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      若き日の肖像に寄せて

 そう、伝説にもひとしいかなたの時から
 若き自画像がわたしを見つめ、そして問う:
 かつて真昼のように照らしていたひかりの
 燠
(おき)のいくぶんかでも、いま残っているのかと。

 かつてわたしの前に延びていた道は
 多くの苦痛と暗やみ、血と肉への
 苦き変換をもたらした;その道を
 また辿ろうとは思わない。

 されどわたしは己れの道を誠実に歩いた
 その記憶はかけがえがないと思う
 多くのまちがえがあり、多くはあべこべだったが
 わたしはこの道を進んだことを後悔しない。






 壮年(53歳)のヘッセが残したこの詩は、題名の「若き日の肖像(Jugendbildnisse: 青年時代の肖像たち)」がなぜ複数になっているのか、どうも気になります。本文では「自画像」は単数なのに、題名でだけ複数なのです。

 おそらくこの「若き日の自画像たち」とは、青年時代のヘッセと同じ悩みを抱え、同じ途を歩んで行こうとしている若い人々を指しているのではないでしょうか。そうした人々の姿を見るにつけ、若き日の自身を思い返して語っているのではないでしょうか。

 

 

 




 

 ところで、上の詩は 1930年のもので、この頃になるとヘッセの詩も、円熟したと言うのか‥、一見平明で易しいことを書いているように見えるかもしれません。平板でつまらないとさえ思うかもしれない。しかしじっさいには、一見難しそうな初期の詩よりもずっと錯綜した、複雑な内容を追っているのだと思います。

 それなのに、どうして複雑さが“見えない”のかと言うと、ヘッセは、ふつうの人が論理で思考するところを、論理ではなく感情で思考しているからではないでしょうか? 感情に導かれて進んで行くのを“思考”とは言わないかもしれませんが、ともかく彼が手にして歩いている杖は、論理でも思弁でも概念操作でもなく、感情です。

 たとえば、最後の行で、「わたしはこの道を進んだことを後悔しない。」と書いていますが、なぜ後悔しないのか、論理的な説明は無いのです。しかし、説明がないから説得性がないとも言えない。むしろここは、理屈であれこれ言われるよりもずっと説得力がある、確信をもたらしてくれると言えるのではないでしょうか。

 「己れの道を誠実に(in Treuen)歩いた」は、「己れの道を正しいと信じて歩いた」としたほうが、忠実な逐語訳かもしれません。「イン トロイエン」は、スイス方言で「正しいと信じて」という意味らしいです。「正しいと信じて歩いた」、しかし、「多くのまちがえがあ」った。それなのに、「わたしはこの道を進んだことを後悔しない。」―――どうして「後悔しない」のか? 理屈では筋が通りません。この最後の行の説得力を支えているのは、論理ではなく感情です。

 しかし、“感情”に導かれているとは言っても、衝動や情緒(センチメンタリズム)に流れているわけではありません。「己れの道を……歩いた」思い出が、甘美でなつかしいから、それを正当化してしまおうとしているわけではないのです。むしろ、“これでよかったのだ”という作者の確信を支えているのは、「誠実に歩いた」、見せかけでも、ごまかしでもなく「正しいと信じて」歩いたという、誤りのない記憶なのだと思います。



 若い人の詩や散文に対する選者の批評、また、有名な作家・詩人のまだ未熟な時の作品に対する批評の中で、情緒に流れている、センチメンタリズムに陥っているというマイナスの評価が、しばしば加えられます。しかし、この種の批判の意味が、これまでギトンには、どうしても理解できませんでした。いや……十年以上考え続けても、わからなかったのですw 情緒に流れてはいけないのだとしたら、感情を排して書かなければならないのか? それでは詩にも小説にもならないではないか?!‥

 ヘッセを読み始めてから、そのへんがようやく解るようになってきた‥もつれていた糸が解きほぐれてきました。

 情緒は、感情の特殊な一部にすぎないのです。情緒の流れに対して距離をおきながら、なお感情を導きの糸とすることは可能なのです。



 感情は、しばしば論理以上に、真理の在りかを私たちに知らせてくれます。

 そういえば、




「ひとは、努力するかぎり間違うものだ(Es irrt der Mensch, so lange er strebt)」



 と、ゲーテも言っていましたね。

 「まちがった道だから、そっちへ行くな。」とは、ヘッセは言いません。間違えなのか、そうでないのか、けっきょくは誰にも分らないでしょう。それでも、「己れの道を誠実に歩」いているかぎり後悔することはない、と言っているのです。






      花咲く繁みに寄せて

 ひとのひとたるゆえの激情と罪とは
 生のあらゆる瞬間に割りこんできて
 わたしたちは犯しあい、病
(やまい)に陥いるのだけれども;
 自然もまた無数の泉からあふれ、明るくかつ忍耐づよく
 際限なくわたしたちに流れこんでいる:それは
 獣の眼の奥で、樹と花の向うで、わたしたちに危険を知らせ
 完全で美しく、幻想に迷うことがない
 焦りも不正も、見かけをとりつくろうことも自然は知らない
 わたしたちをやわらかく包む花々によって
 罪なく生き、悲嘆なく死ぬことをそれは教えている。


 

 

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