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D.G.Rossetti: Self-Portrait(1847)Wikiarts public domain


 

 


      肖 像

 気高く、美しく、謎めいて

 口には嘲笑、額(ひたい)には自尊
 情熱に燃える瞳がこちらを
 じっとみつめている――金色の束、
 嵩
(かさ)のある巻き毛がおまえの肩をおおう。

 ぼくは朗らかに明るい笑顔でおまえを見、
 息苦しい寝床から夜々とび起きては
 もつれた髪でおまえを見、幾度となく
 おまえと目を合わせたが、おまえはいつも
 気高く、美しく、謎めいていた。





 ↑この詩は小説『デーミアン』の関連作品……、ということで、『デーミアン』の紹介文をネットで探してみたのですが、たくさんのブログで扱われているわりには、おすすめできる正確な内容のものが無くて困りました。

 この人、ほんとにヘッセの『デーミアン』を読んだんだろうか、と思うようないいかげんな感想文が少なくありません。しかも、そういうのに限ってアクセスが多いときているw まったく、インターネットは、少なくとも日本語のは、信用できませんねww

 しかし、まじめに読んで書いているブログでも、あらすじの内容は千差万別なのです。。。 同じ小説とは思えないくらいバラバラです。誤解して読んでいる場合もあります。種々の翻訳本の違いもあります。しかし、『デーミアン』自体が、さまざまに読めてしまう、万華鏡のような小説なのかもしれません。光を当てる方向によって、まったく違って見えてしまうのです。

 いつも参照している朝日出版社の「世界文学案内」サイトには、『デミアン』はまだ収録されていませんでした。標準的なあらすじを書くのは難しいのかもしれません。



 千差万別のなかでは、↓こちらのあらすじがおもしろいと思ったので、リンクを貼っておきます。あくまでも、ひとつの“読み方”です。“そういう読み方もあるのだな” と思って、ご覧ください:

 【あらすじ】⇒:『デーミアン』- 卵の中の戦争



 たとえば、この小説の最後で、戦争で負傷して野戦病院に横たわっているシンクレアの前にデーミアンが現れて、口にキスをして去ってゆく場面がありますが、これを、シンクレアが見た夢と思うか、偶然だが現実だったと思うかで、小説の印象も解釈もまったく異なってくると思います。

 夢として読む読者が多いかもしれませんが、作者ヘッセは、夢か事実か、あいまいにぼかして書いているようにも見えます。

 ギトンは最初読んだ時、当然に現実のこととして読んでいました。不思議な偶然だけれども現実に、デーミアンとシンクレアの再会が実現したのだと思いました。シンクレアの睡眠中の夢としても読めることは、ほかの人の感想を読んではじめて知ったくらいですw

 主人公の青年シンクレアにとって、デーミアンは、現実の恋人以上に、生きてゆくうえで無くてはならない存在なのですね。デーミアンとの現実のつきあいは、誰かがあらすじで書いていたように“付かず離れず”なのですが、シンクレアの心の中にはいつもデーミアンが居て、ときどき無性に、現実のデーミアンに会いたくなるのです。

 そういう対象を、私たちゲイは、ヘッセの小説のような夢や瞑想の中ではなく、現実の同性の中に探し求めようとします。それが、私たちの“さが”なのです。

 自分の中に抱いた虚像を、現実の相手に圧しつけているだけじゃないか‥‥と思われるかもしれません。でもそれは男女間の恋愛だって同じでしょう。これを“恋”と呼ぶかどうかはコトバの問題です。少なくとも、男女間の現象と同じ構造をもっていることはたしかです。

 そして、それがゲイ同士ならば、現実的な結合としても十分に成り立つのです。

 もっとも、ヘッセの描く同性の“恋”は、ゲイにとって“ふつう”の同性愛――同性の性愛を、大きく超え出ているようにも思われます。同性愛のようにも、自己愛(ナルシズム)のようにも、なにか神秘的なサイコのようにも、それらすべてを超越しているようにも見えます。現実の同性愛を、ヘッセが精神的に昇華させて書いているのかもしれませんが、それだけではないようにも思います。

 ヘッセは、ギトンにとってはまだまだ謎の部分が大きいのです。

 





 

 ラテン語学校――いまの日本の中学校にあたる学齢でしょうか?――に入学した 10歳のエーミル・シンクレアは、“ふたつの世界”のあいだを行きつ戻りつして生活していた。一方の世界は彼の生家が属する、敬虔なキリスト教徒の中産階級の明るい清潔な世界。そこでは、厳格な規範と躾けが支配している。もうひとつは、第一の世界とすぐ境を接して広がる、猥雑で激しい下層階級の世界。そこでは、監獄や酔っ払いや喧嘩沙汰が茶飯事で、不気味な怪談と謎と闇が、いつも蠢いている。

