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スリ・ランカ、ピンナワラ「象の孤児院」


 





      原始林を流れる河

 それは数千年にわたってこの森を拔き
 褐色の裸の人間たちの樹と葭
(よし)との編み細工
 かれらの小屋が建ち、復た消えるのをずっと眺めてきた
 褐色の水はたえず押しよせ葉叢や小枝、原始の森の暗いへどろを
 巻きこみ、燃え熾
(さか)る烈日をうけて醸される
 夜になれば虎と象が蒸し暑く火照った身体
(からだ)
 浸し、その粘
(ねば)い情欲の咆哮が森に木魂する
 どんより濁った泥と葭の岸辺、巨体な鰐のざわめきは果てしない
 千古の歳月をくりかえす;おずおずと汀
(みぎわ)の蘆(あし)の間(ま)から
 ほっそりとした姿を現す野生のジャガー。

 いまわたしは蘆の小屋に住み軽
(かろ)やかな
 丸木舟を操って森の静かな日々を過ごす
 ここではめったに人の世界のひびきが
 眠りこんだ記憶を揺りうごかすこともない
 ところが黄昏となり、敵意にみちた気の早い夜が
 近づくとき、わたしは河に下りて耳を澄ます
 ここかしこ、ちかくまたとおく
 迷った叫び声が聞こえてくるのは
 闇にひびく人の歌声だ:
 小舟の上で日暮れを迎え
 胸も縮まる激しい恐怖に襲われた漁師たち、また狩人らが
 宵闇と鰐を子供のように怖れ
 夜になると黒い流れの上に漂う
 死者の霊を畏れて歌うのだ
 聞きなれない節回し、なじみのない言葉
 しかしその響きはわたしには
 ラインやネッカーの舟人たち娘たちが歌う
 夕べのうたの響きと何ら異ならぬ
 わたしは彼らの怖れを吸い彼らの憧れを吐く
 この手つかずの森、異郷の暗い河すじは
 わたしの故郷と変らない、人の棲むところ
 何処
(いづこ)でも人のかよわき魂は神々を呼び
 夜の恐怖を鎮めようとして歌うのだ。


 わたしは小屋に戻って危うい庇護のもと
 身を横たえる、夜と森の深みがわたしをとり囲み
 かん高く軋る蜩
(ひぐらし)の声
 やがて眠りがわたしをさそい、月が
 冷たく輝いてこのおぞましい世界を鎮めてくれるまで。






 こんばんは

 このところ忙しくて、更新が遅くなってしまいました。週2回のペースも、いつまでつづけられることやら。。。。



 さて、↑この原始林と川の風景も、スリランカの内陸部での体験と思われます。

 ヘッセは、「わたしは蘆の小屋に住み……森の静かな日々を過ごす」と言い、「この手つかずの森……は/わたしの故郷と変らない」と歌っています。まるで熱帯林での生活にも、すでに馴染んでいるかのようですが、それでいて、この詩全体のふんいきが伝えてくるのは、はじめて訪れた“異形のアジア”のナマの姿に、強い異和感と恐怖を抱いて戸惑っているようすではないでしょうか。

 ヘッセにとって、書物や思想ではない“体験”としてのアジアは、ちょっと荷が重すぎたのでしょうか?



 しかし、きょうの詩は長いので、ヘッセはこれひとつにしておいて、前回からのジッドの『地の糧』の続きを拾ってみることにします。





「ナタナエル、私はメナルクに友情以上のものを感じていた。もう一歩で愛になる感情だった。私はまた彼を兄弟のように愛していた。

 メナルクは危険だ。恐れるがよい。
〔…〕彼は子供たちにもう自分の家庭だけを愛するのではなく、徐々に家庭を離れていくことを教える。彼は子供たちの心を野生の酸っぱい果実を求める気持で矢も楯もたまらなくし、常とは異なる愛に心をくだかせる。ああ! メナルク、あなたとは、もっと別の道も駆けめぐりたかった。しかし、あなたは弱さを憎み、あなたから離れることを私に教えるのだと言っていた。

 どの人にも、常の自分とは異なるさまざまな可能性がある。
〔…〕

 可能な限りの人間性を敢然と引き受けること、これこそ良いモットーだ。  生のとるさまざまな形よ、すべてが私には美しく見えた(ここで言うのは、メナルクに言われたことだ。)

      
〔…〕

 そして私たちの生は、私たちにとって、氷のように冷たい水をなみなみと湛えたグラスのようなものであった、ということになるのであろう。熱のある者は、両手でこの濡れたグラスを握り、それを飲みたいと思い、一気に飲み干してしまう。実は待つべきだとわかっているのだが、こんなにも唇に快いグラスを退けることはとてもできない。それほどにその水は爽やかで、それほどに熱に焼かれた身は喉が渇いているのだ。」

『地の糧』「第一の書 一」より;二宮正之・訳.




