿も平気だったヘッセが、気候風土の違うモンスーン熱帯では、すっかりやられて憔悴してしまったようです。

 ジッドの訪れた“アジア”は、ヨーロッパのすぐ近くのアルジェリアで、しかもそこは当時、フランスの植民地で、フランス人もおおぜい住んでいました。しかし、ヘッセの訪れたのはインド、しかもその南端とインドネシアで、あまりにも条件が違っていたかもしれません。ヨーロッパ人は、乾燥した沙漠や荒野ならば耐性があるが、蒸し暑いモンスーン気候は苦手なのかもしれませんね。

 しかし、“アジア旅行”がヘッセに何も残さなかったのかというと、‥‥とんでもない!! むしろ、大きな影響をこの作家に与えたのだと、ヘッセの伝記は云います。



「アジアの町々での雑踏とあふれる人々とその活気。原始の森林とその中の獣や鳥や昆虫。それらに深い印象を受けはしたが、しかし結局はヘッセにとっては異郷であった。〔…〕

 それにもかかわらず、ヘッセはアジアの人々に心を惹かれた。アジアの風景や自然は美しく印象的であったが、彼がアジアの人間に見出したものはそれらよりも一層美しかった。〔…〕

 しかもヨーロッパ人が共通なものを持ち、アジア人はアジア人として共通なものをもちながら、『そういうものを越えて共通の所属性と共同性、即ち人類が存在するということ、そのことを私は時おりあらゆる感覚を通じてじつに新鮮に経験し得た〔…〕本でそれを読むのでなく、全く他郷の民族と共に、目と目でそれを体験するということは、何といっても無限に新しく貴重なことである。』

 それはヘッセにとって、この東南アジア旅行で得た最も大きな、貴重な体験であった。
〔…〕

 ヘッセはまた東洋人の宗教に深い関心と憧れとを寄せている。ヒンズー教徒、イスラム教徒、仏教徒、それらの宗教的礼拝と行事は美しく重要だという。献身的な真実の敬虔な宗教的感情、それがヨーロッパには欠けている、とヘッセには見えるだけに、それを東洋に見出したことがヘッセの心をうったのである。後のヘッセの仏教や儒教への深い関心と理解への努力の芽がここに本当に芽生えたといってよいだろう。」

井手賁夫『ヘッセ』,1990,清水書院,pp.82-84.

 


 『 』内は、旅行から5年後の『インドの思い出』(1916年)から引用されています。ヘッセは、帰国してしばらくして落ち着いてから、このように、旅行から得た深い印象と思索をまとめているのです。

 人は、体験の衝撃が強すぎると、そこから得たものをすぐにはまとめきれず、さしあたってその場では、消化不良を起こしてしまいます。しかし、だからといって、呑み込んだものをみな吐き出してしまうわけではなく、“未知との遭遇”によって揺さぶられた感性と記憶は確実に残り、その後長い時間をかけて、その体験以前に持っていたものとの折り合いをつけながら、消化してゆくのです。

 「アジアの風景や自然は美しく印象的であったが、彼がアジアの人間に見出したものはそれらよりも一層美しかった。」と、『インドの思い出』にそういう内容が書いてあるのでしょう、伝記作者は述べていますが、これはお世辞や外交辞令ではないと思います。ヘッセは、じっさいにそういう印象を得ていたのだと思います。ただ、その印象はあまりにも衝撃的にやってきたので、それらを目の当たりに受けた際には、どぎつく歪んで見えてしまったのではないでしょうか。

 しかし、私たちが伝記とは違った方向から、ヘッセの書いた詩のほうから見ていることには、やはりそれなりのメリットがあります。

 ヘッセは、↑上の『原始の森を辞す』の最後で、



「これほどにも近くまた偽りなく  おのれの魂の鏡像を覗いたことはなかったのだ。」


   と記していました。“ふるさと”のヨーロッパ世界の生活では、その伝統や常識や、人々の日常作法にしたがった生活のなかで、虚飾におおわれて見えなかった、ありのままの自分。――その“偽りないすがた”を目のあたりにして、はげしく揺さぶられたことが、この旅の体験の核だったのではないでしょうか?