 そのシンクレアの前に、マックス・デーミアンという年長の生徒が転校してきた。校外の不良に脅されて小銭を貢ぐはめに陥っていたシンクレアを、デーミアンが救ったことから、ふたりは友人になる。




「ぼくはデーミアンをちらちらうかがった。〔…〕好感が持てる顔とはちがう。むしろ違和感を覚えた。偉そうだし、冷たい感じだし、嫌というほど自信満々に見えたからだ。それに大人の目をしている。子どもが好まないまなざしだ。すこし悲しげで、皮肉のこもった光が走る。それなのに、ぼくはどうしても彼を見ずにいられなかった。けれども彼が顔を上げると、あわてて目をそらした。」

坂寄進一・訳『デーミアン』,光文社文庫,p.45.

 


 デーミアンは、シンクレアが行き来していた“ふたつの世界”のどちらにも属さない人間なのです。第一の“清潔で明るい世界”に対しては、「皮肉のこもった」眼を向けて軽蔑し、おテイサイのよい偽善を容赦なく暴いて見せます。もうひとつの猥雑な世界に対しては、圧倒的な精神の力を及ぼして、そこに属する矮小な人々を意のままに操るとともに、冷徹な学者のような眼で、じっと観察しています。そうして、第二の世界の“闇と謎”にシンクレアを導いて行くのです。

 「デーミアン」という名前は、「デーモン(魔人,悪霊)」から来ているという解説もありますが、「デーミアン」の「デー(de)」は、「デーモン」の「デー(dä)」とは綴りも発音も違います。ヘッセはむしろ、「デームート(Demut: 謙遜,へりくだること)」から造語したのではないかと思います。まるで超能力者のような人並外れた力を持ちながら、それを決して表面には出して見せない彼の人物相を表しているのだと思います。




「それは夢のなかだった。乱暴狼藉を受ける夢を見たとき、ぼくを組み敷いていたのはクローマー〔シンクレアから金を巻き上げていた不良――ギトン註〕ではなく、デーミアンだったのだ。そして――いままでになかったことなので、衝撃的だったけれど――クローマーのときには苦渋に満ちていたことが、デーミアンの場合だと受け入れられることに気づき、歓喜と戦慄に打ち震えた。」

坂寄進一・訳『デーミアン』,p.56.

 


「目を閉じると、デーミアンの姿が目に浮かぶ。あれはどこだったろう。そうだ、思いだした。うちの前の路地。ある日、彼が立っているのを見かけたのだ。〔…〕注意深く、冷静で明るい表情。〔…〕明るく涼しげな物知り顔のまなざしに、ぼくは深く感動した。

      
〔…〕  ぼくはデーミアンの顔を見る。少年の顔じゃない。一人前の男の顔。しかも男の顔にとどまらないなにかが見えたような気がした。女の顔らしきものがそこに見えたのだ。つまり彼の顔はほんの一瞬、男っぽくもなければ、幼くもなく、年齢を感じさせず、何千年も時を経て時間を超越し、ぼくらとはまったく異なる時代の刻印が押されているように見えた。」

坂寄進一・訳『デーミアン』,pp.80-81.

 


 デーミアンの特異な点は、一種の読心術によって人を動かせることだった。彼は、席替えを意のままに起こさせてシンクレアの隣の席に移って来たうえ、授業中に他の生徒の行動を予言―――したのか行動を支配したのか―――した。また、聖書の教義をまっこうから批判して、シンクレアを“明るい世界”から引き出し、もうひとつの暗い世界にも目を向けさせた。



「デーミアンが口にした新しい考えは不吉な響きを帯び、ぼくが堅く信じていたことを引っくり返しそうになった。〔…〕

 ぼくがなにか言うよりも早く、デーミアンはいつものように、ぼくに異論があることを察した。

 『
〔…〕神は万物の父として讃えられるけど、命の土台である性については口をつぐみ、ひどいときには、魔性の業、罪深い業だと言うこともある。〔…〕讃えるのなら、この世界まるごとを讃えるべきだ。すべてを神聖なものと見なさなくちゃ。〔…〕神だけでなく、悪魔も崇拝しなくちゃ。そうすべきだと思う。さもなければ、悪魔をうちに含む神を創りださなくちゃ。そういう神の前なら、この世のごくあたりまえのことに目をつぶらなくてもすむようになる』」

坂寄進一・訳『デーミアン』,pp.95-96.