 ここでジッドは、メナルクという人物から伝えられたことを、ナタナエル―――ある解説によれば読者自身―――に伝えるという形式で書いています。メナルクは、ジッドの日記にも現れる人物で、実在の友人だったようですが、実在であれ架空であれ、あるひとりの人から受取ったことを、またひとりの人に伝えるという、この小説のとっている形式に注目してみたいと思います。

 ジッドが著者として選んだこの形式は、ジッドがこれから語ろうとするものの性質を予示しているかもしれません。おおぜいの人の前での演説や説教のように、あるいは書物という形式で世間一般に対して開陳される一般的な知識としてではなく、ひとりの人からひとりの人へと伝えられる“知識”以前のものとして、著者は語ろうとするのです。

 またこのへんから、前段では理論的に、哲学のように述べていた内容が、具体的に、感覚をともなって語られはじめます。

 ジッドは、前段でも、



「ナタナエル、私は今までに他の誰も与えたことのない歓びを君に与えたい。〔…〕私は君のためにしか書かない、そういう時刻のためにしか君に向かって書かない。〔…〕君自身の熱情の投影以外のものは何もないように見える本、そういう本が私は書きたい。君に近づき、君に愛されたい。」

「メナルク、あなたは私に叡智を教えはしなかった。叡智ではなく、愛を教えた。」



 と書いていました。それらは、いわば、著者が語ろうとする内容の予告であったのです。

 そしてここでは、メナルクは「子供たちの心を野生の酸っぱい果実を求める気持で矢も楯もたまらなく」するとか、「私たちの生は、私たちにとって、氷のように冷たい水をなみなみと湛えたグラスのようなものであった、……熱のある者は、両手でこの濡れたグラスを握り、それを飲みたいと思い、一気に飲み干してしまう。」といった比喩によって、しだいに語りの内容が具体化してきます。



 ジッドは、この文章のもとになったアルジェリア旅行で、はじめて同性との性愛を体験したようです。しかし、この文章は同性愛を中心にしているわけではなく、テーマを支える要素のひとつとして、同性愛にも言及しているのです。

 テーマは言うまでもなく、実体験による感覚の、知識に対する優位ということです。このテーマをジッドは、ヨーロッパの精神的伝統からの大がかりな価値の転換として書いています。

 ひとつには、理性や論理的思考の優位という伝統をくつがえすことです。また、欲求(欲望)は対象を所有(支配)することを目的とする、とか、愛は情欲を超えたものでなければならないとか、そういった欲望・所有と理性・信仰との二律相反を乗り越えることです。

 西洋古代の伝統では、すべてを理解し把握している賢者の態度が尊ばれました。しかし、ジッドにとっては、「賢者とはあらゆる事物に驚く人」なのです。

 伝統によって確立された知識・叡智を体現している人が「賢者」なのではありません。あらゆる体験を、何も知らない無知な者のように虚心に受け取り、一瞬一瞬を、生まれたてのような新鮮な感覚で味わい尽くすこと。それこそが賢者の態度であり、「叡智ではなく、愛」を学ぶということなのだと思います。

 キリスト教の長い伝統によって“背徳”の色で塗られた同性愛を、まったく先入見のない心と感覚で、ありのままに描くことは、ジッドのこのテーマにふさわしい項目のひとつだったのです。

 そういうわけで、きょうの引用部分には、まだ同性愛そのものはほとんど語られていません。しかし、まもなく、自然とか、一日の始まりと終り、果物の味わいなどといった他の項目とともに、同性愛についても“特別な色を付けることなく”語るための伏線が、ここに置かれていると見ることができます。

 同性愛という項目を、予断なく受け入れるための“心の準備”を読者にさせている――と考えてよいのです。

 

 

 

 

 

 



 




「ナタナエル、さまざまな期待について君に語ろう。夏の野原が、待っているのを、私は見た。わずかな雨を待っているのだ。道の埃は軽くなりすぎて、風が吹くとすぐに土埃となって舞い上がる。それはもう欲求でさえなかった。恐ろしいほどの予感であった。地面は、乾き切って、できるだけたくさん水を飲み込もうというかのように、ひびわれていた。荒れ野の花の香りは耐えられないほどに強かった。陽光の下にすべてが絶え入らんばかりになっていた。私たちは毎日午後になると庭のテラスの下に行って、途轍もない日の輝きから少々身を隠して、憩いを求めた。それは、花粉をいっぱいにつけた針葉樹が悠々と枝を揺り動かして、遠くまで授精しようとする、そんな季節だった。空は雷雨をはらみ、自然全体が待ち構えていた。あまりにも荘重で胸苦しいような一瞬だった。鳥さえも、皆、黙ってしまったのだ。地表から、実に熱い、燃えるような風が吹き上がり、なにもかも萎えてしまいそうな感じだった。針葉樹の花粉は金色の煙のように枝から流れ出た。――ついで、雨が来た。

 空が暁を待って震え立つのを、見た。一つまた一つと、星が淡くなっていった。牧草は露にしっとりと濡れていた。空気の肌ざわりは氷のようだった。しばらくの間、混沌とした生はまどろみ続けたい様子だった。
〔…〕動物たちは日が必ず昇ると信じてそれぞれに活動し始め、喜びを取り戻した。そして、生活の神秘は、木の葉の縁のあらゆる切り込みから、ざわざわと存在を伝えはじめた。――ついで、日が出た。