 虚飾を剥ぎ取られた「おのれの魂の鏡像(meiner eigenen Seele gespiegeltes Bildnis)」――自己も他者も含めた、はだかの“人間”を発見した体験は、ヘッセの人間観を大きく揺さぶったはずです。外面はおそろしく違って見えるアジアの人間とヨーロッパの人間とのあいだに、「人間」という共通性、「人類」としての「共同性」を見ることにも、それはつながって行ったと思うのです。

 自己を深く見つめ、とらえなおし、ヨーロッパという一社会の制約の中での生き方を模索する方向性は、この東南アジア旅行で植えつけられたと言ってよいでしょう。、『デーミアン』以後のヘッセの作風の変貌は、その結実にほかなりません。しかし、それが本格的に展開してゆくためには、このあと第1次大戦という、いまひとつの大きな衝撃を経なければなりませんでした。




 さて、ヘッセはこのくらいにして、今回も、後半部はジッドの『地の糧』の続きを読んで行きたいと思います。




「完璧な行為というものは、いつでも官能の喜びを伴う。この官能の喜びを感じることによって、君はその行為がなすべきものであったと知る。〔…〕そして、ナタナエルよ、心から楽しめるということが、私にとって最も信用できる道案内なのだ。

 私は知っている。自分の体が日毎に官能の喜びをもって何を欲求しうるか、そのうちで私の頭が何に耐えうるかを。その後で、私は眠くなるだろう。そうなれば、地も天も、私にとって、もう何の用もない。

     
〔…〕

 ナタナエルよ、各人の不幸は、眺める主体が常に彼自身にとどまり、見えるものを自分に従属させてしまうことに由来する。それぞれの事物は、私たちにとってではなく、それ自体にとって重要なのだ。願わくは、君の目が眺められたものであるように。

 ナタナエルよ、私は君の甘美な名前を喚起せずには、ただの一句も書き始められなくなった。

 ナタナエルよ、私は君を生に蘇らせたい。」

『地の糧』「第二の書」より;二宮正之・訳.
 

 

 

 

 




 

 


「ナタナエルよ、君は私の言葉の帯びている悲壮な味が十分にわかるだろうか。私はもっと君に近づきたい。

 そして、たとえば、蘇生させるために、エリシャがシュネムの女の息子の上に身を横たえてやったように――『自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみこんで』――私の光り輝く大きな心をまだ闇に閉ざされた君の魂に押し当て、君の上に全身を重ね合わせる。自分の口を君の口に、自分の額を君の額に、君の冷たい手を自分の燃えるような手に、脈打つ自分の心臓を……(『すると子供の体は温かくなった』と書いてある)、こうして、君が官能の歓びのうちに目覚め――次いで私を打ち捨て――胸ときめく常軌を逸した新しい生をはじめるように。

 ナタナエルよ、これが私の魂の熱気のすべてだ――持っていくがよい。

 ナタナエルよ、私は君に熱情を教えたい。

 ナタナエルよ、君に似ているものの側
〔そば〕に留まってはいけない。決して、留まらないことだ、ナタナエルよ。〔…〕

『地の糧』「第二の書」より;二宮正之・訳.