 


 ギムナジウム(高校から大学教養課程にあたる)に進学してから、シンクレアはデーミアンとほとんど会わなくなっていた。ところが、そのころ公園で見かけて心惹かれた少女の肖像画を描いているうちに、無意識にデーミアンの肖像を描いていたことに気づく。

 シンクレアが心惹かれた少女は、手足が長く、すらっとして少年ぽい顔立ちだった。しかし、その少女に話しかけようとはせず、もっぱら崇拝の対象にした。はじめは勝手に「ベアトリーチェ」と名づけて、ロセッティ(↑自画像参照)の描いたベアトリーチェの絵の複製を見ていた。やがて、その絵は公園の少女に似ていない気がして、テンペラ絵具を買ってきて自分で描こうとした。何度も失敗しながら、その絵だけを描きつづけた。




「ある日、一心に描いているうちにひとつの顔を完成させた。〔…〕それはそれ以前に描いたどんな絵よりも力強くぼくに語りかけてきた。しかもあの子の顔ではない。〔…〕女の子というより少年の顔。〔…〕

 男性のようでいて、女性のようでもあり、年齢不詳。〔…〕だれかに似ているけれど、それがだれかわからなかった。

 その絵が気になって、しばらくのあいだ寝ても覚めても頭から離れなかった。
〔…〕自分のへやでひとりきりになると、その絵を取りだして、話し相手にした。夜になると、ベッド脇の壁紙にピンでとめて、寝るまで眺める。朝、最初に目にするのもその絵だった。

 ちょうどその頃から、しきりに夢を見るようになった。
〔…〕絵に描いたあの肖像も夢にあらわれた。どんどん生き生きしてきて話しかけてくる。やさしいかと思うと敵意を見せる。〔…〕

 ある朝、そういう夢から覚め、とつぜん気づいた。〔…〕栗色の豊かな髪、女性っぽい唇、力強く、やけにてかって見える額(これは絵が乾燥していたせいだ)。見覚えがある。そうだ、きっとそうだ。

 僕はベッドから飛び起き、その肖像画を身近に見つめた。大きく見ひらいた緑色のこわばったまなざし。
〔…〕そのとき、右目がぴくりと動いた。かすかだけれど、はっきり動いた。もう疑いようがない……。

 どうしてこんなに長いあいだ気づかなかったのだろう。これはデーミアンの顔じゃないか。」

坂寄進一・訳『デーミアン』,pp.124-126.

 


 当時はドイツでも、写真はまだあまり普及していなかったと思います。おおぜいで記念写真を撮しても、ひとりひとりの顔立ちがはっきりとわかるような写真は撮れなかったと思います。卒業アルバムや、機会を得て撮ったスナップ写真をたいせつに保存しておいて眺めるようなことは、当時はあり得なかったのです。

 客観的な写真ではなく、心眼に残る映像を写しとるように絵筆で描いた時代を想像しながら読まないと、↑ヘッセのこの叙述は解らないのかもしれません。

 機械的に正確な写真や動画と、自分で描いた絵と、どちらが実物に近いのか? 描いた絵のほうが、ずっど立体的で、肉付きと表情にみちているような気がしませんか? ‥形や色が似ているかどうかではなく、現実に“近い”かどうかです!

 ギトンのブログを永いこと見てこられた方はお気づきと思いますが、ギトンは静止画像はよく貼りますが、音楽以外の動画は貼りつけません。貼りつけないのは、自分でも見たいと思わないからなのです。動画は、静止画像以上に現実から離れてしまうような気がします。



 ちなみに、ネットに出ている『デーミアン』のあらすじは信用できないという話を最初にしましたが、ほんとに、少なくとも検索に引っかかる日本語のあらすじには、正確に書かれたものは一つもありません! ギトンが上に書いたのも、あくまで肖像画の詩に関係する部分の要約だけです。『デーミアン』全体のあらすじを書くことは、とっくに断念していますw ‥ですので、読者はぜひ紙の本で『デーミアン』を買って(わずか数百円です)自分で読まれるようにお勧めします。




「『ぼくらの胸中には、すべてを知り、すべてを欲し、ぼくらよりもなんでもうまくやってのける存在がいる。それを知っておいても損はないぞ。』

 ぼくは、窓にとめたあの肖像画を見た。すっかり色褪せてしまったけれど、肖像の目は燃えるようだ。デーミアンのまなざしだ。あるいは、ぼくの胸中にいるだれか。すべてを知っているだれか。

 デーミアンに会いたくてしかたがなかった。」

坂寄進一・訳『デーミアン』,p.135.


 

 

 

 

      一枚の肖像に寄せて

 情をこめて描かれた風変わりな色あいのなかから
 暗いひとみがのぞいている、もの想いにしずんだ
 東洋風の眼が、にぶい光を
 なげかけている。

 力のこもった静かな口もと
 苦痛にたえているようでもある
 苦い果実をためしに齧ってみた
 その苦痛に没頭しているように見える
 禁断の果実をおそれるかのように
 しかし彼はそれが欲しくてたまらないのだ。



 

 

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