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フェラーラ,イタリア.


 



      死の王国

 すべての灯りは消えた
 家のなかに夜が忍びこんでくる
 まばゆい昼間の亡霊は
 あおざめて去ってゆく

 わたしに忘却を供してくれた
 あの杯
(さかづき)は消え失せた
 わたしの頭は灰になり
 愛する者はみな死んだ

 わたしは紫の衣
(ころも)をまとい
 わが王国を眺めわたす
 通りも庭も雪が積み
 そらは力なく薄暗い

 わたしの頭は灰のよう
 銀のほつれを風に振る
 塔の高みで夜警の者が
 死んだ時、過ぎ去った時を告げ知らす







 意外にも、これはヘッセの若い時の詩なのです。頭が「灰」だと言うのは、むろん白髪が混じって灰色になるということですが、黒髪の私たちが持つ“灰色の髪”のような極端なイメージではないかもしれません。シラガにならなくても、彼らの髪は茶色だったり黄色だったり、もともとふだんから明るい色なのです。そこで、原語の「灰色(グラウ)」を「灰色」とせずに、訳しかたを工夫してみました。

 しかしそれにしても、ここに表白されているのは、“手ごたえのない人生感覚”とでも言うべきものです。“わたしが愛した人はみな死んでしまった”―――人生の中で出会った人に、どんなに深い愛をつぎ込んでも、いつのまにか愛の対象が死んで居なくなってしまうというむなしさ。そんなことが繰り返されると、もうどんなことをしても無駄に帰してしまうのではないか‥‥という徒労感に、前途を塞がれてしまいます。

 なにか大きな困難に行く手を塞がれているというよりは、“のれんに腕押し”のような感覚、‥壁があるのなら、乗り越えようとしてがんばることもできるかもしれませんが、壁のような堅いものではない、押せばずぶっと入ってしまって、つかみどころも何もないのでは、なすすべがありません。そういう感覚です。



 「死んだ時」とは、誰かが死んだ時という意味ではなく、「時」そのものが死んで過ぎ去るということです。

 

 

 

 





 

 「天(あめ)の下に新しきことなし」「すべては空(くう)なり」という感覚は、わたしたちの文化にもある“無常感”と、よく似ているように思うかもしれません。しかし、東洋のわたしたちが好む仏教的な“無常感”とは、かなり違うのではないかとも思います。それは、↓下の詩を読んでみると、わかるのではないでしょうか?

 西洋の人の“無常な世界”は、それがいかに変転恒なき、頼りない世界だとしても、そこには常に唯一の“神”が居て、そこで起こることがらのすべてをじっと見そなわしているのです。

 いやいや、仏教だって、お釈迦様がいつもじっと見おろしているではないか? と言うかもしれません。しかし、仏教の如来と、キリスト教の神では、人間に対する接し方がまるで違うような気がします。もうこういう議論になると、ギトンには何が何だかわからなくなってしまいますが、‥‥しかし、“違う”という感覚は、下の詩から確実に解っていただけるのではないかと思います。





      伝 説(サーガ)

 王は武士(もののふ)郎党を並(な)め夕の宴(うたげ)の席に就く
 臆病な鳥がふらふらと饗餐
(きょうさん)の間を飛び過ぎる

 王は云う:》汝ら友よ、忌憚なく余に述べてみよ、
 ここに過
(よぎ)れる我らが鳥は、なにがしの譬(たと)えにあらざるや?

 闇より出で復
(ま)た闇に入ること忙(せわ)しなく
 光にあるは一刹那。

 死すべき我らも彼方より来て彼方に消ゆる
 跡も無く、光に居
(お)るは幾日ぞ《

 もののふの対
(こた)えて曰(いわ)く:》かの鳥とても
 憩うべき場は知りはべり、そは彼
(かれ)の故郷(ふるさと)たるべく。

 夫
(そ)も人の生は虚しき夜半(よわ)の夢にして
 我らは貧しき眠りびと;されど神は目覚めたまう《



 

 

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