 もっと別の曙も、私は見た。――夜に対する期待も、見た……

 
〔…〕やって来るものすべてを期待したまえ。しかし、やって来るものしか欲求しないように。君の持っているものしか欲求しないように。日々の一瞬一瞬に神をそっくり所有しうることを理解したまえ。君の欲求が愛にもとづくものであるように、君の所有が愛に満ちたものであるように。そもそも実効のない欲求とは何なのか。

 何としたことか、ナタナエル! 君は神を所有しているのに、気づかなかったとは。
〔…〕神を幸福と別のものと思ってはいけない。そして君の幸福のすべてを一瞬一瞬のうちに籠めたまえ。

      
〔…〕

 夕べには日がそこで死に絶えるものと心得て、朝には万物がそこに生まれ出るものと思いたまえ。
 君の視覚が一瞬ごとに新たなものをとらえるように。 

 賢者とはあらゆる事物に驚く人だ。」

『地の糧』「第一の書 三」より;二宮正之・訳.




 ここでは、いよいよ具体的に自然の体験が描かれています。

 しかし、前段までとは少し考え方が変ってきているのではないかと思われるふしもあります。たとえば、



「やって来るものしか欲求しないように。君の持っているものしか欲求しないように。」


 と言い、ここでは欲求(欲望)に制約の枷をはめているようにも見られなくはありません。

 また、



「どの人にも、常の自分とは異なるさまざまな可能性がある。……

 可能な限りの人間性を敢然と引き受けること、これこそ良いモットーだ。」



 という前段での“テーゼ”は、「やって来るものしか欲求しない」ことによって放棄されているようにも思われます。「やって来るものしか欲求しない」ことは、「可能な限りの人間性」、つまり“何にでもなれる”こと、“何にでもなろうとする”こととは矛盾するからです。

 しかし、ジッドのここでの基調は、自然に対して虚心に向かい、自然の与えてくるものをありのままに受けとることにあるのだと思います。自然の与えてくる条件が、どんな人間性を要求するか分からない、しかし、どんなものであっても「可能な限りの人間性を敢然と引き受ける」のがよい、ということなのでしょう。「やって来るものしか欲求しない」ということも、同じ意味に理解できるでしょう。

 感覚が予感しないものを、書物や理性が押しつけてきたからといって、従う必要はないのだ、と言っているのだと思います。



 ギトンとしては、ジッドのこの説を絶対視したいとは思いません。私たち東洋人にとっては、むしろ逆に“感覚主義”のほうが伝統として根づいているように思うからです。世界ではじめて、自然を描いた風景画が流行したのは、中国の江南で興った山水画だったと言われています。その流行を導入して、日本の水墨画から大和絵に至る伝統が形づくられました。

 ですから、私たちにとっては、西洋の“理性と論理の伝統思考”にも学ぶべきところは多いのです。

 しかし、ひとくちに“感覚志向”と云っても、いろいろあります。ジッドの“感覚志向”がたいへん好ましく思えるのは、それが心の内側ではなく、外部の世界を向いているからです。中国や日本の伝統が、内へ内へと向かう感覚主義だとすれば、ジッドの感覚主義はそれと対極にあります。

 “人が世界を生かしているのではなく、人が世界に生かされているにすぎない。”――この自明な真理を忘れないことが肝要だと思うのです。




「浜辺の砂は心地よいと読むだけでは私は満足できない。裸足でそれを感じたい……まずはじめに感覚によって捉えられたのでないような知識は、私には一切無用だ。

 この世で艶に美しいものを見ると、自分の愛情のすべてを挙げてそれに触れたいと即座に願わずにはいられない。大地の官能に満ちた美よ、大地よ。お前の面が咲き初めるさまは驚くほどすばらしい。私の欲求の突き入った景観よ!
〔…〕


 諸々の現象の変幻極まりないこと。

 その日以来、私の生活の一瞬一瞬は、絶対に表現不可能の賜物として新鮮な味わいをもたらすようになった。こうして私はほとんど常に情熱を帯びた茫然自失のうちに生きた。あっというまに陶酔に到り、一種の眩惑のうちに歩くのを好んだ。

 そう、唇に浮かんだ笑いに出会えば、かならず口付けがしたくなり、頬に上る血、目に湛えられた涙は、飲みたくなった。枝の差し出す果物はすべて果肉をがっぷり噛みたくなった。
〔…〕自分のさまざまな欲求を記すためにもっと別の表現がほしいと思った。

  道が開けていれば、歩きたい
  木陰が招けば、休みたい
  深い水の縁に出れば、泳ぎたい
  ベッドに出会うたびに、誰かと寝たい、あるいは眠りたい。

 私は大胆にも出会うものことごとくに手をつけた。自分の欲求の対象なら、自分は何に対しても権利があると思ったのだ。(それに、ナタナエル、私たちが望むのは所有よりは、愛なのだ)私の前では、ああ、すべてのものが虹色に彩られ、すべての美が私の愛をまとい、私の愛で飾られるように。」

『地の糧』「第一の書 三」より;二宮正之・訳.





 

 

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