 上に書かれているエリシャと「シュネムの女」の話は、旧約聖書の『列王記』4章18-37節に書かれていて、突然「頭が、頭が」と言って死んでしまった男の子に、預言者エリシャが蘇生術をほどこして生き返らせる場面です。キリスト教では、この物語に対して宗教的な解釈が加えられているようですが(新約聖書『ヤコブの手紙』1章17節)、ジッドはもちろん、宗教的な蘇生術として書いているわけではありません。

 むしろ、「脈打つ自分の心臓を」のあとを意味深に省略したりしていますw

 セックスの時に、こういう交わり方をする人は珍しいのでしょうか? 男女では、まずいないと思います。でも、同性同士ではどうでしょうか? ギトンは、とくに意識したわけではないのですが、ときどきこういう交わりかたをしてしまいます。身体のすべての部分を、同じパーツ同士でピッタリくっつけるのです。身体の大きさが違うと、全部いっぺんには合わないわけですが、身体をずらしながら一致させていきます。それで、なにか特別な快感があるとかいうことはないんですが、なんとなくやってしまってました。

 『地の糧』に書いてあるのでやってみたとか、聖書を読んで知っていたとかではありませんよw。このエリシャの話は、今回『地の糧』を読むまで、まったく記憶にありませんでした。はじめて読んだんだと思います。

 他の人からされた覚えがないところをみると、ホモなら誰にでもある性癖ってわけでもないんでしょうね。一種のナルシズムなのかもしれませんw



 ところで、ジッドは、「君が官能の歓びのうちに目覚め――次いで私を打ち捨て――胸ときめく常軌を逸した新しい生をはじめるように。」と言っています。「ナタナエルよ、君に似ているものの側に留まってはいけない。」とも言っています。

 これをそのまま実践すれば、つぎつぎに相手を変えてゆくということになります。決して褒められたことではないし、こういうことを続けると、病気をもらう確率も高くなります。しかし、性愛が、もともとそういう性質を持っているということも、たしかだと思うのです。

 水は高くから低きに流れます。それをそのままにしておいたら、水害が起きておおぜいの人が死にますから、人間は堤防を築いて自然に抵抗します。自然のままに生きることはできないでしょう。それは人間の性質に反します。しかし、自然とは――私たち自身が持っている自然も含めて――それが本来、どんなものなのかを知っておくこともまた、有意義なことです。

 




「ひとりの男の子が、塀に囲まれたこの庭園まで私の後を追ってきた。階段すれすれに伸びている枝にしがみついてやってきたのだ。階段はこの庭に沿って作られているテラスまで続いていた。入れるようには見えなかったのだが。

 繁みの蔭で愛撫した小さな顔よ! どんなに蔭を重ねてもお前の輝きを覆いつくすことはできないだろう。そしてお前の額におちる巻き毛の影はいや増しに濃く見える。

 私は、蔦や枝にしがみついてこの庭に下りていくだろう、そして網に囲まれた鳥小屋よりもさらに囀りに満ちているこの植え込みの下で、優しさ窮まってすすり泣くであろう――夕闇の近づいてくるまで、泉水の神秘に満ちた水が黄金に染まり、さらに深みを増して、夜を告げるまで。

 そして枝蔭でぴたりと寄り添った華奢なからだ。
 私は華奢な指でその真珠母色の肌にふれた。
 その華奢な足先が
 音もなく砂の上に下ろされるのを見た。

『地の糧』「第三の書」より;二宮正之・訳.




「真珠母(しんじゅぼ)色」: 20世紀前半にパリでパスキンという画家が、アコヤ貝の貝殻の内側のような、神秘的な薄桃色で女性の肌を描いたのが評判になり、「真珠母色」と呼ばれたそうです。ジッドの独創かと思ったら、当時の流行語だったのですねw こちらに、展覧会の写真が出ています↓。絵は大きく映っていませんが、どんな色なのかは、だいたいわかると思います。

  【参考】⇒:「真珠母色の肌 ~パスキン展~」



 この「真珠母色」以外に、色っぽい場面を想像させるような言葉が、ここにはまったく使われていません。書かれているのは、「華奢なからだ」と「華奢な指」、小枝と巻き毛の影、そして、少年の「足先が/音もなく砂の上に下ろされるのを見た。」というだけです。それでいて、これほど美意識をそそる描写を、ギトンは見たことがありません。



 

 

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