運 命
ぼくらは怒りと無理解のうちに
まるでこどものように別れてしまった
愚かな羞恥にしばられて
たがいを避けるようになった
そのあと、悔いて待ち設ける
ながい歳月がすぎた
ぼくらの青春の園には
もうどんな道も通じてはいないのだ
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日々のなんと……
日々のなんと重苦しいことか!
手をかざしてあたる火もなく
微笑みかける太陽もなく
なにもかも虚しく
なにもかもが冷たく無慈悲だ
愛らしく透きとおった夜空の星までも
わたしを荒涼と見据えている:
愛は死ぬことができるのだと
わたしの心が知ったその日から
説明の必要はないくらい詩の意味は明らかでしょう。それでも、ふりかえって見える“愛し合った時間”は、“若さの園”として、周囲から隔絶され、垣根で囲まれた庭園として形象化される点がヘッセらしいと言えます。
進行中の“愛”は永遠の感覚をともないます。“愛”を一歩手前から見ていた時の憧れが、なお続いており、しかも“愛”の向う側は見えないからです。
“愛”の向う側が予め見えてしまうとしたら、不幸なことでしょうか? かならずしも、そうは言えないでしょう。向こう側の状況は一種類ではないからです。“別れ”があるとは限りません。“別れ”だけが見えるとしたら、それは気の早い決めつけにすぎません。
ともかく、人は変るものです。“永遠”を手に入れたいと思うなら、人たることをやめるほかはない。これは皮肉で言っているのではありません。私たちは、“永遠”に近づこうとして、たとえば植物を見習うことができます。樹や草は、生きているかぎりその場を動くことができません。隣りに気に入らない草が生えたからといって、避けて行くことはできないのです。そして、樹々は個体の存在が明瞭ではありません。大きな樹は、全体が一個の個体であるというよりは、たくさんの“個”が同居する団地のようなものです。毎年春になると芽吹く新しいシュート(小枝)のひとつひとつが一個体であるとも言えます。枯死したかのように見えた老木が新たに芽吹いたとき、私たちは樹が生き返ったと思いますが、かつて生きていた樹とは別の新たな個体が、枯死した幹の空洞に沿って生長してきたと言うほうが真相に近いかもしれません。
情 慾
滾(たぎ)り落ちるもの、燃えあがるもののほかには
なにもなく、焔(ほむら)のなかへ盲目に突き進む、
われを忘れ、終りなき炎に
身を捧ぐるもの:生命!
されど、ふいにつらぬく不吉なおののき
かぎりない幸福に酔いしれていた心は
怯(おび)えたようにうしろを振り返る
愛の只中に死の匂いがただよったのだ……
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